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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「面白いものはないか」

2023-11-03 | 重ね読み
えーと。
①津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社)
②小林秀雄「青年と老年」(「考えるヒント」の中の一篇)
③吉田兼好「徒然草」の第155段。

と3冊を引用してみます。
まずは、②からでいいでしょうか。
そのはじまりは、こうでした。

「 『 つまらん 』と言ふのが、亡くなった正宗さんの口癖であった。
  『 つまらん、つまらん 』と言いながら、何故、ああ小まめに、
  飽きもせず、物を読んだり、物を見に出向いたりするのだろうと
  いぶかる人があった。しかし、『 つまらん 』と言うのは

  『 面白いものはないか 』と問う事であろう。

  正宗さんという人は、死ぬまでさう問ひつづけた人なので、
  老いていよいよ『面白いもの』に関してぜいたくになった人なのである。

  私など、過去を顧みると、面白い事に関し、ぜいたくを言う必要の
  なかった若年期は、夢の間に過ぎ、面白いものを、
  苦労して捜し廻らねばならなくなって、
  初めて人生が始まったように思うのだが・・・・

  ・・のみならず、いつの間にか鈍する道をうかうかと歩きながら、
  当人は次第に円熟して行くとも思い込む、そんな事にも成りかねない。」

このあとに、小林さんは、徒然草のエピソードをとりあげるのでした。
その徒然草の箇所は、どこだったかなあと、さがせば、ここあたりかな。

「・・生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。
 四季は、なお、定まれる序(つい)で有り。死期は、序でを待たず。

 死は、前よりしも来たらず、予(かね)て、後ろに迫れり。
 人皆、死有る事を知りて、待つ事、しかも急ならざるに、
 覚えずして来る。

 沖の干潟(ひがた)、遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。 」

             ( 徒然草第155段。その最後の箇所 )


はい。②と③と続いて、最後に①です。①のあとがきから引用。

「 ・・・・ あるいは、こうもいえる。
  ものごころついてからの人生を、10代から30代の青春期、
  40代から60代の壮年期、そして70代から90代の老年期と、
  30年ずつ、ざっくり三つに割ってしまう。

  若いときは未知の未来がたっぷりあるし、意地でも、
  じぶんを他人とはちがう存在として考えたい。
  それやこれやで気張って人生を細分化してしまいがち。

  しかし齢をとって人生を終わりから眺めるようになると、
  それが変わる。ここまできたのだもの、もうこのていど
  の大ざっぱな分類でいいんじゃないかな。

  そう考えておけば『百歳までの読書術』は、
  私にとっては『七十歳からの読書術』とほとんどおなじ意味になる。

  その最終段階に足を踏み入れ、このさき、
  じぶんの読書がどのように終わってゆくのか、
  そのおおよそがありありと見えてきた。となれば、
  こここそが私の読書史の最前線である。
  好奇心をかきたてられずにいるわけがないよ。・・  」(p269~270)


うん。70歳からの『最終段階』の『最前線』というフレーズを反芻していると、
つい。『 つまらん 』と『 面白いものはないか 』を思い浮かべました。


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親鸞と吉田兼好

2023-10-20 | 重ね読み
はい。先頃、現代語訳ですけれども、歎異抄をはじめて読みました。
うん。はじめて浮かびあがる、年齢相当の連想と感想がありました。

忘れないうちに、記しておくにことにします。
親鸞の『歎異抄』から、吉田兼好の『徒然草』へと連想はつながります。

実際は吉田兼好(1283~1352)誕生の、21年前にもう親鸞は没しており、
吉田兼好誕生の、71年前に法然は没しています。世代は違っていました。
ただ、唯円による『歎異抄』の成立は、1290年頃となっておりました。

『歎異抄』は、「おのおの方が、はるばる十余カ国の境をこえ・・
 訪ねてこられ」。その質問に答えているのでした。
そこでの親鸞は、こう答えておりました。

「わたくし親鸞においては、ただ念仏を申して
 弥陀にたすけていただくがよいと、
 よきひと(法然)のおおせをいただいて信ずるだけであって、
 そのほかにはなんのいわれもないのである。

