のぶさんの花便り

デジカメと花に夢中な《のぶさん》ですが
これからは、風景やスナップにチャレンジ

東京さわやか散歩 弐の9 ⑤

2020年06月15日 02時19分52秒 | 写真

新御徒町から合羽橋道具街

  
矢先神社では福禄寿をお祀りしています。寛永19(1642)年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願ならび
に武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立しました。

三十三間堂では弓の射技練成のために「通し矢」が行われました。通し矢は先人に勝てば堂に掲額できるとあって武士としての名誉となり、
大いに流行したようです。この通し矢は江戸市民にも観覧が許され、評判を博しました。

京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先
稲荷」と名づけられました。いまからおよそ360年前のことになります。

ご祭神は倉稲魂命(うかのみたまのみこと) を祀りります。ご神体は上野東叡山寛永寺の祖慈眼(じげん)大師(天海大僧正)によって寄進さ
れ、「御府内寺社備考」によると「木造で翁の型をして稲を荷い、7寸8分、弘法大師作」となっています。

 
天正19年(1591年)馬喰町に関根卯兵衛(円了院成身日満)の開基で上行院日覚(元和8年(1622年)没、徳川家康に随伴して江戸に入府
した。)を開山として(一説に永禄元年(1558年)三河で)創建。明暦3年(1657年)明暦の大火で焼失後、現在地に移転。
明治35年(1902年)智鳳院日透が再興。

(矢先稲荷神社~本覚寺  : 東京都台東区 2012.05.11 撮影) 

 


東京さわやか散歩 弐の9 ④

2020年06月14日 05時20分23秒 | 写真

新御徒町から合羽橋道具街

        

         
台東区松が谷地区・西浅草地区に存し、浅草通りと交わる菊屋橋交差点付近から言問通りまで約800メートルに渡り南北に伸びるかっぱ橋
道具街通り沿いに各店が軒を構える。「調理、厨房備品に関するものなら何でも揃う」と言われる。
その顧客の多くが飲食店主などの料理人である。厨房用品一切に係わる専門店は、その総数が170店以上に及ぶ。 

1983年より、道具の日である10月9日前後に「道具まつり」が開催されている。2003年秋には道具街誕生90周年を記念して、合羽橋交差点
近くのポケットパークに「かっぱ河太郎像」が建立された。 

今日では日本特有の食品サンプルがガイド冊子などで紹介され、海外からの観光客に人気を博している。このため、専ら観光客向けの土
産物屋として営業を行っている店もある。 

合羽橋では、日本の職人が制作した、外国では特注扱いになる特殊な調理道具(楕円形の抜き型や、蕎麦切り包丁などの用途が限定さ
れた包丁など)も店頭で買える。このためプロの料理人を含む外国人が来日して合羽を訪問し、料理道具を品定めしたり、発注・購入した
りする姿も見受けられる。

 
池波正太郎記念文庫は、上野・浅草を故郷とし、江戸の下町を舞台にした「鬼平犯科帳」など、時代小説の傑作を多数発表した、 池波正太
郎の業績や作品の世界を広く伝えるため、池波家及び多くの方々のご協力で、平成13年9月26日に開設しました。
作品に関するさまざまな資料を収蔵し、書斎の復元や著作・ 自筆原稿・絵画等の一部を常時展示しております。また、時代小説コーナーを
設け、戦前の貴重本から現代の人気作品まで時代小説に関する資料を収集し、公開しています。

 

(合羽橋道具街~池波正太郎記念文庫~合羽橋道具街  : 東京都台東区 2012.05.11 撮影) 


東京さわやか散歩 弐の9 ③

2020年06月13日 02時06分28秒 | 写真

新御徒町から合羽橋道具街

 
曹洞宗寺院の龍谷寺は、黄雲山と号します。龍谷寺は、野村彦太夫為垂が開基、南領賢寿和尚が開山となり、松洞山龍谷寺と号して
元和2年(1616)湯島天神下に創建、明暦元年(1655)当地へ移転、黄雲山龍谷寺と改めたといいます。

