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和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

人生の助っ人。

2025-03-13 | 道しるべ
産経抄(2025年3月6日)の曽野綾子追悼コラムのなかで、
曽野綾子著「夫の後始末」へと触れておられた。
それが気になり古本で注文(講談社・2017年)。届く。

三浦朱門は、1926年(大正15年)生まれ。

「夫・三浦朱門は2015年の春頃から、様々な機能障害を見せるようになった。
 内臓も一応正常。癌もない。高血圧も糖尿病もない。
 私と違ってすたすた長距離を歩く人であった。しかし
 その頃から時々、すとんと倒れるようになった。・・・・

 どこが悪いか検査するための入院をしたのが2015年の秋だが、
 その短い入院の間に、私は日々刻々と夫の精神活動が
 衰えるのを感じた。ほんとうに恐ろしいほどの速さだった。・・  」
                          (p6~7) 

作家・曽野綾子氏による、大局的な視点が語られております。

「 この本を書く理由は私が現在、多くの日本人が直面している
  典型的なケースを生きているからである。・・・

  気がついていても、どうにもできないこともある。・・・
  ほとんどの人が覚悟もできないままに、思ってみなかった
  新たな問題に直面しつつ生きることになる。

  そうした失敗談の報告者として、作家は適任だろう、と思った・・
  作家は、美も醜も、道徳もふしだらも、成功も失敗も、
  同じような姿勢で書ける訓練を積んでいる。
  だからうまくいけば報告書になるのである。  」

この報告書のなかには、友人たちの言葉がところどころに
はさまれておりました。その友人たちのなかには

「 私はカトリックの修道院の経営する学校に育ったので、
  友人の中には修道女が多い。常にその中の何人かは、
  アフリカの僻地に入って、子供たちに字を教えたり、
  小さな診療所で働いたりしている。  」

こういう方々や他の方々の言葉も混じります。
『 「話さない」は危険の兆候 』という箇所を紹介。

「 ・・老人が言葉少なになったら、一つの危険の徴候である。・・・

  会話も同じである。幼いとき、若いうちから、年相応の
  爪先立ちしない自然な会話力に馴れるためには、
  国語力も、自分を保つ勇気も、いささかの知識も、
  他者に教えてもらうという謙虚な姿勢も、
  すべて学んでおかないと、老年の生活に滑り込めない。 

  ・・・・だから私たちは会話のできる人として
  老後を迎えなければならない。
  自宅で家族に面倒を見てもらうにしても、
  老人ホームで暮らすにしても、
  『 ありがとう 』を言える習慣に始まる会話を続けることは、
  むしろ老人の任務と言っていいほどである。  」( p84~86 )


 聖路加病院の故・日野原重明氏との対談での
 『 やってはいけない三つ 』のことがこの本の中に
 二回紹介されておりました。はい。考えさせられます。

産経抄の追悼文に「おばさん」とありました。
その話が登場するのも、この本にありました。

「・・・息子は独立し、夫は私を『 おい 』と呼ぶ人でもなかったから、
 或る年、息子の友達が遊びに来て、私のことを『 おばさん! 』と呼んだ
 のを、これは便利な呼び方だと思ったらしい。
 以来しばしば『 おばさん 』と呼んだ。・・・・

 おばさんという呼び方には、様々な字が当てはまるが、
 いずれにせよ、人生の助っ人になるには、いい立ち位置だ。
 朱門は私に、人生のおばさんになることを望んだのかもしれない。」
                  ( p226~228 )


はい。もう一度読み直そうと思うのでした。
これは、「週刊現代」2016年9月24・10月1日号~2017年7月1日号の
連載を、単行本にあたり、加筆修正を行いました。と最後にありました。



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世話焼きのおばさん。

2025-03-06 | 産経新聞
産経新聞2025年3月5日の一面左上に
『 曽野綾子さん死去 』とありました。
「 2月28日、老衰のため死去した。93歳。葬儀は近親者で行なわれた。 」
と伝えております。
今日(3月6日)の産経新聞一面コラム「産経抄」に
その追悼文が載っておりました。そのはじまり

「 いつからか、作家の三浦朱門さんは妻を
  『 おばさん 』と呼ぶようになった。
  呼ばれた曽野綾子さんは、納得していたようである。
  『 家事はできるし、ご飯も食べさせてくれる。
    それでいて、母親ほど煩(うるさ)くはない 』
  からだろう――と

 ▼ ・・・・曽野さんの持論を知って腑に落ちた。
   『 滑稽な夫婦は安定がいい 』。
   滑稽とは弱みをさらけ出し、弱みを愛せる関係のこと。
   そんな夫婦は強い、と書いていた。            」


はい。コラムの前半です。真中を端折って、コラムの後半も引用。

「 自身を『 世話焼き 』と呼んだ曽野さん・・・
  ・・・聖書の一節を愛唱したと聞く。
  人のために尽くせば、救われた多くの人が次の時代を創ってくれる。
  だから命ある限り働き、老いも死も抗わず受け入れる――。
  そんな死生観もつづっていた。

