外山滋比古著「日本語の作法」を読んだら、ちょいと関連しそうな他の本にも触手がのびました。ということで、これも新刊の林望著「日本語は死にかかっている」(NTT出版)を手にとりました(前回味をしめたので、こちらも後ろから読み始てみました)。
一冊の結構がありますので、手紙が時候の挨拶からはじまるように、段取りを踏んで本の内容が進んで行くようなのでした。すると、後ろから読み始めると、いきなり活況を呈した話題で盛り上がっている可能性が高い(笑)。
そういえば、慶応のご出身の林望氏でした。何げなくも、それに関する話題があったりします。第三章「偉ぶる男は卑しい男」には、こんな箇所。
「私などは、幸か不幸か文学部だったから、周りには女子学生がたくさんいた。慶應の国文科は、当時だいたい男女半々という感じだったから、つまり純然たる共学であった。・・・」(p80)
ちなみに、林望氏は1949年生まれ。ということは59歳ですか。
「また福澤諭吉は、学問を軽んずべしということを常々説いて、学生に注意を促した。その『学問に凝る勿(なか)れ』という演説のなかで、こう言っているのは、すこぶる聞くべきところであろう。『左(さ)れば老生が常に云う学問に重きを置くべからずとは、之を無益なりと云うに非ず、否(い)な、人生の必要、大切至極の事なれども、之を唯一無二の人事と思い、他を顧みずして一に凝り固まる勿れとの微意のみ』(福澤諭吉著作集第五巻)と、こう言っている。いわゆる学匠(がくしょう)沙汰を戒めて、つねに知識を広く世に役立てるように注意を促しているのである。こういう先覚の箴言を心に潜めてせいぜい偉ぶったり人を見下したりしないように、いつも自分を下目下目内輪内輪に見積もって過ごすとうことが、ことばの使いようについても、とくにとくに大切なところだということである。」(p129)
外山滋比古氏のエッセイには、印象深い先生が、ちょいちょいと登場するのでした。ところが、林望氏のこの本では、先生の弊害を指摘していたりします。二冊を比較して読むと面白い。語尾の「ネ」に関しても林氏は、「私などは、『なんとかでね』という『ね』が語尾に多いんですよ『ね』。」(p167)とあり、外山氏の本には「キミはネを繰り返していたが、いかにも押しつけがましく、第三者が聞いていても快いものではない。」と、部下に語るセンスのすぐれた部長が登場しました。え~と、ちなみに外山氏は1923年生まれ。
話を戻して、これも福澤諭吉を思いうかべてしまう箇所。
「やっぱりね、何事も自助、Self-helpなのである。
結局、自らを教育する者でなくては、どんなインテリジェンスも身につかない。
誰かに教えてもらおうというような心がけでは、どんな技術も身につかない。
お料理学校に行って料理を学ぼうとか、英会話の学校に行って、英会話を学ぼうっていうのは、私は間違った考えだと思う。そういう受け身で、誰かが自分に教えてくれるのを、雀の子のように口を開けて待っているのでは、結局主体的に何も獲得できはしないからだ。」(p222)
このくらいにしておきましょ。
では、一冊を後ろから読んで得したと思う箇所を最後に引用しておきます。
「私はいろんな大学へ行って学生たちに教えた。上智へも行った。ICUへも行った。東洋大学、跡見女子大、東横短大、芸大、慶應、東大でも教えた。だから、成績で言えば良くできるインテリの学校もあれば、そうでもない学校もあるわけだけれども、どこへ行ってもやはり、良い話し方をする学生と、そうでない学生とは必ず一定の割合でいるのであった。それが人間の社会のありようなのだ。つまり、やはり一部の親は濃厚に真面目に子どもを育てたのであろう。それは成績が良い悪いにはあまり関係がなく、むしろ家庭的であるかどうかということが大切な問題なのである。だから、東大に行けばみんなが良いことばを使っているかと言ったら、そんなことは全然なくて、『嫌なやつ』という学生もいっぱいいる。だから、決してあきらめるな。道は遠きにあるのではない。自分の尊敬できるような、好きな、気に入った、そういう言語を操れる人のやり方を真似て、自家薬籠中のものとしていく。こういうことによって獲得できる言語能力というのは、なおとても多く残されている。そして、そういうことばの上の努力をしているということ、常に自分のことばに自覚を持っているということは、おのずから他者とのコミュニケーションを大切にするということになっていくので、したがってまたそこには、より良いコミュニケーションを作る能力が醸成されていくということになるであろう。なにはともあれ、まずは自覚である。」(p225~226)
