すこし前から、新聞広告の裏が白紙になっているのを、取っておいて、メモ用紙として使うようにしてます。電話の脇に置いたり、備忘録がわりに数枚重ねてクリップボードにはさみ込んでおきます(まあ、気持ちの問題です)。新聞広告って、両面印刷がほとんど。時に裏が白紙のものもあります。たとえば、パチンコ店の広告。それと地域の商店のチラシなどです。
え~と。なんでこんな話からはじめたといいますと、
11月24日の読売歌壇。その岡野弘彦選の二首目に、こんな歌があったのでした。
「残すものないのよお笑い下さい」と亡き母が書きし広告の裏
神戸市 遠藤俊子
その【評】は
「百二歳で世を去った母親は、広告の紙の裏に折々の思いを書きつけておく習慣があった。この言葉も死後にメモの中から見つけたという。心にしむ美しい言葉だ。」
別に、何に書いてあろうとも、美しい言葉というのはあります。
そうそう。校定新美南吉全集第八巻(大日本図書)の、詩の【解題】に
「本文は試験問題が印刷されたざら紙の裏に書かれた自筆原稿(1939年11月21日)を定本として作成した。試験問題は安城高等女学校の四年生・国語のもので・・・この執筆日の年度には、南吉は英語以外・・四年生を担当していないことから考えて、本用紙を使った作品は多くはなかったと思われる。・・不要となった問題用紙を利用して学校で制作したと思われる。」(p383)
それでは、試験問題の裏に書かれたという、当の詩を引用してみます。
木
木はさびしい
木は老人の手のやうな幹を
冬陽にてらされながら
はてもなく淋しい
ある日ふと私は
木のさびしさにふれた
ああ、
さうざうしい生活の中から
歩いて来て
木の幹をなでたとき
私の掌に
それが伝つて来た
木のさびしさはあつたかかつた
向うに白い雲も見えて
ところで、牧書店の「新美南吉全集」というのが古本で安かったので、購入してありました。そこの8巻は日記。そこをパラパラと拾い読みしていたら、こんな箇所がありました。昭和15年2月5日(p62)
「土曜日。『それはなんだい』と、校長が昼めしのときにきいた。僕は飯をたべながら読んでいた本をみせて、『萩原朔太郎です』という。午後詩想が湧いてくる。職員室で書きはじめる。ベルがなる。掃除の時間だ。まだ書ききれない。校長がガラッと校長室のドアを開けて、はいってきた。原稿から顔をあげたら、眼と眼とぶつかった。校長の眼がにげた。ここでは、何物にも熱中してはならないのだ。熱中は禁物。それは、こまごまとした日常生活の規則を無視しがちだから。・・・」
そういえば、ハルキ文庫「新美南吉詩集」の編者解説・谷悦子氏の文を読んでいたら、何とも今年(2008年)の特別展のことが書かれておりました。最後にその引用。
「南吉は、1938年4月、県立安城高等女学校に新任教員として赴任し、その春入学したばかりの一年生の担任となった。その後、自ら希望して彼女たちが卒業するまでの四年間担任を続けた。今年はその赴任から七十年めに当ることから、新美南吉記念館では『特別展 教師南吉と67人の生徒達』(2008年7月19日~10月13日)を開催。あわせて、『座談会 教え子達が語る教師南吉』(9月13日 於雁宿ホール講堂)が行われた。現在83歳になる教え子たち8名が、『教師南吉』について生き生きと語るのを聴いて、彼女たちの中に南吉の詩精神が今も生き続けているのを感じた。・・・生徒にとっては『詩に始まり、詩に終わった四年間だった』(特別展パンフレット)ようだ。・・・」
え~と。なんでこんな話からはじめたといいますと、
11月24日の読売歌壇。その岡野弘彦選の二首目に、こんな歌があったのでした。
「残すものないのよお笑い下さい」と亡き母が書きし広告の裏
神戸市 遠藤俊子
その【評】は
「百二歳で世を去った母親は、広告の紙の裏に折々の思いを書きつけておく習慣があった。この言葉も死後にメモの中から見つけたという。心にしむ美しい言葉だ。」
別に、何に書いてあろうとも、美しい言葉というのはあります。
そうそう。校定新美南吉全集第八巻(大日本図書)の、詩の【解題】に
「本文は試験問題が印刷されたざら紙の裏に書かれた自筆原稿(1939年11月21日)を定本として作成した。試験問題は安城高等女学校の四年生・国語のもので・・・この執筆日の年度には、南吉は英語以外・・四年生を担当していないことから考えて、本用紙を使った作品は多くはなかったと思われる。・・不要となった問題用紙を利用して学校で制作したと思われる。」(p383)
それでは、試験問題の裏に書かれたという、当の詩を引用してみます。
木
木はさびしい
木は老人の手のやうな幹を
冬陽にてらされながら
はてもなく淋しい
ある日ふと私は
木のさびしさにふれた
ああ、
さうざうしい生活の中から
歩いて来て
木の幹をなでたとき
私の掌に
それが伝つて来た
木のさびしさはあつたかかつた
向うに白い雲も見えて
ところで、牧書店の「新美南吉全集」というのが古本で安かったので、購入してありました。そこの8巻は日記。そこをパラパラと拾い読みしていたら、こんな箇所がありました。昭和15年2月5日(p62)
「土曜日。『それはなんだい』と、校長が昼めしのときにきいた。僕は飯をたべながら読んでいた本をみせて、『萩原朔太郎です』という。午後詩想が湧いてくる。職員室で書きはじめる。ベルがなる。掃除の時間だ。まだ書ききれない。校長がガラッと校長室のドアを開けて、はいってきた。原稿から顔をあげたら、眼と眼とぶつかった。校長の眼がにげた。ここでは、何物にも熱中してはならないのだ。熱中は禁物。それは、こまごまとした日常生活の規則を無視しがちだから。・・・」
そういえば、ハルキ文庫「新美南吉詩集」の編者解説・谷悦子氏の文を読んでいたら、何とも今年(2008年)の特別展のことが書かれておりました。最後にその引用。
「南吉は、1938年4月、県立安城高等女学校に新任教員として赴任し、その春入学したばかりの一年生の担任となった。その後、自ら希望して彼女たちが卒業するまでの四年間担任を続けた。今年はその赴任から七十年めに当ることから、新美南吉記念館では『特別展 教師南吉と67人の生徒達』(2008年7月19日~10月13日)を開催。あわせて、『座談会 教え子達が語る教師南吉』(9月13日 於雁宿ホール講堂)が行われた。現在83歳になる教え子たち8名が、『教師南吉』について生き生きと語るのを聴いて、彼女たちの中に南吉の詩精神が今も生き続けているのを感じた。・・・生徒にとっては『詩に始まり、詩に終わった四年間だった』(特別展パンフレット)ようだ。・・・」