  ▼・・・・三浦さんが平成29年に他界した後も、
   小紙でエッセー『 透明な歳月の光 』をしばらく続けていただいた。
   読者の一人として感謝の念も寂しさも尽きないものの、
   夫婦水入らずの時間を曽野さんにお返しする。   」


はい。私は小説は読まないので曽野綾子の本はほとんどが未読。
今思い浮かぶのは、「東日本大震災の個人的記録」と副題がある
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日)でした。
これは、東日本大震災直後新聞雑誌に掲載された文をまとめたものです。

「幸か不幸か地震と共に私は、たくさんの原稿を書くことになった。
 私はいつも周囲の情況が悪くなった時に思い出される人間なのではないか、
 と思う時がある。 」( p27 )


曽野綾子は1931年(昭和6年)生まれ。本のはじめにはこうもありました。

「私と私の世代は、この世に安全があるなどと信じたことがなく育った。」
                        ( p19 )
「 今度の地震でも、比較的老年の人は
  ほとんど動揺を示さなかった。多くの人は、
  幸福も長続きはしないが、
  悲しいだけの時間も、また確実に過ぎて行く、
  と知っている。
  どん底の絶望の中にも、
  常に微かな光を見たからこそ、
  人は生き延びてきたのだという事実を体験しているのである。 」(p20)


うん。この年代の方々が、ごそっと居なくなってしまった。
そんな思いを抱かせる『 おばさん 』なのでした。
  
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『術と思い』のマイブーム

2025-03-04 | 絵・言葉
古本で注文してあった
「横尾忠則 寒山百得展」カタログ図録が手許に届く。
その最後をめくると、令和5(2023)年9月12日発行とあり、
編集が、東京国立博物館・読売新聞社となっております。
ああ、それで読売新聞に展覧会の紹介が絵入りで載ったのでした。

最初の方には、曽我蕭白筆「寒山拾得図」が載っている。
紹介文の最後にある注には、こんな本紹介がありました。

「 『 寒山拾得――描かれた風狂の祖師たち 』展図録
  栃木県立博物館、1994年には、多くの寒山拾得図が収録されている。 」

はい。マイブーム。
つぎは、この栃木県立博物館の図録を古本で注文します。
それが届くまで、この横尾忠則のカタログ図録をひらいていることに。
寒山拾得の巻物はトイレットぺーパーに、箒は掃除機にと
絵はめまぐるしく、寒山拾得の百面相ならぬ百姿を
気分にしたがって、くるくると変遷させてゆきます。

私に思い浮かぶのは、小熊秀雄の絵だったりします。

横尾忠則が、この絵の連作を完成したのが87歳。
最後には、図録の「 ごあいさつ 」から引用。

「・・・・・・寒山と拾得は、脱俗的な振る舞いで知られる
 中国の伝説的な人物で、現代に至るまで数百年の時代を通し、
 多くの人々を惹きつけてきました。横尾もその歴史の最先端で
 独自の解釈を行い、新たな寒山拾得図を切り拓いています。

 さまざまな困難な状況に囲まれた現代社会の私たちを取り巻く世界と、
 そのなかで生きる術と思いを、『寒山拾得』が照らし出す精神のあり様
 を通して、見つめなおす機会となれば幸いです。・・・・・  」


はい。どうにも、触手が動くマイブームです。


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見出し・小見出し・歌壇俳壇。

2025-03-02 | 重ね読み
読売の古新聞が3年分たまっていたのが、
束ねて、今度の回収に出すことに。

月一回の『磯田道史の古今をちこち』も切り取ってあります。
この磯田氏の連載は、途中挿絵の描き手が亡くなってしまい、
現在は磯田氏本人が描いておられて、以前の挿画が素晴らしかったせいか、
何とも物足りないのでした。
挿画といえば、司馬遼太郎「街道をゆく」での連載での、
須田剋太氏が思い浮びます。

読売新聞の読書欄(日曜日)も、読売歌壇俳壇(月曜日)とともに、
ちゃんとページごときりとっておいたのですが、この頃書評欄は
見ないからなあ。でも3年分で一冊の本とめぐり合えたらそれでOK。

読書欄といえば、月刊雑誌連載の蒟蒻問答で、
堤堯氏が語っておりました。

堤】 ナベツネが読売新聞の社長になった時に俺は
  「文芸春秋」の編集長で、「いろいろ知恵を貸してくれ」と
  言われて一席設けられたことがある。・・・・

ここで、全五段の広告の値段が、朝日新聞の方が高いことに、
腹を立てており『何とかならないか』と言われて

   対して、俺はこう答えた。
  「 それはクレディビリティ(信頼性)の問題ですよ 」
  「 どうやったら高められる? 」
  「 手っ取り早いのは読書欄の拡充です。
    これを拡充すれば、新聞の格が上がる 」
   そうしたらほどなく、1ページだった読書欄が2ページに増えた。
   彼って素直なところもあったね。
   その頃に来たナベツネの年賀状は、
  「 YとBでAをやっつけましょう 」 と書いてあったよ。
   Yは読売、Bは文春、Aは朝日だ。
            ( P121 月刊Hanada令和7年3月号 )

