goo blog サービス終了のお知らせ 

和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

1912年・1913年生まれ。

2025-04-01 | 詩歌
私の父が、大正2年生まれ。
蓮井秀義著「シベリヤの月」の略歴に
1913年(大正2年)生まれ。とありました。

そういえば、と新田次郎の年譜をひらくと、
明治45年(1912年)長野県上諏訪町大字上諏訪字角間新田に生れる。
新田次郎の戦中はどうだったのかと年譜をめくる。

昭和18年(1942)4月、満州国新京の満州国中央観象台に、
高層気象課長として転任する。・・
昭和20年(1945)33歳。8月新京で終戦をむかえる。
終戦後、家族と別れて、ソ連軍の捕虜となり、
シベリアへ送られる途中、延吉捕虜収容所で、1年余の抑留生活を過ごす。
妻・ていは3人の子供をつれ、38度線を歩いて越え、翌年帰国。
昭和21年(1946)10月、一年余の捕虜生活を過した満州より引き揚げ、
中央気象台に復職。         ( 別冊新評「新田次郎の世界」より)

これだと、新田次郎氏は、シベリアへは送られていなかったようですね。


シベリヤ抑留といえば、現代詩の石原吉郎が思い浮かぶ。
1913年静岡県伊豆に生れる。
東京外語大卒業後、応召され情報要員としてハルピンに配属。
1945年ソ連軍に抑留されシベリアの強制収容所で8年間を送る。・・

ちなみに、私の父は、1943年(昭和18年)29歳で応召・・
昭和19年に、南方(フィリッピン・アンダマン諸島)に派遣される。
昭和21年に、復員・・・

大正2年ということで、今日思い浮かぶことを並べました。
そういえばと、石原吉郎の詩を最後に引用しておきます。


      世界がほろびる日に  石原吉郎
 

    世界がほろびる日に
    かぜをひくな
    ビールスに気をつけろ
    ベランダに
    ふとんを干しておけ
    ガスの元栓を忘れるな
    電気釜は
    八時に仕掛けておけ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

題名の『シベリヤの月』

2025-03-31 | 詩歌
「ナホトカの引揚者ラーゲルに入る」(p142)

いよいよ、日本への引揚げが身近に迫ってからの記述が
私には印象深く思われました。

「  寒さより重労働の仕事より一番つらき政治教育

  ナホトカの収容所では、何故か私は目の仇にされた。
  私は黙って何の意見も言わないようにしていたのだが、
  ≪ ウマガアワヌ ≫というのか、私が眼鏡をかけている。
  それは権力者のスタイルだ。学校に13年も行っている。
  それは特権階級の者だ。学校の先生は侵略主義者の手先だ
  とやられる。ここでは若い者しか値打ちがなく、
  年寄りは反動分子とぼろくそに言われる。    」(p151)

「  この国の捕虜になったを感謝して決議文だす日本の捕虜

   人間はかよわきものよ捕まった捕虜は捕えた国を讃える  」(p152)


「 打ち解けたいと隣のベッドに寝ている人と話をしていると、
  近くの人に聞かれて、
 『 同志蓮井は、家庭のことを毎日話している。あれは反動の手先だ 』
 と言われた。どういうわけか若い者は仲間の中から反動分子をつくり出し、
 それをみんなに公表して、自分の立場を有利にしようという風が見られた」
                       ( p156 )

はい。この帰還前後の貴重な記述はまだ続くのですが、
引用はここまでにしておくことに。

編者の次女西岡秀子さんは、どうしてこの本の題名を
『 シベリヤの月 』としたのかなあ。ということで
おもいあたる本文の箇所がありますので、そこを引用します。

「 引き揚げ寮(注:舞鶴)に入って、留守宅からの郵便受付で、
  私は初めて妻の手紙を受け取った。
  妻は無事生きて帰っていたのだ。・・・・
  私は次女(秀子)が生まれたことを初めて知った。・・・」(p167)

それ以前の23年11月には実家へと「捕虜用郵便はがき」が届いておりました。
それは「内地への便り」にありました。

「 一枚のはがきを渡されて、家族に連絡するように言われた。
 詳しいことは書いてはならない、安心するようなことを書けと言われ、
 書いたものは検査されて、変なことを書いてあると没収されるおそれが
 あるので、あたらずさわらずの私が生きていることが伝われば良いと
 思って書いた。 」(p143)