 ・・・・・・・・

 法然のおおせもまた、そらごとではあるまい。
 法然のおおせがまことならば、親鸞の申すことも、
 また、うそのはずはなかろう。つまるところ、

 わたしの信ずるところは、かようである。このうえは、
 念仏を信じようと、また、捨てようと、すべては、
 おのおのがたの考えしだいである。・・       」
              ( 現代語訳・増谷文雄 )

つぎに、思い浮かんだ徒然草の第39段の現代語訳を引用。

「ある人が、法然上人に向かって、

『 念仏を唱える時に、睡気(ねむけ)におそわれて、
  念仏の行を怠けますことがございますが、
  どうして、このさまたげをやめましょうか 』

 と申し上げたところ、上人は、

『 目のさめている間は、念仏を唱えなさい 』

とお答えになったが、これはたいへん尊いことであった。
また、ある時は、

『 往生は、きっとできると思えばきっとできることであり、
  できるかどうか確かでないと思えば、不確かなことになるのである 』

と言われた。このことばも、尊いことである。
さらにまた、

『 往生できるか、どうかと疑いながらでも、
  念仏すると、往生するものである 』

とも言われた。このことばもまた尊いことである。 」

( p191~192 安良岡康作著「徒然草全注釈 上巻」角川書店・昭和42年 )

ちなみに安良岡康作(やすらおかこうさく)氏の
本の第39段解説(p193~195)は読めてよかった。

ここには、最初の方にある、2箇所を引用しておわります。
はじまりにはこうありました。

「この段は、三つの段落より成り、いずれも、
 法然上人の語を挙げて、それを
 『 いと尊かりけり 』『 これも尊し 』『 これもまた尊し 』
 と讃嘆しているのである。・・・ 」

その少し後には、こうもありました。

「第一の『 目の醒めたらんほど、念仏し給へ 』は、
 他書に出典の見いだされぬ語である。

 しかし、自己に可能なることを自覚せず、
 不可能事ばかりを障碍として考えたがる人間の
 心の弱さ・安易さを鋭く指示しているところに、
 この答語の輝きが認められる。そして、
 それは、念仏の行を強調した法然の信仰につながっている。」   
                           (p193)


この関連本として、わたしに興味深い指摘が読めたのは、

   西尾實著「作品研究 つれづれ草」(学生社・1955年)
   島内裕子著「兼好 露もわが身も置きどころなし」
             (ミネルヴァ日本評伝選・2005年)

うん。これらを、つなげてゆくと奥行きがでるのでしょうが、
今回はこのくらいで。最後に、おのおのの年齢を記しておきます。

法然 ( 1133年~1212年 )80歳
親鸞 ( 1173年~1262年 )90歳
兼好 ( 1283年~1352年 )70歳?

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たわいのない話と『発心』

2023-08-21 | 重ね読み
鴨長明の「発心集」(角川ソフィア文庫・上下巻)。
その第一の現代語訳は、こうはじまっておりました。

「昔、玄敏僧都という人がいた。奈良の興福寺の
 大変立派な学僧だったが、俗世を忌み嫌う心は非常に深く、
 寺中の付き合いを心から嫌っていた。そんなわけで三輪川の
 ほとりに、小さな庵を結び、仏道修行のことをいつも
 心に思いながら日を暮らしていた。」

 「・・・平城天皇の御時に、大僧都の職をお与えになろうと
  されたところ、御辞退申し上げるということで、こんな歌を詠んだ。

  三輪川の清き流れにすすぎてし衣の袖をまたはけがさじ

  ・・・そうこうしているうちに、弟子にも、また下仕えの者にも
  知られないで、どこへともなく姿を消してしまった。・・・   」


はい。このように、姿をくらますエピソードが、いろいろと出てきます。
あらためて『序』の現代語訳をみますと、こんな箇所がありました。


「・・ただ自分の身の程を理解するのみで、
 迷愚のともがらを教え導く方策などは持っていない。

 教えの言葉は立派であるのだけれども、
 それを理解して得る利益(りやく)は少ないのである。

 それゆえ浅はかな心を考えて、とりわけ深い教理を求めることはしなかった。
 わずかに見たり、聞いたりしたことを記しあつめて、
 そっと座のかたわらに置くことにした。