 今回の読売新聞切り抜きでは
 関谷直也氏の「 災害記憶防災に 忘却前提に伝え継ぐ 」
 という文化欄のインタビュー記事が読めてよかった(2024年2月1日)

 そうそう、2023年9月27日の特別面には
『 横尾忠則 寒山百得展 開催中 』というのがありました。
 そのはじまりを紹介しておくことに

「  寒山と拾得は、世間の規範にとらわれない
   『 風狂 』の象徴として伝統的な画題となっている。
   日本でも鎌倉時代から描かれている。
   横尾さんは、2019年からこの詩僧を描くようになった。
   本展のための制作は
   『 寒山拾得の「拾(十)」を「百」にしてみよう 』
   という思いつきから始まった。
   1年5か月間の早さで100点を完成させ・・・
   『 アーティストではなく、アスリートになったようだった 』
   と語る。 ・・・・・・    」


何だか面白そうで、古本で「寒山百得展」カタログを注文しました(笑)。

あと、気になったのが2024年9月29日「本よみうり堂」でした。
「ネットと書評の現在」とあり、書評サイト「HONZ」が13年間の
運営を終えたことを紹介しておりました。
はい。私はHONZのことを知りませんでした。
それはそうと、ネット書評の経験について、こんな箇所がありました。

「 見出しから計算し、最初の1段落目から2段落目で
  読者の心をつかまないと、読むのをやめられる。
  何を紹介し、どこで止めるかといったことも考えます 」


はい。読売の古新聞を3年分とりあえず、ひらきましたが、
どうしたかって、めくりながら見出しと写真とを見るだけ
( 朝日新聞のように、見出しを誤魔化すのはいけません )。

見出しといえば、鷲尾賢也「編集とはどのような仕事なのか」に
小見出しへの言及があったことを思い出しました。

「 ひとつには眼の休息をとり、読みやすい印象をつくるためである。
  ・・・・・
  小見出しはそういった装飾的側面だけではない。
  人間の思考能力は高いものがあるが、じつは
  二、三ページ以上、誌面を眺めつづけていると、
  誰しもが少し飽きてしまうところがある。
  書く方も同様である。せいぜい
  四、五枚(400字詰め)ほどで、ひとまとまりのはなしになる。
  それを越すと、またべつの素材が必要になってくるのではないか。
   ・・・・
  読み手、書き手の意向が合致して、
  書き手は思考が転換するところ、
  読み手は少し眼が疲れ、読むのに飽きる地点に区切りをいれる。
  これが小見出しということになる。・・・・  」
  ( P129「編集とはどのような仕事なのか」トランスビュー・2004年)

はい。ちなみに、鷲尾賢也氏は、小高賢の名で歌集も出されておりました。
ということで、見出しから小見出し、そして歌壇俳壇へとつながるようで、
古新聞の整理も無駄ではありませんでした。

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読売歌壇 これはまた

2025-02-27 | 詩歌
土屋文明著「読売歌壇秀作選」(読売新聞社・昭和62年)という本。
この本の最後には「短歌八十年」という聞き書きが載っておりました。

「 読売歌壇の選歌評には、年齢のあじわいがあり、
   九十六年の健康をささえているものは   」という質問があります。

うん。検索すると、土屋文明は生れは群馬県(今の高崎市)。
1890年~1990年(平成2年)。
たいへんな高齢で長く歌壇選評をしていたのだなあ。 

せっかく、ひらいたので、本文から一箇所だけ引用。

  降りしきる雪のごとくにわが心君を思へば清くはかなし
                    茨城県 郡司珠希

この一首に寄せた土屋文明の選評は

「 これはまた、ひどく古典の一首だ。
  調子の乱れもなく一貫してまとまっている。
  ただし、いつも、この様な調子ですませては
  進歩というものは無くなってしまう。    」( p59 昭和59年より )


また、インタビューの箇所にもどると、こんな質問がありました。

「 土屋さんは読売新聞朝刊の歌壇欄と地方紙一紙の選評を担当している。
  一般的に、俳句の応募数は短歌の二倍といわれるが、
  読売新聞の場合の土屋さんあての応募はがきの数は、
  俳句への応募数とほぼ同じである  」 ( p234 )

これへの答えを、最後に引用しておきます。

「 いつも新しい人、新しい人と思いながら選をしますが、
  どうしても幾人かの人に偏りがちになります。
  どこか力が違うもんでネ。
  でも、なるべく新しい人を見いだすことに、
  新聞の歌壇欄の意義があると思います。・・・・ 

  歌の読み方にもいろいろありますが
  はがきはしまいまで全部読みますよ。・・・・
  いまのところ、二段式にしていまして、
  初めに目にとまったものだけを別にして置いて、
  それを何日か日をあけて二回読みしてから選評にとりかかります。 
  ・・読売の選歌は昭和二十二、三年ごろからやっていると思います。 」


はい。こういう新聞の歌壇俳壇というのは、
なかなか本になりにくい。古新聞を切り抜いていると、
なんだか、歌壇俳壇の歴史の流れを味わえているような感じになります。
ここに、言葉が息づいているというような。
ということで、まだ整理されていない古新聞があるわけです。
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さよなら三角また来て四角。