一冊の結構がありますので、手紙が時候の挨拶からはじまるように、段取りを踏んで本の内容が進んで行くようなのでした。すると、後ろから読み始めると、いきなり活況を呈した話題で盛り上がっている可能性が高い(笑)。
そういえば、慶応のご出身の林望氏でした。何げなくも、それに関する話題があったりします。第三章「偉ぶる男は卑しい男」には、こんな箇所。
「私などは、幸か不幸か文学部だったから、周りには女子学生がたくさんいた。慶應の国文科は、当時だいたい男女半々という感じだったから、つまり純然たる共学であった。・・・」(p80)
ちなみに、林望氏は1949年生まれ。ということは59歳ですか。
「また福澤諭吉は、学問を軽んずべしということを常々説いて、学生に注意を促した。その『学問に凝る勿(なか)れ』という演説のなかで、こう言っているのは、すこぶる聞くべきところであろう。『左(さ)れば老生が常に云う学問に重きを置くべからずとは、之を無益なりと云うに非ず、否(い)な、人生の必要、大切至極の事なれども、之を唯一無二の人事と思い、他を顧みずして一に凝り固まる勿れとの微意のみ』(福澤諭吉著作集第五巻)と、こう言っている。いわゆる学匠(がくしょう)沙汰を戒めて、つねに知識を広く世に役立てるように注意を促しているのである。こういう先覚の箴言を心に潜めてせいぜい偉ぶったり人を見下したりしないように、いつも自分を下目下目内輪内輪に見積もって過ごすとうことが、ことばの使いようについても、とくにとくに大切なところだということである。」(p129)
外山滋比古氏のエッセイには、印象深い先生が、ちょいちょいと登場するのでした。ところが、林望氏のこの本では、先生の弊害を指摘していたりします。二冊を比較して読むと面白い。語尾の「ネ」に関しても林氏は、「私などは、『なんとかでね』という『ね』が語尾に多いんですよ『ね』。」(p167)とあり、外山氏の本には「キミはネを繰り返していたが、いかにも押しつけがましく、第三者が聞いていても快いものではない。」と、部下に語るセンスのすぐれた部長が登場しました。え~と、ちなみに外山氏は1923年生まれ。
話を戻して、これも福澤諭吉を思いうかべてしまう箇所。
「やっぱりね、何事も自助、Self-helpなのである。
結局、自らを教育する者でなくては、どんなインテリジェンスも身につかない。
誰かに教えてもらおうというような心がけでは、どんな技術も身につかない。
お料理学校に行って料理を学ぼうとか、英会話の学校に行って、英会話を学ぼうっていうのは、私は間違った考えだと思う。そういう受け身で、誰かが自分に教えてくれるのを、雀の子のように口を開けて待っているのでは、結局主体的に何も獲得できはしないからだ。」(p222)
このくらいにしておきましょ。
では、一冊を後ろから読んで得したと思う箇所を最後に引用しておきます。
「私はいろんな大学へ行って学生たちに教えた。上智へも行った。ICUへも行った。東洋大学、跡見女子大、東横短大、芸大、慶應、東大でも教えた。だから、成績で言えば良くできるインテリの学校もあれば、そうでもない学校もあるわけだけれども、どこへ行ってもやはり、良い話し方をする学生と、そうでない学生とは必ず一定の割合でいるのであった。それが人間の社会のありようなのだ。つまり、やはり一部の親は濃厚に真面目に子どもを育てたのであろう。それは成績が良い悪いにはあまり関係がなく、むしろ家庭的であるかどうかということが大切な問題なのである。だから、東大に行けばみんなが良いことばを使っているかと言ったら、そんなことは全然なくて、『嫌なやつ』という学生もいっぱいいる。だから、決してあきらめるな。道は遠きにあるのではない。自分の尊敬できるような、好きな、気に入った、そういう言語を操れる人のやり方を真似て、自家薬籠中のものとしていく。こういうことによって獲得できる言語能力というのは、なおとても多く残されている。そして、そういうことばの上の努力をしているということ、常に自分のことばに自覚を持っているということは、おのずから他者とのコミュニケーションを大切にするということになっていくので、したがってまたそこには、より良いコミュニケーションを作る能力が醸成されていくということになるであろう。なにはともあれ、まずは自覚である。」(p225~226)