 すなわちそれは
 賢い例を見ては、たとえ及び難くとも一心に願う機縁とし、
 愚かな例を見ては、自らを改めるきっかけにしようと思うからである。

 ・・・ただ我が国の身近な分かり易い話を優先して、
 耳にした話に限って記すことにした。それゆえ
 きっと誤りも多く、真実も少ないかもしれない。・・・

 ただ道端のたわいない話の中に、
 自らのわずかな一念の発心を楽しむばかりというだけである。 」
                     ( p249~250 )

発心集の最初の方には、高僧がどこかへ消えてしまう話がつづきます。
それを弟子たちが探し出しては・・・。という感じで話がつづきます。

ちょうど、富士正晴著「狸の電話帳」を身近に置いてあるので、
それを開き、連想がひろがりました。こうあります。

「わたしは幼少のころからずっと、教えられることを習うことが
 全く下手であった。・・何とか辛抱しつつ旧制高校までは入ったが、
 ついに二年生にもなれず中退した。・・・・

 この世に生きて行くことに役立つような事柄を、
 従ってわたしは、学校で受けとったような気がしない。
 
 小学校で教えてくれた修身や、小学校の教師であった父親の
 教訓などに大抵反撥していたのだろう。一向にそのようなもの
 から影響を受けとっているような気がしない。 」

このあとに、ひとつのエピソードが語られておりました。

「 小学校の四年位の時、小川にかかっている鉄橋を
  中程まで渡って来たところ、向こうから電車がやってきて足がすくんだ。

  あたりはずっと見とおしのきいた平地だったから、
  向こうから電車のくるのは見えていたと思う。・・・・

  足がすくんだまま小川を見下ろしてみたが飛び下りる勇気が出ない。
  といって走り戻ることにしても間に合いそうにない。
  電車は近づきつつジャンジャン警報をならす。

  後をふりかえった時、人が岸のレールのそばにやって来たのが判った。
  そのころは着ているもので職業が判った。その土方風の人は
  
  わたしをみるとすぐにヒョイヒョイと鉄橋の枕木を
  地下足袋でわたって来て、わたしを後ろ抱きに抱いて
  岸まで運び、レールの外へ出して別にものもいわずに
  さっさと立ち去っていった。わたしは礼もいわなかった。

  こういうことの方がわたしの生き方に影響を与えているような気がする。
  後になって、火がついてあわてている小学生の着物を、
  素手ですぐさまもみ消したことがあったが、
  ( 熱があろうなどということは全然思いもしなかった )
  
  これはあの土方のおっさんの行動の影響であったなとすぐ気がついた。」
                       ( p9~10 )


私の場合はどうだったのか。助けられたことはかず知れず。
助けられたことを片っ端から忘れ去っていたと気づきます。
そしてちっとも、『一念の発心』へつながりませんでした。
うん。今からでもおそくはないか。
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盛岡高農の宮沢賢治。

2023-08-20 | 重ね読み
古本で雑誌太陽の一冊を200円で購入。
写真を見ながらパラパラとひらきます。

雑誌太陽(平凡社)の太陽コレクションとなっていて、
「士農工商 仕事と暮らし江戸・明治Ⅱ(農民) 」とあります。
1975年の雑誌特別号で、当時定価1900円となっております。

パラパラめくると、なぜだか賢治のあの写真がある。
黒っぽいコートらしきものをはおり。帽子をかぶり、
後ろ手に、下前方の畑の様子でもみているような姿。

真壁仁「東北農民の仕事と暮らし 寒冷の風土のなかで」。
という文のなかに、その写真がありました。

賢治の22歳のときの短歌が引用されておりまして、
そのあとの文を引用しておきます。

「 盛岡高等農林学校本科を卒業し、
  ひきつづき関豊太郎教授について、
  地質、土壌、肥料の研究をすすめていた。

  関教授は日本でもっとも早く、冷寒凶作の原因として
  寒流卓越の説を唱えた人で、それは明治40年のことである。

  盛岡高農が全国のどこより早く明治38年、
  農学博士玉利喜造を校長に創設されたのは
  冷害を克服する稲作技術を東北にうちたて、
  一大食糧供給地をつくるためであった。