2025-02-26 | 詩歌
今日は、午前も午後も、もらって来て数年分
そのままになっていた、読売の古新聞を整理。

古新聞をめくっていると指が汚れてくるので、
ナイロン手袋でめくりはじまたのですが、
なかなかページがめくれないのでした。
さらに指にゴムをはめて頁めくりをしようとしたのですが、
こちらもうまくいかない。
午後になって、農作業などにつかうゴム手袋をつかってみる。
これが良好で、ペースがはかどる。
目次をみて、広告をみて、パラパラめくって、
とりあえず、目をとおすことに徹するのですが、
今日もまだ、終わらず、このあと数日かかりそうです。

切り取っているのは、読売歌壇・俳壇(月曜日)でした。
とりあえず、今日切り取った読売歌壇から収穫を引用。

  エッセーを四十編読んだ心地して
        歌壇を閉じて冷めた茶を飲む
                堺市  山口恵津子

  飼ひ猫は生老病死身をもつて示し静かに此の世を去りぬ
                日立市  鶴岡育枝

  娘ではないから言える初恋のはなしを『ヘルパーさん』吾は聞く
                新宮市  小野小乃々

  コーヒーを飲もうよ姉と喫茶店初めてかもね七十路にして
                福山市  石川茂樹


以上は、小池光選の一番目に載った短歌でした。
ちなみに、選者の二番目は、栗木京子さん。栗木さんの選も一首

  消しゴムのカスを残して孫帰る今度いつ来るまた来て四角
                高松市  好井喜久代

栗木さんの評を引用しておきます。

 「 祖父母の家で字や絵を書いて過ごした孫。
   消しゴムでなく、そのカスを残したところに臨場感が漂う。
  『 さよなら三角また来て四角 』を生かした結句も味わい深い。 」

     
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Kentucky Fried Poem

2025-02-24 | 詩歌
古本で長田弘詩集『 食卓一期一会  』が200円。
持っているには持っているのですが、いつのまにか、
黄色のシミがひろがり気になっており、買うことに。
こちらの古本はというと、シミもなくきれいでした。

はい。はじめての本のようにして『後記』を読む。
そのはじまりは

「 食卓は、ひとが一期一会を共にする場。
  そういうおもいが、いつもずっと胸にある。
  食卓につくことは、じぶんの人生につくこと。
  ひとがじぶんの日々にもつ人生のテーブルが、食卓だ。
  かんがえてみれば、人生はつまるところ、
  誰と食卓を共にするかということではないだろうか。 」

ああ、こういう詩集だったのか。とあらためて思う。
後記の最後も引用しておくことに。

「 これらの詩を書く機会をつくってくださったおおくの方々に、
  とりわけ『婦人之友』編集部に深く感謝する。
  直接間接にはげましていただいた
  安西均、石垣りん、鶴見俊輔、村本晶子の各氏に、
  手がけていただいた原浩子氏に感謝する。  ( 1987年8月 ) 」


長谷川四郎読本「ぼくのシベリアの伯父さん」(晶文社・1981年)
という古本をひらいた時には、長田弘さんの詩がトップにありました。
最後には、その詩を途中から引用しておきます。


     ・・・・・・
     じゅうぶんに火をとおす。
     カラッと揚げることが
     言葉は肝心なんだ。
     食うべき詩は
     出来あいじゃ食えない。
     言葉はてめえの食い物だもの。
     Kentucky Fried Poem じゃ
     オ歯にあわない。
     ぼくの伯父さん、あなたは
     今日どんな言葉を食べましたか?


私といえば、この長谷川四郎読本の最初の詩を読み、
もう満腹で、いまだ、その先は読んではおりません。
こんな時は、そっと本棚へ『食卓一期一会』の並び。
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『 案の練ってある 』

2025-02-22 | 安房
一週間たって歯の痛みがとれないので、
先週予約してあった歯医者へ出かけ、神経を抜くことに。
とりあえず、奥の膿を抜く治療をして今度予約は3月3日。

すこし待ち時間があったので、大村はまの文庫を持ってゆく。
線を引いた箇所をパラパラみていたら、こんな箇所があった。

  『 じゅうぶんに案の練ってあるいい話の時は、
            不思議とよく聞いてくれます。 』
  ( p78 大村はま「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

はい。昨年同様に、今年も年一回の講座があると思います。
昨年は、『 安房郡の関東大震災 』と題して短い時間ですが語りました。
今年も、依頼があれば、同じ題で語ろうと思います。募集人員は20名ほど、
70代以上がほとんどで、60代が1~2名というのが昨年でした。
はい。『 不思議とよく聞いてくれます 』という話をしたいです。
歯医者の待合室で、そんなことを思いながらすごしました。

ちなみに、関東大震災はもう百年過ぎてしまっております。
身近な、令和6年能登半島地震や、熊本地震・阪神淡路地震、
そして、東日本大震災をとり上げながら、百年前の大震災を
浮び上らせるように、語ってゆければと思っております。
はい。ちょっとづつ『 案を練って 』8月の講座へむけて・・。
なんせ、私にとっては一年一回の講座という晴れ舞台なのでした。