 
真宗大谷派寺院の長泉寺は、大乗坊善悦が三河国宝飯郡に慶長19年(1614)創建、寛永元年(1624)神田に移転したといいます。
明暦の大火に被災し浅草松清町へ移転、文化3年(1806)の火災により当地へ移転したといいます。

 
浄土宗寺院の源空寺は、五台山文殊院と号します。源空寺は、天正18年(1590)覚蓮社円誉道阿霊門和尚が湯島に創建、和尚は、木食
草衣の身となり専修念仏に励んでいたところ、幕府の耳に入り、幕命により慶長9年(1604)源空寺と号したといいます。寛永11年(1634)に
は徳川家光に呼ばれて江戸城に登城、家光より洪鐘の寄進を受けています。明暦3年(1657)の大火で類焼し、当地へ移転しました。

         
曹源寺は、天正16年に(1588年)に江戸・和田倉門付近に創建された。その後、明暦の大火により当地に移転した。 
当地一帯は低地で水はけも悪く、しばしば水害に悩まされた。そこで当地の商人・合羽屋喜八が私財を投じ、新堀川(現在の合羽橋道具
街にあった水路。合羽橋の名の由来の一つ)の開削の工事を行った。 

言い伝えによるとこの工事の折、近隣の隅田川に棲んでいたとされる河童が手伝ったと言われている。文化11年(1814年)に喜八が没し、
菩提寺である当寺院に葬られいつしか「かっぱ寺」と言われるようになった。 

その後この工事を手伝った河童を見かけると様々なご利益があると評判を呼んだ。そして「河童大明神」として祀られ、 商売繁昌などに霊
験があるといわれ、当寺院に祀られるようになったと言われている。 

 
臨済宗妙心寺派寺院の霊梅寺は、蜂須賀阿波守が海禅寺の霊海軒として創建したといいます。

 
海禅寺は、東京都台東区松が谷三丁目にある臨済宗妙心寺派の寺院。振袖火事の後、現在の浅草に移る。蜂須賀氏が中興開基で庇護
あつく、世に「阿波様寺」と呼ばれた。
大雄山と号し、寛永元年(1624年)神田明神の北、妻恋に草創。江戸における妙心寺派触頭のひとつ
であった。

(龍谷寺~海禅寺 : 東京都台東区 2012.05.11 撮影)  


東京さわやか散歩 弐の9 ②

2020年06月12日 01時35分09秒 | 写真

新御徒町から合羽橋道具街

 
浄土宗寺院の誓教寺は、瑞亀山弘願院と号します。誓教寺の起立年代等は不詳ながら、善蓮社貞誉上人浄求閑悦和尚(慶安元年1648寂)
が開山となりしたといいます。当寺は江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖葛飾北斎の墓所で、葛飾北斎の偉業を称えた銅像・石碑
が奉納されています。

         
江戸時代の浮世絵師で「富岳三十六景」「北斎漫画」などの代表作で知られる葛飾北斎の墓と胸像が誓教寺(せいきょうじ)境内にあります。
墓標には「画狂老人卍墓」(「卍」は北斎の雅号の一つ)とあり、辞世の句が刻まれています。毎年4月には「北斎忌」が開かれ、法要が営まれます。

 
光明寺は、摂取山遍照院と号する浄土宗寺院で、慶長6年(1601)の起立と伝えます(『蓮門精舎旧詞』)。
開山の学蓮社善誉万応(寛永12年[1635]寂)は、もと駿府(静岡県静岡市)の遍照山新光明寺の第八世でしたが、のちに江戸田所町
(中央区)に当寺を創建し、まもなく当地へ移転したようです。大正15年(1926)には西光寺と合寺して、寺号を現在の光明寺としました。

        

 
古くは下谷稲荷社、下谷稲荷明神社と呼ばれた都内最古の稲荷神社。東京メトロ銀座線の稲荷町駅に名を残す旧町名の稲荷町は、この
神社の旧称が由来の町名である。例大祭で近隣町内を渡御する本社神輿は台輪幅4尺1寸の千貫神輿といわれ、大きな威容を誇る。 