  宮沢賢治は冷害克服を研究課題とする学校に学んだのだが、
  
  すでに幼少時に遊んだ花巻の町にある松庵寺の門前には、
  宝暦、天明、天保の餓死者を供養する石碑がずらりと並んでいた。
  ・・・   
  その後賢治が農業農民問題にとりくむことを
  うながした原風景かもしれない。      」( p43 )


とかく、文学的に傾きがちな賢治像なのですが、
風土農民視点からの、賢治像を知らされました。
はい。真壁仁氏の宮沢賢治の本を読みたくなる。


 
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花森安治の、夏休み。

2023-08-12 | 重ね読み
唐澤平吉著「花森安治の編集室」(晶文社・1997年)の
本文のいちばん最後に『夏休み』という言葉がありました。
そこを引用しておくことに。

「お孫さんが夏休みで上京してきたとき、
 研究室につれてきて、その日は一日中ホッペたがゆるみっぱなし。

 もうトロトロ。しかしトロけてしまうことは、ありませんでした。

 ほんとうは、一時間でも早く、かわいい孫のまつ家に帰りたかったはず。
 いや、しごとなんか放りだして、いっしょに夏休みをとりたかったはず。
 でも、しなかった。非情をつらぬきとおしてみせました。
 そこに花森さんの、大きな愛のすがたがありました。

 ともすると、花森安治が『暮しの手帖』にかけた半生は、
 独裁的で無情にすらみえる場合がありました。しかし、
 けっして利己的でも無慈悲でもなかったのです。

 つよい意志を秘めた人間だけがしめし、
 公平にあたえることができるこころでした。

 そのこころとすがたが、見まごうことない一つの大きな像となって、
 わたしのこころにようやく結びました。

 部員ばかりか、家族にさえも非情に徹し、
 どんな小さなしごとにも愛情と全力をそそぎ、
 編集者として生きぬいた、ひとりのアルチザンの半生。
 ・・・・・          」(p207)

そのすこし前には、こうあったのでした。

「 ――六十六年の生涯でした。
  早春の風のように、花森安治は、わたしの前から去ってゆきました。
 
 『 みなさん、どうもありがとう 』 のことばと、
  
  テレたようなちいさな微笑を一つのこし、
  なにごともなかったかのように研究室に訣(わか)れをつげて、
  颯然といってしまいました。

  その日から、十九年の歳月がながれました。    」(p261)

コメント (2)
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扇谷と池島の家族。

2023-08-11 | 重ね読み
扇谷正造が、『週刊朝日』の編集長を引き受けたとき

「部数はわずか10万部で、返品率25パーセントという惨状だった。
 これを朝日の幹部は『なんとか35万部まで引き上げてくれ』と
 扇谷に頼んだ。そこまでいけば黒字になる。

 ところが扇谷は8年のうちになんと、138万部という、
 週刊誌で日本初の大記録を打ちたてたのである。・・・  」

 ( p66  櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝」編書房・2008年 )

このあとに、いろいろ書かれていたのですが。
はい。私はすぐに忘れそうです。それでも
引っかかったのは、この箇所でした。

「私は22歳の頃のある風景をいまでも思い出す。
 昭和28年、大学を出て大衆小説誌『面白倶楽部』の
 新米編集者になった年、藤原審爾・・のところに通っていた。

 ある日曜日、彼の家に行く途中で、
 ふと華やいだ声が庭先から聞こえてくる家があった。

 男の優しい声もする。私は反射的に庭を覗いたが、
 そこには夫人と娘らしい若い女性と、小柄な男が
 楽しげに談笑していた。表札を見ると扇谷とあった。

 ・・・後年、彼の知遇を得て編集論を聞いたとき、
 突然この風景が思い浮かんだ。やはり女性心理を
 マスターするには、むずかしい顔で家族と接して
 いるような日常では、不可能なのだ。

 私は一人の名編集長が育つプライベートな土壌を知ったことで、
 ひどく得意だったし、また自信にもつながったように思う。・・」(p74)