そういうわけで、当ブログも、そのつながりが語られると思います。
あちこちへと寄り道するヨチヨチ歩きになりますが御勘弁ください。

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能登半島地震と房総半島地震。

2025-02-21 | 地震
姉の家では、読売新聞を購読しており、
その古新聞を、一ヶ月ごとに貰ってきます。
はい。そのまま読みもしないで積んであり、
その古新聞が読まずに数年分たまっている。

昨日今日と、パラパラと見出しをながめては、
写真や広告に目がいくのですが、そそくさと、
ゴミ回収に出せるようにと、束ねてゆきます。
読売歌壇俳壇と、読書欄とを頁ごときりとる。
そんななかで、
地震関連で、ああそうだと思った箇所がありました。

令和6年能登半島地震は、2024年1月1日でした。その前の年、
令和5年5月6日読売新聞一面に「能登で震度6強」との見出し。
当日(2023年)の社会面ヨコ見出しが「崖崩れ家を直撃」で、
「続く余震『怖くて眠れない』」とタテ見出しがありました。
崖崩れや、屋根がペシャリと崩れた写真が掲載されています。

能登では、半年も前に震度6強の地震に見舞われていたのでした。
そこから、私が思い浮かべたのは房総半島の関東大震災でした。

千葉県郷土史研究連絡協議会編「 房総災害史 」(昭和59年)
( 郷土研叢書Ⅳ・千秋社 )。

そこにある君塚文雄氏の文にこうありました。

「明治時代に入ると、房総半島南部には大被害をもたらした大地震は
 あまり見られない。・・・大正時代には、房総南部では11年(1922)
 4月26日の地震がやや大きいものであった。
 震源地は浦賀水道、規模はM6.9とされている。
 筆者も小学生の遠足の途次、那古町藤ノ木(館山市那古)通りで
 この地震に遭遇し、驚いて逃げまどった記憶が生々しい。
 当時の北条町では煉瓦造りの煙突が折れ、県下全体で
 全壊家屋8戸、破損771戸の被害があったといわれる。
 続いて翌大正12年(1923)9月1日の関東大震災があった。 」(p174)


この大正11年の地震と、大正12年の関東大震災の地震と、
この2つの地震に関連して私に思い浮かべたのは、
「県立安房高等学校八十年史」でした。

まず、当時の校長先生の文

「大正12年9月1日、正午に近き頃、激震にわかに起る。
 予当時校長室にありて、校舎増築の監督と会談中なりき。
 大正11年の激震より推して敢えて驚くに足らずとせり。

 然れども、動揺激甚にして校舎も倒れんばかりなりしより、
 出づるに如かずと・・・出てその前にありし高野槇につかまる。
 地の動揺さらに激甚を加へ、振り離されんばかりなり。  」

さらに、柳宗悦にとって事実上の長兄にあたる柳悦多(よしさわ)氏
への記述が、この八十年史に載っているのでした。そこから引用。

「本校校舎は、校長室の一棟(12坪)、理科教室を含む南校舎一部半壊を
 残して、一瞬の中に倒壊したのであった。

 ・・・大半の生徒は下校していたが、たまたま当日同刻、
 記念図書館二階広場では、数十名の生徒に対し、
 柳悦多氏の野球に関する講話が行われていた。・・・

 柳氏はすばやく全員の生徒を階下に避難せしめたため、
 生徒に事故はなかったが、自身は川又務五段と向い合って
 二階の窓わくに馬乗りにまたがって、悠然としていたところ、
 余り激しい震動のため、川又氏は外へ、柳氏は内へ投げ出され、
 柳氏は倒壊家屋の下敷きとなって不帰の客となったのであった。
 
 氏(柳悦多)は遠洋漁業に従事し、その基地として館山に在住の傍ら、
 大正4年から3年間、本校の柔道教師をもつとめ、
 柔道部の興隆にも尽くし野球部の強化にも援助を惜しまなかったのである。」
                       ( p196~197 )


ここで、なぜ柳氏は、二階へと戻ったのか?
当時の安房高校長先生は、
「 大正11年の激震より推して敢えて驚くに足らず 」
と記してあったのがヒントになりそうです。
『 二階の窓わくに馬乗りにまたがって 』という言葉が
貴重な教訓として思い浮かぶのでした。


ちょうど、能登半島と房総半島とを地震の関連で思い浮べたのでした。



注:鶴見俊輔著「柳宗悦」(平凡社選書のち「続鶴見俊輔集4」)にも
  この柳悦多氏への記述があるのですが、多少異なります。
  私は八十年史の方の記述を事実として採用しました。




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20歳前後に読んだ本。

2025-02-19 | 本棚並べ
内村鑑三は、1861年(万延2年)~1930年(昭和5年)
正宗白鳥は、1879年(明治12年)~1962年(昭和37年)