このあとの昭和24年9月18日から23日までと副題にある第6章に、
引き揚げ寮に届いていた妻の手紙が引用されておりました。
その手紙から抜粋。

「  お帰りなさいませ
   御苦労さまでした。・・・・
 
   只このお手紙が貴方の手に届く日の
   一日も早かれと祈るのみです。・・・・

   淋しい時は私はよくお月様を眺めました。
   このお月様はシベリヤの空にもかかっているのだ。
   そして貴方の上にも輝いているのだ 
   と思って何度月を眺め月と語ったことでしょう。・・・・  」
                    ( p168~169 )


帰国された蓮井秀義氏は、「 はじめに 」でこう書かれております。

「シベリヤからは何一つ書いたものは持ち帰ることが許されなかったから
 何もないが、強く印象づけられたことは、短歌として
 帰還後詠んだものがる・・・   」

そうして詠まれたなかに、シベリヤの月はありました。
最後に、その箇所を抜粋して引用しておきます。

「  音一つ灯りひとつなきシベリヤの原生林の上の月かな

   ひとときは捕虜の悲しさ忘れさる昼よりあかきシベリヤの月

  月など見て感傷にひたっていては、捕虜生活はできない。
  ずぶとい神経が必要である。夜間作業が多かったので、
  月はずいぶん見ているはずだが覚えていない。
  ただ一つ、山の奥へテントを張って伐採に行っている時見た
  昼のように明るい月夜を覚えている。
  山の奥なので灯りは一つも見えない。
  静かな夜で風の音もしない。周囲は大森林。
  月一つが動いている。        」( p85~86 )

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シベリヤの月」前書き後書き

2025-03-30 | 前書・後書。
蓮井秀義著「シベリヤの月 わが捕虜記」(かもがわ出版・2014年)を読む。
捕虜記とあるので、重いテーマなのだろうなあ。そう思いながらひらく。

「はじめに」には、何度も記録を残そうとしていた思いが
綴られております。昭和54(1979)年のことと記して、

「・・・妻が両腕骨折で・・入院して43日になる。
 私は付き添って病院に寝泊まりしている。
 今日は、私が満4年間のシベリヤ抑留から舞鶴に引き揚げて、長尾に
 帰り着いた30周年記念の日である。・・・・
 私のシベリヤの生活・・・今までにも、何度か記録しておこうと考え、
 少しは書いたこともあるが、完成せずに今日になった。・・・・・

 シベリヤからは何一つ書いたものは持ち帰ることが許されなかったから
 何もないが、強く印象づけられたことは、短歌として帰還後詠んだものが
 あるので、それを中心に書くことにする
 (その前に短文風に書き出したものがあるが、途中で息が切れてしまった。)」

本文は、全体に短歌が並び、それを核として、解説してゆくように時系列で
抑留体験が綴られております。私には短歌が見出し・小見出しのように見え、
行き届いた目次を、めくるように読めて、抑留の全体像がつかめるのでした。


最後には略歴がありますので引用。

蓮井秀義(はすいひでよし)
大正2年(1913) 香川県長尾町生まれ。
昭和6年(1931) 師範学校卒業 小豆島の小学校教諭
昭和15年(1940) ユリエと結婚。満州に渡る。満州遼陽小学校勤務
昭和20年(1945) 8月召集、会寧第375連隊入隊。終戦後ソ連の捕虜となる。
昭和24年(1949)4年間の抑留生活を経て帰国。香川県津田町鶴羽に住む。
  ・・・・・・・・・・・
平成18年(2006)93歳 歌集「シベリヤの月」を娘が出版
平成24年(2012)98歳 妻ユリエ死去 享年95歳
            秀義死去 享年99歳

「おわりに」は、西岡秀子さんの文。そこから引用。

「・・父も『子ども達、孫達に書き残してやろうと考えて書いた』と
 記している。姉の中村一江と妹の藤井美穂子と3人で相談し、
 これらのシベリヤ記録のノートを本としてまとめることにし、
 どうにか三回忌の記念に発行できるようになってほっとしている。

 ・・・56歳の退職時に挨拶代わりに配ったガリ版刷りの
 『瀬戸内海』という歌集の中に、シベリヤを詠んだ歌を65首おさめている。

 その後何度か『お父さん、シベリヤの歌集作ろうか』と勧めたが、
 『もう思い出したくない』と言って乗り気でなかった。
 2006年に、私が退職して時間もできたことから姉と二人で、
 短歌帳の中から121首を選んで『シベリアの月』という40ページの
 小冊子を作り、知人に配って読んでいただいた。・・・