社殿の天井画は横山大観の作。また、1798年に初代・三笑亭可楽によって当社境内で初めて寄席が開かれた。このため、本神社には「寄
席発祥の地」の石碑がある。 夏になるとドライミストで神社に集まる人々が涼しんでいる。 「水」と「芸能」のパワースポットと云われる。
宮司の阿部明徳は、東日本大震災で被災した神社等の仮社殿、鳥居、神輿、縁日などの復旧支援活動を、他の神社関係者と共に行っている。

(誓教寺~下谷神社 : 東京都台東区 2012.05.11 撮影)  


東京さわやか散歩 弐の9 ①

2020年06月11日 00時54分31秒 | 写真

新御徒町から合羽橋道具街

 
当初の計画路線名は「常磐新線」であり、「つくばエクスプレス」の名称は一般公募による。最多応募は「つくば線」であったが、1987年に廃
線となった筑波鉄道筑波線と同じ読みであるため採用されなかった。現在、首都圏新都市鉄道はCIにおいて会社名ではなく本路線名とそ
のロゴマークを使用している。「つくばエクスプレス」と「TSUKUBA EXPRESS」およびロゴマークは同社の登録商標である。他社線において
も社名を冠さない「つくばエクスプレス」 または「つくばエクスプレス線」の呼称が使用される。
開業前には計画路線名の「常磐新線」も多く用いられたが、開業後の案内では使用されておらず、橋梁の橋歴板等に見られる程度となっている。 

2005年(平成17年)8月24日に開業。関東地方の主要幹線の中では最も歴史が浅く、既成市街地の地上における用地買収を避けて約25%の
区間が地下に建設された。起点側の秋葉原駅 - 八潮駅間は南千住駅から荒川橋梁(北千住駅 - 青井駅間)までを除いて地下線であり、
終点のつくば駅も地下駅となっている。地上区間は全て高架または掘割構造であり、踏切が存在しない。

        

 
地蔵院は、東京都台東区元浅草にある、真言宗智山派の寺院です。地蔵院へのお墓参りは「新御徒町駅」「稲荷町駅」から徒歩5分、「田
原町駅」から徒歩9分、「上野駅」から徒歩10分と交通至便な寺院墓地です。また駐車場も完備しており、お車でのお参りも安心です。

地蔵院は、荒川辺八十八ヶ所霊場の84番札所で、文明12年(1480年)江戸局沢(現在の千代田区千代田)に蓮祐上人により開創されたとい
われています。天正18年(1590年)に徳川家康により江戸局沢十六カ寺が移転を命じられ、天台宗東光院と共に小伝馬上町に地割しました。
明暦の大火の後に浅草新寺町に移転し、現在に至ります。また墓地が未定の場合は、1年間を期限に水子のご遺骨を預かっていただくこと
もできます。

 
長遠寺(ちょうおんじ)は、東京都台東区元浅草の日蓮宗の寺院。山号は安立山。江戸十大祖師の土富店の祖師(自開眼開運日蓮大菩薩)。
池上本門寺、堀ノ内妙法寺とならぶ江戸の三大祖師の一つ。旧本山は長栄山池上本門寺、池上・土富店法縁縁頭寺。 

文禄3年(1595年)に創建した京都要法寺の末寺、妙栄寺が起源。元和7年(1621年)池上本門寺末となり現在の寺号に改称した。
江戸時代には広く信仰を集め巨刹として知られたが大火で焼失。その後関東大震災、東京大空襲でも焼失している。子育て観音を祀る。

 

(地蔵院~本行寺 : 東京都台東区 2012.05.11 撮影)

 


東京さわやか散歩 弐の8 ⑤

2020年06月10日 02時41分41秒 | 写真

三ノ輪から入谷、日暮里

 
開山、平真法印より第7世真朝法印に至るまで、当山の過去帳や墓碑などに寂年の記載はありません。 しかし、当山に現存する過去帳に
よれば、天明2年(1782)6月、第20世中興祐永和上作成の最古の過去帳には「妙永禅尼」 (文正3年-1446-10月26日没)「右塔ハ右
ノ者地内ニ有 江川八左ヱ門」とあります。 
これらから推察し諸説を交え推考するに、定かではありませんが当山の開山は1400年代前後ではないかと考えられています。 