年譜を見ると、正宗白鳥は70歳(昭和24年)の時に、
「内村鑑三」を雑誌に連載しておられる。
そこから、引用しておくことに。

「 ・・私も少年期青年期には、いろいろな方面に渡って
  さまざまな人間に心酔したのであった。
  そのうちで誰にもまして私が心酔したのは、
  内村鑑三であったように思われる。何故であるか。

  20歳前後の数年間、内村の筆に成る者はすべて熟読し、
  その講演は聴き得られる限り聴いた。
  青年期にそれほどに心酔していたとすると、私の一生に
  彼の及ぼした感化影響は容易ならぬものであった筈だ、
  と想像されるが、果して異常の感化を受けていたであろうか。
 
  老後の私はそれを考えている。そして、
  昔読んだ初期の内村の作品を読み返して、
  わが受けた感化の真相を検討しようとしている。 」
   ( p22 正宗白鳥著「内村鑑三 わが生涯と文学」講談社文芸文庫)


あと一か所引用しておきます。

「 私は病後、まだ癒り切らぬ弱い身体を引提げて上京した。
  下宿屋の粗末な食事に安んじて学校通いしていたが、
  私の身体は見掛けは弱いようでも、心は強いところがあるのか、
  次第に気力は回復し、学問修行に堪えられるようになった。
  ・・・・・・・
  あの頃の私には内村第一であった。彼によって刺激され、
  彼によって智慧をつけられ、彼によって心の平和を得る
  道を見つけんとしたのであった。
  内村は演説がうまかった。
  植村(正久)の説教を聴いていると、眠くなるようであったが、
  内村は我々を昂奮させ、眠い眼をも醒まさせるのであった。
  押川方義はあの頃の基督教界の雄弁家であったが、
  これは世俗的雄弁家で、内村は精神的雄弁家であった。
   ・・・・・
  私は独りとぼとぼと読んでいたのであったが、
  内村の聖書の解釈が直裁であり、基督教観に、
  他の伝道者の説と異った独自一己の趣があるのに心惹かれ、
  それによって、我が聖書の読み方が生きて来るような
  気がしたのであった。 」 ( p23∼24 同上 )


20歳前後に読んだ本は、私は何だったかなあ。
「日本人とユダヤ人」は、読んでおりました。
さてっと、これくらいにして、これから未読の
内村鑑三の著作を文庫本でもって、読んでみようと思うのでした。

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「暮しの手帖」と「聖書之研究」

2025-02-17 | 本棚並べ
「暮しの手帖」といえば、花森安治。
そして「聖書之研究」が、内村鑑三。
どちらも、雑誌に広告を出しておりませんでした。

講談社学術文庫の「内村鑑三文明評論集」1~4巻には、
その各巻ごとに、山本七平の序が載っております。
その「第二巻の序」に興味深い箇所がありました。

『本誌の為さざること』の中に、次のように規定している。

    商売人に広告を依頼しない、
    名士に寄書を乞わない、
    人に寄付金を乞わない、
    人の著書を批評しない、
    人物評を掲げない、
    主筆の精読を経ざる文章を掲げない、
    人に購読を進めない、
    誠実の存するあれば文章をかまわない。


ところで、この本のはじまりには、山本七平による
『 内村鑑三と「 聖書之研究 」 』という文がありました。
今回の最後には、そこから引用させていただきます。

「 彼(内村)はなんぴとにも顧慮せず、一切の気兼なく発言できた。
  そしてこれを支えたものが、自らが経営し経済的に自立し立派に
  採算に乗っていた『聖書之研究』誌であった。
  ここが、世俗を超越しているようなジェスチュアをしつつ、
  実際は世俗に寄食していた人びとの発言と違う点である。
  
  そしてこの基盤を維持しつづけたという点で彼は、
  一事業者としても凡人ではない。40歳で、徒手空拳、
  無資本で独力で何の背景もなく、常識では現在ですら
  採算が乗り得ないはずのこの特異な雑誌を創刊し、
  爾後約30年、通算357号、その死に至るまで立派に発行しつづけ、
  その間ただの一度も経営的危機に見舞われていない。
  そしてこの経営によって社員を養い、自らと家族の生活を支え、
  ・・・・・・・

  一銭の寄付を求めず、ミッションの援助もなく、
  しかも30年間、印刷所への支払い日と入校日を
  一日もたがえたことがないという実績は、
  その堅実さを物語っている。
  私が彼を世俗の人としても決して破綻者でなく
  むしろ成功者であったと記したのは、以上の意味である。

  そしてこれが、彼の社会への批評が生きた批評であり同時に、
  すべての『 現実に日本という社会に生きている者 』にとっては、
  その現実の姿を的確に論評しつくしたという点で、
  一つの指標となり得る批評である。・・・   」
  ( p4~5 山本七平編「内村鑑三評論集 勝利の生涯」上巻・山本書店)
  

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暴威を揮つたジャーナリズム

2025-02-16 | 先達たち
昨日は、はじめての歯医者へ。
通い慣れた歯医者さんが、やめてしまい。
結局近場の別の歯医者さんへ行くことに。
それから、週4回ほど開く画廊へ、
こちらは、都会の画廊を畳んで、移り住んだ方です。
明治時代にアメリカに渡った女性に関する企画展ということで、
資料を購入して帰る。