 最後に付記として、父のいない満州の地で生きのび、私を産み、
 姉と私を連れて帰ってくれた母の手記も載せた。・・・    」


はい。「はじめに」と「おわりに」を引用しました。
次回では本文から、短歌を引用させていだだきます。




 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

10冊の重さ軽さ。

2025-03-29 | 本棚並べ
ちょうど、単行本が10冊入る段ボールの小さな箱をさがす。
その箱に、背表紙が並ぶように本を並べる。

その10冊の本の題名はというと

成毛眞著「本は10冊同時に読め!」(三笠書房)
天沢退二郎著「闇の中のオレンジ」(筑摩書房・1976年)
宇佐晋一木下勇作著「仏教と森田療法 あるがままの世界」(東方出版1987年)
嶋田奈穂子著「看取られる神社」(あいり出版・2024年)
「人生の流儀」(新日本出版社・2016年)
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(新装版・海竜社・昭和62年)
曽野綾子編著「聖パウロの世界をゆく」(講談社・1982年)
曽野綾子著「夫の後始末」(講談社・2017年)
曽野綾子著「続・夫の後始末」(講談社・2020年)
蓮井秀義著「シベリヤの月 わが捕虜記」(かもがわ出版・2014年)

このように、とりあえず10冊並べてみる。
「看取られる神社」は、最近の書評で購入した新刊。
曽野綾子氏の本は、追悼文から興味を持った本です。
あとの5冊は、先週古本でネット購入したもの
(古本で一番高かったのは、「闇の中のオレンジ」800円凾入り)
これだけでも、迷い箸よろしく、あれこれ題名をみてるだけで
時間は過ぎます。それでも、10冊で区切るというのは私に新鮮。

その新鮮さとは、1冊の内容の深さを10冊へと分散するような軽さ。
う~ん。たとえば、30kの荷を一人でかついでゆくことと、
300kの神輿を10人で担ぐ引回しとを思い浮かべたりします。
なんのこっちゃ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

掛け合ってくれた

2025-03-28 | 先達たち
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」の最後に
「本書は、月刊『聖母の騎士』1983年1月号~1985年12月号連載。・・」
とあるのでした。うん。雑誌に連載されたものでした。

『人生の流儀』という題名にひかれて、安い古本を買いました。
萩本欽一さんから橋田寿賀子さんと14名へのインタビュー本。
この本の最後には
「本書は、2013年9月~2016年5月まで『しんぶん赤旗日曜版』
 『この人に聞きたい』に連載された記事の一部を、加筆修正して
 まとめたものです。・・・」とありました。

このはじまりの萩本欽一さんの言葉が忘れがたい。

「・・・劇場に入って3カ月目、演出家の緑川史郎先生に
『コメディアンの才能ないから辞めろ』って言われたんです。
 そのとき池(師匠の池信一)さんが、
『 いまどきあんなにいい返事する子いないから、下手だけど置いてくれ 』
 って掛け合ってくれたの。・・・緑川先生が、
『 この世界で大事なのは、うまいとか下手じゃない。
  あいつを応援したいって、劇場のトップの師匠に思わせたんだから、
  おまえ、きっと一人前になるよ 』 と言ってくれました。

  欽ちゃんが家庭の事情で休業しようとしたときも、
  池さんはみんなのカンパで窮地から救ってくれました。

 この日が人生で一番泣いたかもしれない。師匠は
『 おまえにあれこれ教えてもわかんないから、10年間デカイ声出しとけ 』
 とだけ言って劇場を去りました。次にトップに立つ東八郎さんに
『 欽坊を頼む 』と託してね。

 『 コント55号 』がウケなかったとき、やけくそで
 師匠が言ったように怒鳴りました。
『 なんでそーなるの! 』って。
 ハッと気がついたら跳んでたんですよ。それがウケた。
 ・・・・            」(p18~19)

はい。200円の古本をひらいたら、この言葉がありました。
あとはどんな方が登場するのか、とりあえず名前だけ引用。

 加古里子 高村薫 稲川淳二 降旗康男 市川悦子
 倉本聰 鈴木瑞穂 村山斉 田沼武能 山川静夫
 橋田寿賀子 益川敏英 那須正幹

はい。『しんぶん赤旗』は読まない私ですが、
この本、楽しめそうです。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大人買い。

2025-03-27 | 本棚並べ
古本で、成毛眞著「本は10冊同時に読め!」(三笠書房)を買いパラパラ読み。
そこに、「私は、3ヵ月に一度ぐらい大型書店に足を運ぶ。ただし、2,3冊を
買うのではなく、『ここの棚の端から端まで全部』という感じで大人買いを
している」(p125)という箇所がありました。