 
洋画家であり書家でもあった中村不折により、昭和11年に開館。亀甲獣骨文、青銅器、石碑、鏡鑑、法帖、経巻文書など、不折が書道研究
のために収集した中国および日本の書道に関する古美術品、考古出土品など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む約1万6000点を所
蔵している。本館と中村不折記念館から成り、本館では金石類を常設展示し、中村不折記念館では紙本墨書類をテーマに基づいた年4回の
企画展、特別展で紹介している。記念館には中村不折記念室が設けられ、不折の作品や関係資料も展示している。 -Yahoo!ロコ

 
昭和の爆笑王と賞讃された林家三平の笑いの精神を受け継ぐ東京都台東区の施設です。林家三平は落語家の名門に生まれながら、それ
までの古典落語の殻を大きく破った三平落語の世界を創り上げました。自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、
神風タレント第一号となりました。館内には、林家三平の思い出の品々、台本、衣装、ネタ帳、レコード、名刺、双眼鏡などが展示されています。
また高座では、毎月第3土曜日に「三平落語会」を開催しています。 -Yahoo!ロコ

 
日蓮宗のお寺で、長享元年(1487)に建立されたと伝えられています。 寛文4年(1664)に六代将軍徳川家宣の生母長昌院がにここに葬ら
れて以来、将軍家ゆかりの寺となりました。家宣の弟松平清武がここに隠棲したため、しばしば将軍のお成りがありました。
門前の音無川に架けられた橋は「将軍橋」と呼ばれています。上野戦争では、彰義隊の屯所となりました。 

相撲で69連勝の偉業を達成した名横綱双葉山、政治家石橋湛山の墓などがあり、また安土桃山時代の作と伝わる「不二大黒天像」も多くの
信仰を集めています。

        

 

 (西蔵院~善性寺  : 東京都台東区 2012.05.05 撮影)


東京さわやか散歩 弐の8 ④

2020年06月09日 01時46分58秒 | 写真

三ノ輪から入谷、日暮里

 
万治2年(1659年)光長寺20世・日融が当地に法華宗本門流の寺院を開山したことによる。鬼子母神を祀っていることで、入谷鬼子母神の
名称で有名な寺院である。大田南畝の狂歌「恐れ入りやの鬼子母神」という洒落も有名である。また、7月の七夕の前後に当寺院の境内で、
入谷朝顔市が開かれることで、入谷の名物であることはもとより、東京下町の夏の訪れを伝える行事として、全国的にも知られている。

 
廣澤山正洞院は、慶長六年(1601)に開かれた曹洞宗の寺院です。佐竹義宣(さたけよしのぶ)は、関ヶ原の戦いの後の慶長七年(1602)に、
常陸國から出羽國秋田へ国替えとなりました。
その前年に、1590年になくなった正室・正洞院の菩提を弔うために創建しました。

 
小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年(仁寿2年)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎したのが起源と伝わる。
寛永年間(1624年-1643年)、寛永寺の建立のため幕府より移転を命じられ、現社地に遷座した。江戸末期、回向院より菅原道真自刻と伝わ
る像を迎えて相殿に祀り、「江戸二十五天神」の一つに数えられた。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。 

 (入谷鬼子母神~小野照﨑神社  : 東京都台東区 2012.05.05 撮影)


東京さわやか散歩 弐の8 ③

2020年06月08日 02時19分08秒 | 写真

三ノ輪から入谷、日暮里

        

        

 
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3(1657)年の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、
日本橋人形町の吉原遊郭が移された。以来、売春防止法の施行(昭和32(1957)年)までの340年間、巨大な遊郭新吉原の歴史が始まった。
特に江戸時代には、遊女を描いた美人画や遊女の髪型が町娘の間で流行したり等、様々な風俗・文化の発信源となった。

遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主や遊女たちの信仰を集めた。
池は、花園池・弁天池と呼ばれたが、大正12(1923)年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死した。
境内の築山には、溺死した人々の供養のため大正15(1926)年に観音像が造立される。また、花園池は昭和34(1959)年埋立てられた。