さてっと、関係ない人が結びつくというのは、面白いですね。
たとえば、内村鑑三を通じて山本七平と小林秀雄が結びつく。
そういう共通項を通じて、パラパラとひらいて読める楽しみ。

正宗白鳥著「内村鑑三・わが生涯と文学」(講談社文芸文庫・1994年)
小林秀雄著「白鳥・宣長・言葉」(文藝春秋・昭和58年)
山本七平著「小林秀雄の流儀」(新潮社・昭和61年)

まあ、結びつきは、おいといて、ここには
小林秀雄の「正宗白鳥の作について」から
当時のジャーナリズム問題をとりあげている箇所を引用しておきます。

「 ところで、内村に『基督教徒の慰』を書かせた切つ掛けになったものは、
  何であつたか。周知の如く、当時『内村不敬事件』として大騒ぎになつ
  た事件である。正宗氏の観察によれば、この際、暴威を揮つたのは
  ジャーナリズムの動きであつた。第一高等中学校での教育勅語拝読の
  式場に於ける教員内村鑑三の不遜と見られた態度が、
  本願寺系統の雑誌に、針小棒大に書き立てられ、これが
  諸新聞雑誌に転載されて、騒ぎは大きくなつた。

  事の真相を顧みぬ軽薄な言論の勢ひが、
  内村の一生の運命を決めて了つたのである。
  内村は職を失ひ、国賊の家は、学生達の投石を受け、
  近親の人達も世間を憚つて、彼を離れた。
  周囲の迫害に悩まされて発病した内村を看護する者は、
  母親と事件の数ケ月前に結婚した夫人だけといふ有様となつたが、
  夫人も心労に堪へず逝去した。
  世論は、内村の私一個の事件を、
  基督教対国家皇族といふ一般的事件に造り上げ、
  内村の生活を急襲したが、身方の筈の基督教徒も、
  内村は政府当局と妥協した恥知らずといふ
  主張を造り上げて敵に廻つた。   」
            ( p47 小林秀雄著「白鳥・宣長・言葉」 )
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寒山拾得の詩。

2025-02-14 | 詩歌
海北友松の『寒山拾得図屏風』をながめていたら、
寒山拾得をあらためて知りたくなり、古本を注文。

以前に久須本文雄著「寒山拾得(下)」講談社・昭和60年が
古本で安かったので買ってありました。そこに載る数篇の
詩を読んだことがあったので、あらためて久須本文雄氏の
本を注文してみることにしました。
今は上下を合わせた座右版「寒山拾得」(講談社・1995年)が
古本で買えるので注文し、それが届きました。

いったい、寒山拾得とはどんな人なのか?
最初に、解題とあり、寒山拾得の説明があり有難い。
ということで、そこから気になる箇所をピックアップ。

・・・天台山の近くの寒巌に隠棲していて、時々そこから
天台の国清禅寺に赴く。寺には拾得という食堂係がいたが、
寒山が来ると残飯などを入れた竹筒を彼に与えていた。・・・

この座右版には、最初に東京国立博物館蔵の『寒山拾得図』の
白黒写真が載せてありました。
はい。髪がボサボサで粗末な服装で、
右上方を見て二人して笑っています。
拾得かな、一人箒をかかえています。

寒山詩集については、序があり、そこから引用しておきます。

「 国清寺の僧・・に寒山・拾得らの言行を調べさせたところ、
  竹・木・石・壁などに書きつけた詩や、
  村里の人家の壁にも書き散らしたものおよそ三百余首、
  および拾得が土地堂の上に書いた偈などがあったので、
  これらを取り集めて一巻となした。  」(p24)

とりあえず、最初の方の詩をパラリとひらき、
一ヶ所引用しておきます。現代語訳で

五   吾が心秋月に似たり

   自分の心は、秋の夜空に輝く明月が、澄みきったみどりの
   深い淵の底までも、清くすき通って光り輝いているのに似ている。
   この清明な心に比べることのできるものは他に何もない。
   それで、どう説明したらよいのかその言葉もない。

     吾心似秋月  碧潭清皎潔
     無物堪比倫  教我如何説          ( p52 )


はい。物理学者の寒月君のことが思い浮かびました。


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読んでないんです。

2025-02-13 | 好き嫌い
本を読むにも、テクニックがあると気づかせて頂けたのは、
丸谷才一著「思考のレッスン」(文藝春秋・のち文春文庫)でした。

読めばいい、だけではなさそうなのです。

丸谷】 たとえば『古今』を読むなら、
    窪田空穂の本で読むのが僕は一番好きです。

    岩波の『日本古典文学大系』版の『古今』は、
    どうも読みにくい。活字の組み方も悪いし、
    注釈も何だか事務的な感じで、簡単すぎてよくわからない。

    それにくらべると窪田空穂の注は、
    心がこもっているようでいいなあと思って読んでいました。

    同じ岩波でも、『新日本古典文学大系』の小島憲之・新井栄蔵
    両氏の注はいいですね。組み方もいいような気がします。

                ( レッスン4・本を読むコツ )