昨日は、高速バスで東京へ。行き帰りで5000円ほどなので
(何でも4月からまた値上げのようです)、わざわざ本屋へと出かける
気持は起らず、用事ついでに、ブラブラ東京散歩を楽しみます。

それにしても、成毛さんの『棚の端から端まで全部』という大人買いは
一読印象深いものでした。古本では、1冊が200円くらいなら新品ぽい本が
手軽に買える。これなら大人買いの楽しみが味わえます。
それに、棚から棚へというのは、本を見て選んではいないだろうから、
ネットで古本を注文するのと、そんなには、変らないかもしれません。

本は読まない癖して、本の題名を見ているのは楽しい。
というのが、最近の私です。届いた古本の背表紙題名を見て、
とりあえず、パラパラと本をひらいてみます。
本の運賃も高くなっておりますが、
都会へ足を運んで、本屋巡りをする運賃に比べれば安いものです。
惜しげもなく、安い本は溜まります。

成毛眞さんの本には、こんな箇所もありました。

「 結論からいえば・・私は紙の本がなくなるとは思っていない。
  本は情報伝達のツールを超えた総合芸術である。
  出版社がきちんと本をつくっているかぎり、
  読書家は少なくなってもいなくなることはない。 」(p132)


はい。拍手。いいなあ。
「 本は情報伝達のツールを超えた総合芸術である。 」

古本はまったくもって、古い本とのめぐりあいです。
その総合芸術に、お目にかかる偶然があるのでした。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人口減少と神社。

2025-03-24 | 書評欄拝見
3月23日(日曜日)の産経新聞読書欄に、
南陀楼綾繁さんによる書評が載っておりました。
嶋田奈穂子著「看取られる神社」(あいり出版・1650円)。

はい。新刊で注文することに。
南陀楼さんの書評のはじまりは、

「 神社は古代から集落の中心にあった。
  しかし、人口減少社会に入り、集落が消滅すると
  神社はどうなるのか?
  それが本書のテーマだ。

  福島県の奥会津の集落では、最後の住人が亡くなる前に、
  神社を取り壊し、焼いて更地にしたという。
  また、福井県のある集落では、最後に残った夫婦が
  神社を壊して更地にし、そこに『 菅八幡神社跡 』
  という石碑を建てた。  ・・・いずれも平成の話だ。  」

朝注文した新刊が、その日の夕方に届く。
パラリと『 はじめに 』を読んでみる。

「 神社の立地を研究テーマにした私は、
  まず足元の神社を調べてみることにした。・・・・

  『滋賀県神社誌』という分厚い本である。
  ・・ためしに近所にある神社を調べようと思ったのだが、
  載っていなかったのである。・・・・
  滋賀県神社庁は・・神社本庁の県支部のような組織である。
  ・・実際には、神社本庁は全国の≪宗教法人格をもつ≫神社を
  包括するというだけで、その県支部である滋賀県神社庁は、
  つまり滋賀県下で法人格を有し、神社庁に加盟している神社を
  把握しているのであって、それは実際に在る神社のほんの一部
  にすぎないのだ。・・・・

  先生の相談すると、≪ ゼンリンに載っているやろ ≫と
  ケロリと言われた。なるほど。『 ゼンリン住宅地図 』は
  調査員が実際に町を歩いてその状況を地図に落しているので、
  宗教法人であろうがなかろうが、そこに神社が存在すれば
  地図に載るのである。

  ・・・神社誌に掲載ている野洲川流域の神社数が110社ほど・・
  実際に行ってみると神社が更地になっていることもあったし、
  逆に地図に載っていない神社を見つけることもあって、結局、
  野洲川流域では378の神社に出会うことができた。 」(~p13)


読みやすい文と写真で、地方の地域の神社の推移がたどられております。
じつは、私の地元にも神社はあるのですが、神社の下にひろがる田圃が
後継者不足のためお米をつくらなくなって、他所事ではなく読むのでした。
私は私で、田植えもしたことのない、できない者です。
その癖して、お米を食べているわけです。
身近な問題として本をひらいております。

  


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

クスノキと、オリーブの枝。

2025-03-23 | 道しるべ
日本歴史に登場する『 本地垂迹説 』を思い浮かべるのでした。
あらためて、辻善之助著「日本仏教史」の第一巻をひらくことに。

「本地垂迹説は、仏教が日本の国民思想に同化したことを示すものであって、
 我国民があらゆる外来の文化を吸収し、之を咀嚼し、之を同化する力に
 富めることを示す多くの例の中の一つである。 」