 
ご祭神は、稲荷神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などの
ご神徳がある。新吉原遊郭に古くから鎮座されていた玄徳稲荷社と、廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九
朗助稲荷社の5社を明治5年(1872年)に合祀することとなり「吉原神社」として創建された。浅草七福神のひとつ、弁財天も合祀されている。

 
隅田川の堤防である日本堤から、吉原遊廓(新吉原)へ下る坂を「衣紋坂(えもんさか)」という。衣紋坂から「く」の字に曲がりくねった「五十
間道(ごじゅっけんみち)」が吉原の入口の大門まで続くが、この道の入口の左手にあるのが、見返り柳である。 

宝暦7年の吉原細見『なみきのまつ』の序文では「出口の柳」と書かれており、後に「見返り柳」と呼ばれるようになったと考えられている。

        

        

 (吉原弁財天~見返り柳  : 東京都台東区 2012.05.05 撮影)


東京さわやか散歩 弐の8 ②

2020年06月07日 03時48分56秒 | 写真

三ノ輪から入谷、日暮里

 
寛永7年(1630年)、石田三成の遺子といわれる鷲山寺13世・日乾が鳥越町に開山し、寛文9年(1669年)、新吉原に近い現在地へ移転した。 
本尊は、鷲妙見大菩薩である。1265年、日蓮が上総国鷲巣(現千葉県茂原市)の小早川家(現鷲山寺)に滞在し、国家平穏を願って祈った
ところ、にわかに金星が動き出し不思議な力をもってして現れ出でたと伝わる。11月酉の日のことであった。
1771年、この鷲妙見を日玄が鷲山寺から当山へ移し祀った。当時は、本堂のほかに諸堂を配した大伽藍があり、鷲妙見が安置された番神
堂は、妙見堂、鷲大明神の社、鷲の宮とも呼ばれた。
明治初年の神仏分離令により、境内を含め寺と鷲神社に分割された。 
七曜の冠を戴き、宝剣をかざして鷲の背に立つ姿から「鷲大明神」、「おとりさま」と呼ばれ、開運招福の守り本尊として親しまれている。
とりわけ、応現の日にちなんで開催されてきた浅草「酉の市」の本尊として、江戸時代から広く振興されている。

 
西徳寺は寛永5年(1628年)、佛光寺門徒の聞法道場の一つとして江戸の金助町(現在の東京都文京区本郷付近)に建立されたと伝わる。
建立後50年の間に天和の大火など、江戸を襲った火災で焼け出されること三度、当時の住職・檀家の協議により竜泉(現在の東京都台東
区)に移転したのは天和3年(1683年)であるという[1]。 

徳川幕府時代、明治維新後も西徳寺は発展を続けたが、大正12年(1923年)の関東地震により本堂が全壊した。地震後に再建にとりかかり、
昭和5年(1930年)に鉄筋コンクリート造という、寺院建築としては画期的な形で寺院再建を果たし、現在に至る。 

        

 
鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社で、「おとりさま」の愛称で一般にも
親しまれている。
毎年11月の酉の日に開催される「酉の市(とりのいち)」は、鷲神社を起源発祥の地とし、全国各地からたくさんの人が訪れる。
境内には屋台が並び、幸せを掻き込む縁起物の熊手を求める人で賑わう。開運・商売繁昌のお守りである熊手御守は、午前零時を期して打
ち鳴らされる一番太鼓と共に授与され、一番先に熊手御守を受けた人には、「一番札」として神社の金小判が授けられる。
 
(長国寺~鷲神社  : 東京都台東区 2012.05.05 撮影)


東京さわやか散歩 弐の8 ①

2020年06月06日 01時21分15秒 | 写真

三ノ輪から入谷、日暮里

 
安政2年の大地震の際に犠牲となった、たくさんの新吉原の遊女達の遺体が投げ込むように葬られたことからいつしか「投込寺」と呼ばれるよ
うになったお寺です。その後も、新吉原創業から廃業するまでの380余年間に渡って、遊女やその関係者、推定約2万5千人が葬られました。
その人々を供養するために、新吉原総霊塔が建立されました。作家永井荷風はしばしばこの寺を訪れていて、文壇の友人達が送った詩碑
が建てられて残っています。 -Yahoo!ロコ