 このレッスン4に、『ドン・キホーテ』が出て来るのでした。

丸谷】 ぜひお勧めしたいのは、
    翻訳小説は何種類かの訳を読んでみることです。

    僕は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』が、
    会田由先生の訳ではどうにもダメで読めなかった。
    ところが堀口大學訳は読めたんですね。
    詩がたくさん入っている小説ですが、
    大學訳はその翻訳が実によくて、すらすら読めた。
    ただし、困ったことに大學訳のセルバンテスは正篇しかないから、
    僕は、続篇を読んでないんです。


はい。ここからが本題。

    いつだったか、中村光夫さんにその話をしたんです。

    『 評論を書いていて、セルバンテスの「ドン・キホーテ」に
     ついて触れたくなることがありますね。そのとき、
     カッコして( 私は正篇だけしか読んでないが )
     なんて書くと文章が締らなくなるし、
     あまりにも良心的ぶってるようでもある。
     しかし書かないと、嘘をついているような感じがあって
     具合が悪いし、困っているんです 』

    そのとき、中村さんは笑いながら、こんな話をした。

    『 正宗白鳥が僕に、「 明治の文学者のものを読んでいると、
      よくもこんなにたくさん外国の本のことを引き合いに出す
      と思っておかしくなる 」と言ったことがあってね 』

    『 それはどういう意味ですか 』

    『 つまり読まないのに読んだふりして書いてる、ということだね 』

    たしかに明治文学を読むと、むやみに西洋人の名前が出てきます。
    あの頃、まだ翻訳はないだろうし、原著だってなかなか手に入らない
    はずなのに、あんなに西洋をひけらかすのは、読まないで
    書いているに違いない。白鳥は、同時代人だから
    実情をよく知ってたんでしょう(笑)。


ということで、ああ、ブログはいいですね。
あれも読んでいない。これも読んでいないと、
気軽に書きこみする。その楽しみがあります。
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ドン・キホーテと老人。

2025-02-12 | 短文紹介
他のブログを読ませていただいていると、ある時おもうのですが、
いつのまにか、ブログが途絶えて読めなくなる方がいらっしゃる。
若い方のブログなら、それはそれでいたしかたないと思えるのに、
私よりも上の方々のブログだと・・・。
また、若いと勝手に思っている自分にしたところで、ある日、
こちらの方が早く、ブログが途絶える時がくるかもしれない
(まさか、これほど続けられるブログだとは当初思ってもみませんでした)。

gooブログで読ませていただいているのは、
同年配の方々のブログが多いかもしれない。
あるいは同年配よりすこし上の方のブログ。
その発信力に敬服しながら、参考にさせて頂いております。
若いと自分でひとり合点しながら考えもしなかったような、
『老人』なる言葉が、だんだん輪郭をもって現れてきます。

たしか、老人についてのアンソロジーで
紹介されていたような気がするのですが、
串田孫一著「ドン・キホーテと老人」(青娥書房・昭和51年)に
掲載されている同題の見開き2ページの文があります。

それを紹介してみたくなりました。
はじまりは、

「 いずれはまた入院だろうが、ともかく家に戻っているから、
  話をしに来てくれないかという知らせがあった。・・・

  彼は定年退職をしてもう10年以上になるが、
  不治の病気が刻々とその体を侵していた。
  だが気力は呆れるほど旺盛で、最近読んだ本について
  細々と感想を述べ、私の意見を求めた。

  比較的平凡な会社勤めをしていたその人は、
  私よりかなり年齢も上だったが、長い付き合いで・・・・ 」

あとは次のページから大部分を引用。

「・・自分で予想していた通り、また入院して、
 今度はいよいよ終りらしいよと、見舞いに行った私に告げながら、
 その枕元にはラジオのスペイン語講座のテキストと辞書が置いてあった。
 
 私はその時に、『 ドン・キホーテ 』の原書を買って来てくれと頼まれ、
 急いで探して持って行った。翻訳では二、三度読んでいるが、
 どこまで原書で理解出来るか、ためしてみるのだと言っていた。

 ・・・・それから数日後にこの老人は亡くなった。
 だが私は、人の死に巡り合っていつももてあます儚さが感じられず、
 学ぶという営みの、その途切れたままの雰囲気が妙に貴く思われた。

 ・・・・彼は何の理屈もなく、ただ学ぶことが好きだった。
 知ることが嬉しくて仕方がなかった。殊更に学ぶという構えもなく、
 ドン・キホーテを数頁読みかけたところで、
 口惜しがる気持もなくこの世を去った。そして私は
 この老人から学ぶことを学んだ。  」(p51)


はい。翻訳のドン・キホーテも、一度も読んだことのない私は、
最初にこれを読んだ際には何も感じなかったのでした。
今回再読して、gooブログで読ませていただいている方々のことが
浮かんできました。 
『 その途切れたままの雰囲気が妙に貴く思われた。 』
という言葉に助けられますように。ブログを続けていけますように。

いろいろ取り留めないことを思いますが、
今日は今日で、こんなことを思いました。
コメント (2)
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