「・・この説は、その初に於ては、神と雖も衆生の一つで、
 仏法を悦び、仏法を崇び、仏法によりて救済せられ、
 仏法によって業苦煩悩を脱するといふ思想から出たのであって、
 神と仏とは固より別物として並び行はれて居たのであるが、
 その思想が漸次発展して、神仏同体の説となり、
 仏教の教理を以て之が解釈を試み、つひに極めて煩雑なる組織を立て、
 その間にいろいろと附会して、所謂山王一実神道及び両部集合神道など
 といふものができて、某の神は某の佛の権化であると、一々その解説を
 つけるやうになったのである。・・・・」(p436~437岩波書店昭和35年)

それでは、仏教の次に来るものは?

白洲正子著「十一面観音巡礼」(講談社文芸文庫)の最後の方に、

「 本地垂迹説という思想は美しい。
  完成するまでには、少くとも二、三百年の年月がかかっている。
  はたして私達は、昔の人々が神仏を習合したように、
  外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。 」
                    ( p264 文庫 )

はい。この文庫を紹介していると、あれこれ、ながくなるので、
ここには、文庫の最後にある小川光三氏の「人と作品」から引用

「 例えば、日本の古い木造仏、特に飛鳥や奈良時代の彫像の材質は、
  主として樟木(くすのき)である。だがこの樹は、暖地性のため
  朝鮮や中国の北・中部には自生せず、これを用材にした彫像もない。

  それに対して、日本で使用されるクスノキとは、奇(くす)しき木、
  奇瑞をもたらす霊木のことで、神の依る神聖な樹と考えられていた。
  したがって、これを用材とした仏像は、日本古来の信仰が、
  新来の仏教文化と結合したことを物語っている。 

  『日本書紀』欽明天皇14年の条には、
  大阪湾の和泉灘(いずみなだ)に、厳かな音を響かせ、
  日の光の如く輝く樟木の大木が流れ寄り、これで
  二体の菩薩像を造ったとある。この記事が、
  日本で造像された仏像の初見で、仏教伝来の当初から、
  仏像は霊木で造るものとされていたのであった。    」(p303)


さてっと、ここでパウロ。
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」(海竜社)の目次に
「 渋柿甘柿 接ぎ木された木は新しい生を生きる 」というのがある。
そこには、パウロの「ローマ人への手紙11・16~24」の引用がありました。

「 麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうです。
  根が聖なるものであれば、枝もそうです。
  
  しかし、枝のあるものが折り取られ、
  野生のオリーブであるあなたがその代わりに接ぎ木され、
  元の木の根から来る豊かな養分にあずかっているからといって、
  元の木の枝に対して誇ってはなりません。たとえ誇るとしても、
  あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。
  ・・・・・   」(p47~48)

曽野さんの文は、雑誌に連載されたもので、この文も8ページほどです。
その短文の最後を引用させてください。

「信仰を持つと、人間は確かに180度変わる。しかしその変わり方を、これほど個性的にしかも正確に表現する、ということは並大抵のことではない。

幹は渋柿のものでありながら、枝に甘柿の実をならす私たちは、
しかし決して誇ることはできないのである。私たちの出身は、
あくまで渋いものであることを忘れてはならない。・・・・    」(p50)


白洲正子さんの宿題を、あらためて反芻します。

「 はたして私達は、昔の人々が神仏を習合したように、
  外国の文化とみごとに調和することが出来るであろうか。 」


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救済要求の沈黙の示威

2025-03-22 | 古典
「米騒動の研究」全5巻(有斐閣・昭和34年)は、
1918年(大正7年)の米騒動の全国的概要を都道府県別に詳細を調べています。

ここには、第1巻の「はしがき」のはじまりを引用。

「1918(大正7)年の米騒動は、周知のようにわが国の
 歴史上最大の民衆蜂起であった。それは7月22日の
 富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会にはじまり、
 9月17日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、
 すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたることろの
 農村、漁村、炭坑地帯など、1道3府38県、およそ500カ所以上に
 飢えた民衆の大小の暴動、あるいは暴動直前の不穏な状態として
 出現した。・・・・・・

 騒動の現象そのものは比較的単純であり、
 民衆は政治的要求を明確にすることも、ほとんどなかった。・・・・」


ネットで知った財務省前のデモも、最初の方では、
静かに集まって、各自が手製のプラカードを持っていたようでした。
それが、テレビに放映されるようになってから、騒々しさを増して
いるような気がしております(テレビの取り上げ方によるのか?)。