このあとに、
「大宅壮一は扇谷正造を評して
 『 文春の池島、暮しの手帖の花森と並ぶ戦後マスコミの三羽烏 』
 とほめている・・・   」

こうあるのですが、池島といえば、
司馬遼太郎著『以下、無用のことながら』(文芸春秋のち、文庫)に
「信平さん記」という文があるのでした。

「池島信平さんは、その風貌のように、
 ゴムマリのように弾んだ心を持っていた。 」とはじまっており、

その文の最後に、夫人が登場しておりました。

「社葬がおわるころ、夫人のあいさつがスピーカーからきこえてきた。
 横にいた安岡章太郎が、私(司馬)の腕をつかんだ。

 『 池島信平の文体とそっくりだ 』

 気味わるいほど話し方の呼吸や精神のリズムが似ていた。
 信平さんは、残すに足るもっとも大切なものを夫人にのこした。

 もともと個人の好みとしては他人に影響力をもちたいなどと
 いうような田舎くさいことを考えたことのないひとだったが、

 しかし死後、当人の見当を超えてさまざまな人に 
 その影響力をのこしてしまった。このことは、
 このひとの後輩の同人たちが全員気づいていることらしく、
 またたれもがそれを誇りにもしているらしい。  」( 単行本・p410 )


う~ん。あとひとり、花森安治の家族が思い浮かばない。
どなたかご存じの方はおられますか?
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心たのしまず。 

2023-08-10 | 重ね読み
「週刊朝日」が廃刊されて、近頃とんと買ったこともなかった癖して、
何となくもやもやしたものが残っておりました。
そういえば、「文芸春秋」も、もう買う気にならなかったなあ。

そんなことを思っていて手にした古本。編(あむ)書房(2008年)の
櫻井秀勲著「戦後名編集者列伝 売れる本づくりを実践した鬼才たち」
が安かったので購入。目次をみると30回までありました。
その第一回は「『文芸春秋』の体質をつくった池島新平」。
そのはじまり。

「私たちが今日、すばらしい書籍や雑誌を読むことができるのは、
 ともすれば忘れがちになるが、最初に井戸を掘った卓越した編集者が
 いたからである。

 出版社には『新しいビルを新築したところほど危ない』
 というジンクスが囁かれてきた。・・・・
 これにはいくつかの理由が考えられる。

 その第一は経営者が社業の安定と防御を考えて、
 ビル賃貸業をはじめるため、社員の間に安心感が生まれてしまうこと、

 第二は居心地のいい職場に座ると、取材力がてきめんに落ちること、

 第三に高層ビルの上から下を眺めるうちに、庶民感覚を忘れ、  
 マスコミが偉いと錯覚してしまうことのようだ。

 かつて平凡出版を創業した岩堀喜之助(いわほりきのすけ)は、
 右腕の天才編集者清水達夫がマガジンハウスに改名発展させ、
 銀座に巨大な社屋をつくる計画を聞いて心たのしまず。
 自分自身は会長にもかかわらず、
 銀座東急ホテルの狭い一室に秘書と二人で事務所をつくった。

 岩堀は当時祥伝社の『微笑』編集長だった私が遊びに行くと、

 『 櫻井君、編集者はでっかいビルの上から読者を見下ろしてはいかん。
   きみのところはそういうことをしてはいけない 』

  声音は優しいが、いうことはきびしかった。
  岩堀が逝って一年後に現在の社屋が成ったが、
  今日のマガジンハウスの苦境を見透していたといえそうだ。

  このケースと似た状況を辿ってきたのが文芸春秋だ、
  といったら酷だろうか?・・・・         」

はい。こうしてはじまる30回なのでした。
はい。第7回に「・・『週刊朝日』扇谷正造」がありました。
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竹山道雄。敗戦後の夏休み。

2023-07-30 | 重ね読み
平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」(藤原書店・2013年)を
本棚からとりだす。そこにある『ビルマの竪琴』の箇所をひらく。
ここは、執筆依頼の場面から引用することに。

「・・童話雑誌『赤とんぼ』も21年4月に創刊された。
 編集長の藤田圭雄は・・執筆依頼に鎌倉まであらわれた。

 敗戦後は勤労動員や空襲こそなくなったが、一高幹部の竹山は
 新情勢への対応に忙殺された。・・・
 それが昭和21年の夏になって、竹山はひさしぶりに休まざるを得なくなった。
 積年の疲労のせいか、かるい中耳炎をおこして10日ほど・・家にひきこもった
 からである。頭に血がのぼる。耳にあてるための氷は・・もらった。