 
「たけくらべ」の舞台となった竜泉(龍泉寺町)に一葉の文学業績を残すべく、「一葉協賛会」の尽力により、台東区が事業主体となって1961
年に開館した。当時、女流作家の単独資料館としては、日本では初めてであった。 

そして、旧館の老朽化が進んだこともあり、2006年にリニューアルオープン。新しく建てられた建物は、地上3階・地下1階の構造である。
展示部分は地上部で、1階が龍泉寺町の街並みを再現したエントランスギャラリーがある。ここに、案内版や一葉の年表などもある。
他には、ライブラリー、グッズ売り場などを備えている。 

2階部分に2つ、3階部分に1つの展示室があり、概ね2階は常設展示、3階でミニ企画展示などを行っている。また、記念館の隣には一葉記念
公園があり、そこには「たけくらべ」の記念碑などがある。-Wikipedia

 
東京都台東区にある「飛行護」(ひこうまもり)などのユニークなお守り、航空安全・飛行安泰・旅行安泰祈願でも知られる天台宗の寺が飛不
動尊正宝院。室町時代の享禄3年(1530年)、本山派(聖護院を本寺に熊野三山を拠点にした天台宗系の修験道)の正山上人が創建。
小惑星探査機「はやぶさ」の成功祈願も行なわれています。 

(浄閑寺~飛不動尊正宝院 : 東京都台東区 2012.05.05 撮影)


東京さわやか散歩 弐の7 ⑦

2020年06月05日 02時44分47秒 | 写真

池袋から護国寺、雑司ヶ谷

 
学習院大学史料館は、1975年(昭和50年)、歴史的史料の収蔵、整理・保存と公開を行うことを目的として学習院大学内に設置された。 
収蔵している史料は、中世以来続く公家・地下官人、近世から近代にかけての大名・華族や大名家家臣や幕臣、また村の名主家史料、および近代から現代
にいたる学習院関係者史料などで、総件数はおよそ14万件にのぼる。 

整理や調査・研究を終えた史料群については、『学習院大学史料館収蔵史料目録』および『学習院大学史料館紀要』によって、その成果を公表している。 -Wikipedia


江戸時代後期の1847年(弘化4年)に京都御所で開講された学習所を起源とし、明治時代初期、1877年(明治10年)に皇族・華族のための
教育機関としてあらためて開校された。新制大学としての学習院大学の開校は第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)。 -Wikipedia

 
自由学園明日館(みょうにちかん)は、東京都豊島区西池袋に所在する、学校法人自由学園が所有する施設。
1921年の自由学園の開校から1934年に移転するまで自由学園の校地として使用された敷地に、建築家フランク・ロイド・ライトや、その弟子
であった遠藤新の設計による建物群から成っている。学校の移転後も自由学園が所有して、「明日館」と名付けられ、もっぱら卒業生による
事業などに利用された。 

1997年5月29日に国の重要文化財に指定され、その後は、文化財として見学に開放されているほか、結婚式場やコンサート会場などにも利
用されており、文化財建築物を利用しながら保存する「動態保存」のモデルケースのひとつとされる。 -Wikipedia

        

 

 (学習院大学~自由学園 : 東京都豊島区 2012.04.24 撮影)


東京さわやか散歩 弐の7 ⑥

2020年06月04日 01時26分47秒 | 写真

池袋から護国寺、雑司ヶ谷

  
東京都では港区善福寺のさかさイチョウや府中市にある大国魂神社のイチョウに次いで大きなイチョウとされている。
イチョウの古木となるとひこばえなどが多く見られ、お世辞にもきれいな樹形と言えるものは数少ないが、この鬼子母神のイチョウは美しさと
大きさを兼ね備えた貴重なイチョウといえるだろう。
主幹が非常にしっかりとしており、樹高もありスマートなイメージ。
イチョウの古木によく見られる気根も多少見られるが、その数は多くなく、樹形を崩すまで行っていないのもすっきり見える一因であろう。
大枝の折損が少なく、自然のままの樹形を保っているのも好印象である。

鬼子母神の境内にあるということも、イチョウにとってはまさにぴったりである。全国に数多い子授けイチョウの言い伝えがこのイチョウにも残り、
とても大切にされてきたことが手に取るようにわかる。
境内には子供向けに駄菓子屋さんが現役で頑張っている。訪れたなら、是非とも立ち
寄っていただきたい。
また、鬼子母神に通じる参道脇にはケヤキ並木も存在し、都の指定を受けて保護されている。 

 
この地が「稲荷の森」と呼ばれるきっかけとなった土地神様「武芳稲荷」。創建年代や御由緒は不明ですが、天正年間にこの地に鬼子母神
堂が造られるより前から鎮座していた土地神様で、このお稲荷様があった。ことからこの地は「稲荷の森」と呼ばれていたと云います。

 
雑司ヶ谷鬼子母神堂は、安産と育児の神様、鬼子母神を祀る神社。参拝する人々は家内安全、厄払い、学業成就などを祈願するために、
この重要文化財を訪れます。
一年にわたって、大小のお祭りが開催されています。 最も大きなものが、10月の御会式大祭。江戸時代から
受け継がれているもので、例年、3日間にわたって開かれます。普段は静かな通りが、桜を模した万灯を担ぎ、太鼓を打ちながら練り歩く人
々と、屋台でいっぱいになり、活気に満ち溢れます。

            
都電荒川線の鬼子母神前駅から鬼子母神堂に続く参道には、約100メートルのケヤキ並木が続いています。その歴史は、天正年間(1573
~ 92年)に雑司ヶ谷の長島内匠が土地とともに数十本のケヤキを寄植したものと伝えられています。
推定樹齢600年を超える古木は、昭和10年代には19本が確認されていましたが、下水本管敷設や道路整備により伐採され、現在は参道西
側に3本、東側に1本を残すのみとなっています。伐採された箇所には、地元有志や豊島区、東京都による植え替えが行われ、旧景の復元
が図られています。  

(雑司ヶ谷鬼子母神 : 東京都豊島区 2012.04.24 撮影)


東京さわやか散歩 弐の7 ⑤

2020年06月03日 01時32分32秒 | 写真

池袋から護国寺、雑司ヶ谷

 
明治政府の自葬禁止(1872(明治5)年6月28日)、神葬地設定(1872(明治5)年7月13日)、火葬禁止(1873(明治6)年7月18日太政官第二
百五十三号)、旧朱引内 の埋葬禁止、墓地令(1874(明治7)年6月22日)等の法令・布告・布達にともない共葬墓地の必要が生じ、東京府
が東京会議所に命じて雑司ヶ谷旭出町墓地を造営 、1874年(明治7年)9月1日に開設。 

1876年(明治9年)に東京会議所から東京府が管理事務を引き継ぎ、1889年(明治22年)に東京市の管轄となったのち、1935年(昭和10年)
「雑司ヶ谷霊園」に名称変更。現在は東京都公園協会が管理している。 

ジョン万次郎、小泉八雲、夏目漱石、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、永井荷風、サトウハチロー、東郷青児、大川橋蔵など著名人
の墓が多くあり、夏目漱石の小説『こゝろ』の舞台にもなっている。 -Wikipedia

 
当神社はもと鷺明神と称し正徳二年(1712年)鬼子母神境内に創祀せられ、当時千登世橋に近く出雲藩下屋敷で藩主松平公の嫡男が
疱瘡にかかった時、鷺明神に祈り治ったので厄病除けの神として尊崇されていたが、明治維新神仏分離に当り現地に移した。

        

 
雑司が谷の東京音楽大学が、2019年4月に本拠地を中目黒に移転する。中目黒のキャンパスは東急東横線の中目黒駅と代官山駅の中間
にありそれぞれの駅から4分ほどのところに位置し面積は0.4ヘクタール(1210坪)、隣接して目黒区の公園も計画されている。

新キャンパスは地上3階、地下1階建て、延べ床面積は1万7千平方メートル。教室はレッスン室80や400人収容のホールが設置される。
そして学生と地域の交流促進に新しい図書館や食堂は地域にも開放するそうだ。

雑司が谷の池袋キャンパスには1年生の講座系授業などが残り、文京区関口にある音大付属高校が移転してくる。
音大の学生数は学部生1,330人(2017年5月現在)で1学年330人ほどなので雑司が谷に通う音大生が1,000人ほど少なくなる。

(雑司ヶ谷霊園~東京音楽大学  :東京都豊島区  2012.04.24 撮影)


東京さわやか散歩 弐の7 ④

2020年06月02日 01時42分02秒 | 写真

池袋から護国寺、雑司ヶ谷

       

 
雑司が谷旧宣教師館は、明治40年にアメリカ人宣教師のマッケーレブが自らの居宅として建てたものです。
マッケーレブは、昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間この家で生活をしていました。豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築で
あり、東京都内でも数少ない明治期の宣教師館として大変貴重なものです。

また、当時の新興住宅地における布教活動と幼児教育の拠点としての意味を持っていたことを地域の人が記憶しており、昭和62年9月1日に、
豊島区の登録有形文化財として登録し、その後、特に重要な文化財として保存、活用をさらに進めるため、平成4年11月10日に、指定文化財
としました。その後、平成11年3月3日、東京都指定有形文化財(「旧マッケーレブ邸」)になりました。

この建物は、木造総2階建て住宅で、全体のデザインはシングル様式であり、細部のデザインにはカーペンターゴシック様式を用いており、
19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を写した質素な外国人住宅です。

豊島区では、昭和57年に取得して以来、建物調査、保存修理工事などを経たのち、平成元年1月から館内に関連資料等を展示し一般公開
を行なっています。 

(蕎麦処:宮ちゃん~雑司ヶ谷旧宣教師館 : 東京都豊島区 2012.04.24 撮影)


東京さわやか散歩 弐の7 ③

2020年06月01日 21時12分27秒 | 写真

池袋から護国寺、雑司ヶ谷

 
元禄14年(1701)に再営された旧薬師堂を、大正15年以降に大修理し現在の位置に移築して大師堂にしたものである。
装飾も少なく全体的に荘重、すっきりとした印象をつくっている。真言宗伽藍における大師堂の格式の高さと、中世的な伝統を重んじた貴重
な建造物である。

 
現在の観音堂(本堂)は、元禄10年(1697)正月、観音堂新営の幕命があり、約半年余りの工事日数でこの大造営を完成し、同年8月落慶供
養の式典が挙げられた。また元禄時代の建築工芸の粋を結集した大建造物で、その雄大さは都内随一のものと賞され、しかも震災・戦災と
二度の大災害にも襲われながら姿も変えず、江戸の面影を今に伝え、訪れる人々に安らぎの場として親しまれている。

         
護国寺境内を入り、急斜面の階段を上がり不老門を通り、さらに階段を上がり右を向くと…そこには大きな大仏様が鎮座されております。
全長2.5メートルと、大仏様の中では比較的小ぶりですが、存在感があります。

 
昭和13年4月の建立、塔は石山寺の多宝塔(国宝)の模写で建築設計は、仰木敬一郎氏、本尊は、團芳子氏寄贈の大日如来像を安置、
彫刻者は長谷川栄作氏、内部円柱の仙画金銀五彩の紋様は、田中親美氏設計監督により完成した。

 
元禄4年(1691)の建立。一切経堂を現在の位置に移築し、薬師堂として使用したもので、大きな特徴は、柱間に花頭窓を据えているなど、
禅宗様建築の手法をとりいれていることで、小規模ながら元禄期の標準的な遺構として、価値ある建造物である。

 
鐘楼の中では、伝統を重んじた格式の高い袴腰付重層入母屋造りの形式で江戸時代中期の建立である。都内では同種のほとんどが失わ
れている中で、貴重な文化財です。また梵鐘は、天和2年(1682)に寄進されたもので銘文には五代将軍綱吉の生母桂昌院による観音堂建
立の事情が述べられ、護国寺が幕府の厚い庇護を得ていたことを示す貴重な歴史資料である。 

(護国寺 :東京都豊島区  2012.04.24 撮影)