もどって、大正7年の米騒動に関連して、私の注意をひいたのは
この箇所でした。

「 佐渡の相川の明治維新前にもあった。
  『 安政元治の交(1854~64)米価暴騰のさい、
   窮民の婦女ら数十百人相集まり、人毎に椀一個を持ちて
   役所の前に集まり、組頭役の出庁を伺い、
   之を囲繞して無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・・』(相川町史)」
                 ( 第1巻p106 )


これは、騒動の類型という項目にでてきております。
そのページをもう少し詳しく引用してゆきます。

「  騒動の目標という観点から、居住型の米騒動は、
   さらにいくつかの類型に分けられる。
   第一は、富山県下のそれや岡山県の津山町、林野町、
   広島県の三次町、和歌山県の湯浅町などのように、
   自町村の米を他へ移出することを禁止する要求が
   事件のきっかけとなっている場合である。・・・・

   そしてこの型では、移出反対と同時に、
   市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
   家屋や器物の破壊など暴動にはならない。

   富山県下の事件でも、この型の運動では、
   被検束者の釈放を要求して警察に押し寄せているが、
   暴動はおこっていない。また富山県下では、
   女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
   救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、
   この形は同地方では、この年以前にも何回かおこなわれている。 」

こうして、佐渡の例を引用されておりました。

このあとに、第二の型が出てくるのでした。

「 第二の型は、米屋、米の貯蔵者等を主目標にし、
  安売りを強要し、相手がぐずぐずすれば、ただちにうちこわしをする。
  そうして一軒で打ちこわしをはじめると、その後の店では、
  しばしば安売り交渉も何もなしに、はじめから
  うちこわしになることがある。同時に米商以外の
  食糧品店、薪炭店等や高利貸、質屋、家主等をおそう。
  江戸時代町人の『うちこわし』とまったく同じである。
  ・・・六大都市をはじめ、都市の騒動はすべてこの類にぞくする・・」
                       ( 第1巻 p106 )

最後に、もう一度、相川町史の記述をもってくることに。

「 ・・婦女ら数十百人相集まり・・・
   囲繞して無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・  」

財務省前のデモでは、放置すればするほど、初期の無言のデモから、
だんだんと第二の型へ移行してゆかないとも限らないわけなのです。

ちなみにですが、大正7年から5年後の大正12年は関東大震災でした。
 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

希望を語るべき時

2025-03-21 | 本棚並べ
昨年当ブログで関東大震災に関係して、
内村鑑三と曽野綾子のお二人に登場してもらいました。
そのおさらい。

「 内村鑑三が62歳の時に、関東大震災に遭遇しております。
  
 『 大手町の衛生会講堂も焼け落ちて、内村はその働き場所を失った。
  東京市民はぼう然自失、不安におびえながらも右往左往し
  そのなす所を知らなかった。
  内村は一枚の紙に左(注:下)のごとく書いて玄関口にはり出した。

        今は悲惨を語るべき時ではありません。
        希望を語るべき時であります。 ・・・   』 」

          ( p567 政池仁著「内村鑑三伝」教文館1977年 )


思い浮かぶのは曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社2011年9月10日)。
こちらは、東日本大震災後に各雑誌等に連載された文をまとめたものです。
その本の最初の方にパウロの書簡をとりあげた箇所がありました。
そこを、あらためて引用させてください。

「 新約聖書の中に収められた聖パウロの書簡の中には、
  ところどころに実に特殊な、『 喜べ! 』という
  命令が繰り返されている。

  私たちの日常では皮肉以外に『 喜べ! 』と命令されることはない。
   ・・・
  聖パウロの言葉は、人間が命令されれば心から
  喜ぶことを期待しているのではないだろう。

  喜ぶべき面を理性で見いだすのが、
  人間の悲痛な義務だということなのだ。

  人間は嘆き、悲しみ、怒ることには
  天賦(てんぷ)の才能が与えられている。

  しかし今手にしているわずかな幸福を発見して
  喜ぶことは意外と上手ではないのだ。      」( p29 )


はい。昨年この箇所を読んだ時から、パウロを読みたいと思っておりました。
今年。ひょんなことから曽野綾子著『 心に迫るパウロの言葉 』が
あることを教えられました。はい。ゆっくりと話しながら食事をするように、
読んでゆきたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

素朴な人間の常識

2025-03-20 | 道しるべ
東日本大震災で、私に印象残った言葉に、
『地涌菩薩』と『パウロ』とがありました。
ここでは、地涌菩薩をとりあげます。

門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP・2012年)
瀬戸内寂聴・梅原猛対談「生ききる。」(角川ONEテーマ21新書・2011年7月)