 そしてその暇に子供むきの物語『ビルマの竪琴』を考えた。
 比較的に短い30頁足らずの第一話『うたう部隊』だけがまずできた・・

 第一話の原稿を書きあげたのは昭和21年9月2日だった。・・・・

 昭和22年1月号掲載予定のこの第一話は校正刷を提出した段階で、
 米国占領軍の民間検閲支隊Civil Censorship Detachment いわゆる
 CCDの検閲にひっかかってしまったのである。

 内幸町の米軍事務所に一週間後に許可を貰いに行った藤田は唖然とした。
 ・・・・・

話の二行目『みな疲れて、やせて、元気もなく、いかにも気の毒な様子です。
中には病人となって、蝋のような顔色をして、担架にかつがている人もあります。』
には傍線が引かれている。当時、検閲実務に従事した要員はおおむね日本人で、
占領軍の指令に従いチェックしていた。いかに日本人らしい几帳面な書体で
問題個所の英訳を付し、・・『公共ノ安寧ヲ妨ゲル』という検閲項目に抵触
する旨が書き添えられている。・・

復員兵の消耗した有様は、連合国側の日本兵捕虜虐待を示唆するが故に
印刷禁止に該当する。これが上司が指示した検閲要領に忠実に従った
日本人検閲員の判断だった。当時CCDには英語力に秀でた日本人5000人以上
が勤務していた。滞米経験者、英語教師などが、経済的理由から、
占領軍の協力者というか有り体に言えば共犯者となって働いていたのである。

その要因募集はラジオを通して行なわれ、給与金額まで放送されたから、
少年の私にも比較的高給が支払われることは聞いてわかった。
費用は敗戦国政府の負担である。・・・・
が仕事の性質を恥じたせいか、検閲業務に従事した旨後年率直に
打明けた人は少ない。その体験を公表した人は葦書房から書物を出した
甲斐弦など数名のみである。タブーは伝染する。・・・・

 ・・・・・・

音楽による和解のこの物語のなにが悪いのだろうか。
内幸町のビルからすごすごと帰りかけた藤田圭雄は、もう一度窓口に引き返し、
受付の日本人女性に『どこが問題なのか』としつこく頼んだ。
すると奥の日系二世の部屋へ通された。そこにいたのは『二世の将校』だと
藤田は書いているが、対応の様子から察するに下士官だったのではあるまいか。
・・・
藤田の『この物語こそ今の日本の子どもたちにぜひ読ませたものだと思う』
という訴えを聞いて、二世の士官は
『わたしはまだこれを読んでいない。今すぐ読むからちょっと待ってくれ』
といって別室にはいった。そして20分ほど経つと戻って来た。

そして『 あなたのいう通りだ。これは決して悪くはない。しかし
ここまで来ると、もう一つ上のポストの許可がいるから、今月はなにか
別の原稿にさしかえて編集してほしい。しかしかならず許可を出すから』
といった。

上のポストには、問題となった個所のみをチェックする白人の管理職の
士官がいた。戦争中に日本語の特別訓練を受けた語学将校の英才たちである。
ブランゲ文庫に保存されマイクロフィルムに写された『赤とんぼ』には
検閲の痕跡をはっきり見ることができるが、先の傍線を引かれた箇所に
OK true と書きこまれている。

日本軍の復員兵士が
『みな疲れて、やせて、元気もなくて、いかにも気の毒な様子』
というのは事実その通りなのだから、問題とするには及ばない、
OKという判定を語学将校が下したのである。・・・   」

( p183~190 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 )
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歌う部隊。

2023-07-29 | 重ね読み
新潮文庫の竹山道雄著「ビルマの竪琴」の最後には
荒城の月からはじまる歌詞が13曲。楽譜もついておりました。

本文の、はじまりの第一話の題は『うたう部隊』とありました。

令和5年の月刊Hanada9月号の平川祐弘氏の連載
『詩を読んで史を語る』は第15回目で題は「日本の小学唱歌」。
その文をめくっていたら、『ビルマの竪琴』がでてきておりました。
平川氏の文は、注釈も、それだけで楽しめるのがありがたい。
『ビルマの竪琴』に関連する文の注釈が目を引きました。以下引用。

「私が・・教えた学生三井憲一の父君は大正10年生まれ。
 招集され各地を転戦した。生前、戦争について家族に語ることは
 一切なかったが、唯一の例外は昭和31年、憲一が小学校1年の時、
 父に連れて行かれ映画『ビルマの竪琴』を観た。それだけであった。

 その父が急逝した時・・・追悼の席で戦友4名が
 ≪ 山砲兵第51聯隊歌 ≫を歌い、その作曲が父であったと
 知らされて、雷に打たれた如く成り、涙がとまらなかった。

 父三井道は信州の小学校卒業後、すぐに紳士服仕立ての店で働いた。
 音楽は好きで仕事をしながらレコードは聞いていたという。

 作詞は部隊長の桑原忠博、楽譜は存在しないが、
 戦友会で歌われる曲を録音して憲一が音楽の先生にお願いして
 五線譜に復元・・・『うたう部隊』は竹山の物語の歌のほかにも
 このような形で存在したのである。     」( p321 )


新潮文庫『ビルマの竪琴』には、本文のあとに
「ビルマの竪琴ができるまで」(昭和28年)という14ページの文があります。
最後に、そこからも引用しておくことに。

「・・モデルはないけれども、
 示唆になった話はありました。こんなことをききました。

 一人の若い音楽の先生がいて、その人が率いていた隊では、
 隊員が心服して、弾がとんでくる中で行進するときには、
 兵たちが弾のとんでくる側に立って歩いて、隊長の身をかばった。

 いくら叱ってもやめなかった。そして、その隊が帰ってきたときには、
 みな元気がよかったので、出迎えた人たちが
 『 君たちは何を食べていたのだ 』とたずねた。
 ( あのころは、食物が何よりも大きな問題でした )

 鎌倉の女学校で音楽会があったときに、
 その先生がピアノのわきに坐って、譜をめくる役をしていました。
 『 あれが、その隊長さん―― 』とおしえられて、
 私はひそかにふかい敬意を表しました。

 日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、
 私はこの話をもとにして、物語をつくりはじめました。 」( p195 )


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漱石と賢治の「楽しいなあ」

2023-07-24 | 重ね読み
高島俊男著「漱石の夏やすみ」に、こんな箇所がありました。

「 漱石の作品をみると、できばえのよしあしとは別に、

  漱石が、おれはこういうことをやっているときが一番たのしいなあ、
  とおもいながらつくったことがつたわってくるものがいくつもある。

  絵や書はたいがいそうである。
  俳句も、せっせとつくっては病気の子規におくって、
  子規にわるくちをいわせてたのしんでいた時期はそうである。

  小説では『草枕』と『吾輩は猫である』が顕著にそうである。
  ・・・・・・

  そして、最初の作品である木屑録と、
  最晩年『明暗』を書いていた時期に毎日つくっていた詩、
  これがそうである。

  漱石は、それをつくっている時間、
  つくっている過程をたのしんでいる。

  絵がそうであるように。また『草枕』がそうであるように。 」

    ( 単行本ではp179~180。 文庫本ではp156~157 )


いっぽう、萬田務著「 孤高の詩人 宮沢賢治」(新典社・1986年)に
こんな箇所がありました。

「 賢治の教師生活は大正10年12月から同15年3月まで、
  4年4か月続けられた。

  この教師生活が極めて充実していたことは、
  後になって賢治自身、『この四ヶ年は、わたしにとって、
  じつに愉快な明るいものでした』・・・(「春と修羅」第二集・序)
  と述べていることからも明らかである。

  またノート紙葉に書かれた「生徒諸君に寄せる」の(断章一)でも

      この四ヶ年が
          わたくしにどんなに楽しかったか
      わたくしは毎日を
          鳥のやうに教室でうたってくらした
      誓って云ふが
          わたくしはこの仕事で
          疲れをおぼえたことはない

   と言う。さらに後年の、昭和5年4月4日付書簡(沢里武治宛)においても、
   『 農学校の四年間がいちばんやり甲斐のある時 』であり、
   『 しかもその頃はなほ私には生活の頂点でもあった 』と書いている。
    ・・・  」( p208~209 )


はい。8月は、教師時代の賢治を、読む楽しみ。
   
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