この2冊に、地涌菩薩という言葉が出て来ておりました。
ここには、梅原氏の対談の言葉を引用しておきます。

「 『地涌(じゆ)』という語は『法華経』の
  『従地涌出品』第15に出てきます。

  『従地涌出品』という通り、いわゆる『本化(ほんげ)の菩薩』は
  天から舞い降りてくるのではなく、
  大地から湧き出してくるという考えです。
  ・・・この四菩薩は大衆の中にいて、大衆を導く仏です。
  というより、大衆自身。今、被災者のことを考えると、
  彼らこそ『地涌』の菩薩そのものなんです。
  だから必ず、地から湧き上がる力を持っている。
  私はそう考えます。 」(p52)


この『地涌菩薩』をどう捉えればよいのかと思っておりました。
そしたら、内村鑑三著・鈴木範久訳「代表的日本人」(岩波文庫)に
ヒントになる言葉があったのでした。この文庫には
最後の方に内村氏による「ドイツ語訳版後記」という文が載っております。
今回は、そこを最後に引用しておきます。

「・・私は宗教とはなにかをキリスト教の宣教師より学んだのでは
 ありませんでした。その前に日蓮、法然、蓮如など、
 敬虔にして尊敬すべき人々が、私の祖先と私とに、
 宗教の真髄を教えてくれたのであります。・・  」(p181)

「 すなわち、天がいかに純粋であっても、天だけでは実を結べません。
  キリストの言葉さえも、石地(いしじ)に落ちたならば、
  たちまち枯れてしまいます。
  あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を
  結ぶためには、良き地に落ちなくてはなりません。
  神の恵みは、天からと同じく地からも来なければなりません。
  さもなければ良き実を結ぶことはできません。
  人間の地上に属する要素を軽んじ、万人に対して
  ひとしく天からの福音だけで足ると考えるような信仰は、
  素朴な人間の常識に反します。
  それは実情にあわない話です。・・・  」(p183)

この内村鑑三の文は、このあとにパウロへの言及がありました。
なんだか、地涌菩薩とパウロとが結びつくような気がしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古本あるある価格。

2025-03-19 | 本棚並べ
注文してあった古本
曽野綾子著「心に迫るパウロの言葉」が届く。

はい。読む前にまずはご報告。この古本が届く前に、
品切れなど価格が変わっておりましたので、そのご報告。

3月14日の新聞で桑原聡氏が、この本を紹介されておりました。
当日の朝に、私は古本で注文をしたのですが、
その古本値は93円+送料257円=350円でした。
そして、その価格で実際に手元に届きました。

手元に届くまでに数日の時間がありましたので、
手持ちぶたさもあって、アマゾンと日本の古本屋を
もう一度検索しておりますと、日本の古本屋は、
しばらくして品切れとなり、アマゾンでは、
何と1万円以上に古本価格が設定されておりました。
古本も、需要と供給の要素が加味されるのでした。

古本ですから、ネット検索では、だいたい4~8冊の在庫を確認できます。
新聞で紹介された古本を、全国で10人ほどが読みたいと注文するとします。
すると、古本が品切れとなりさらに読みたい人がいれば価格は上がります。

その古本を読むのと、価格とは、ぜんぜん関係ないのですが、
普段安い古本を買っている私は今回珍しい体験となりました。

はい。じつは注文して出荷されるまで、
数日の間があり、その途中で古本屋さんの方から在庫が
確認できませんでしたと、注文キャンセルされる場合もあるのでした。
ですから、出荷が確認できるまでは、それなり心配をしておりました。

古本を注文するにも、いろいろとあります。
今回は、古本注文の、あるある報告でした。
はい。届いたこの本をひらいて読むことに。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

苺を食べた

2025-03-18 | 詩歌
河合隼雄+谷川俊太郎「魂にメスはいらない ユング心理学講義」
(朝日出版社・1979年)には、付録の「注釈集」がありました
( 注:古本では、この付録が欠けてる場合もあります )。

この注釈集を読みたくなり、ひらく。
付録は、26ページの小さな冊子です。ここで、
河合隼雄が谷川俊太郎の詩を読み解いてます。
付録の最後に、河合さんが書いております。

「よもや自分が詩の解釈をやることになろうとは思ってもみませんでした。 
 別に熱心な詩の読者といういわけではなし、
 読んでもよくわからないといった程度でしかないのですが、
 それでも谷川さんの作品は以前から好きでした。・・・・

 編集部からユング派用語解説を兼ねた谷川さんの詩の解釈を
 ぜひと言われ、谷川さんご自身からもやってみてほしいとの
 お申し出がありましたので、
 とうとう身のほど知らずのことをやってしまいました。・・・
 読者の皆さんにとって何かの参考になればありがたいと思います。 」

谷川俊太郎の詩を引用してから、河合隼雄さんの解釈を載せています。
詩集「定義」から、詩「疑似解剖学的な自画像」を引用したあとの、
河合さんの解釈には、こんな箇所がありました。

「・・それにしても、自画像の冒頭から『 苺を食べた 』と言えるのは、
 ずいぶん幸福な幼児期を持った人でしょう。このことは、
 谷川さんの感受性の豊かさの源泉でもあるようです。・・ 」(p7)

p16には、別の詩に関して河合さんが感傷性へ言及した箇所がありました。
最後には、そこから引用しておきます。

「 ・・谷川さんという人には、日本人には珍しく
  感傷性が少ない感じを受けます。
  日本の詩というのは一般的には非常に感傷的で、
  詩人自身も子供のうちから抑圧され溜まりすぎるほど
  溜まったものを、成長してから一つのフォルムに入れて
  表現するというタイプの人が多いように思うのですが、
  谷川さんの場合、抑えつけられることの少なかった人
  ではないかという気がします。
  この意味で、自己肯定感が谷川さんには
  強いのではないかと思うわけです。・・・   」


手元には
 芸術新潮3月号「追悼谷川俊太郎」(2025年)
 谷川俊太郎詩集「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」(青土社)
 ユリイカ「谷川俊太郎による谷川俊太郎の世界」(1973年11月臨時増刊)
 LECTURE BOOKS「魂にメスはいらない」(朝日出版・1979年)
 谷川徹三著「人間であること」(現代日本のエッセイ・昭和47年毎日新聞)


さあ、今日明日には、待っていた曽野綾子さんの古本が届きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

父の芝生。

2025-03-17 | 道しるべ
芸術新潮3月号の特集は、追悼谷川俊太郎とありました。
うん。気になって購入。雑誌の写真を覗くことに。
そういえば、谷川俊太郎を最初に読んだのは、
写真のはじに言葉が並んでいる感じの詩集でした。
何だか、いっぱい詩集を出していたので、ついてゆけず、
手がとどかずに「 すっぱい葡萄 」よろしく、
読まずに、あれこれ思っておりました。
その人の追悼号だというので、手に取ったしだいです。
活字は読まず雑誌に採りあげられている写真をめくる。

なかに、『 父・俊太郎さんのこと 』と題して
長男・谷川賢作氏と、長女・谷川志野さんが文を寄せております。
お二人の写真入りの文を読みました。

ああ、俊太郎さんは、長男に賢作とつけたんだ。
すぐに、思い浮かぶのは、宮澤賢治でした。
谷川俊太郎の父・谷川徹三氏の本に、
「 宮沢賢治の世界 」という本があったなあ
( 読んでいないけれど )などと思います。

谷川俊太郎の詩集
「 夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった 」(青土社・1975年)。
のはじまりの詩は、『 芝生 』でした。

     芝生

  そして私はいつか
  どこかから来て
  不意にこの芝生の上に立っていた・・・・・

と、はじまる7行ほどの詩でした。
長男さんの名前を見た時に、
この芝生というのは、父谷川徹三のことじゃないのか?

はい。写真を見ながら、長男・長女の文を読みながら、
そんな父の芝生を思い描いております。
今度、谷川徹三著「 宮沢賢治の世界 」をひらくことに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

曽野さん、これからも

2025-03-14 | 古典
今日の産経新聞(2025年3月14日)のオピニオン欄。
桑原聡の連載「モンテーニュとの対話」198回に、
曽野綾子さんの写真が載っているので読んでみる。はじまりは

「 屋上屋を架すようだが、どうしても先日亡くなった
  曽野綾子さんのことを書いておきたい、そう思い
  『 心に迫るパウロの言葉 』(新潮文庫)を
  何度も立ち止まり、反芻しながら読み返した。

  ・・・・40年近くも前の文章にもかかわらず、
  鮮度はまったく落ちていない。・・・・ 」

この桑原氏の文の最後も引用しておくことに

「 ・・・これからも折に触れて
  『 心に迫るパウロの言葉 』を紐解くことになるはずだ。
  曽野さん、これからもよろしくお願いいたします。  」


はい。さっそく、その古本を注文する。
届くのは3月20日頃となっておりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする