のぶさんの花便り

デジカメと花に夢中な《のぶさん》ですが
これからは、風景やスナップにチャレンジ

東京さわやか散歩 弐の8 ③

2020年06月08日 02時19分08秒 | 写真

三ノ輪から入谷、日暮里

        

        

 
江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3(1657)年の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、
日本橋人形町の吉原遊郭が移された。以来、売春防止法の施行(昭和32(1957)年)までの340年間、巨大な遊郭新吉原の歴史が始まった。
特に江戸時代には、遊女を描いた美人画や遊女の髪型が町娘の間で流行したり等、様々な風俗・文化の発信源となった。

遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主や遊女たちの信仰を集めた。
池は、花園池・弁天池と呼ばれたが、大正12(1923)年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死した。
境内の築山には、溺死した人々の供養のため大正15(1926)年に観音像が造立される。また、花園池は昭和34(1959)年埋立てられた。

 
ご祭神は、稲荷神・倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様・市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などの
ご神徳がある。新吉原遊郭に古くから鎮座されていた玄徳稲荷社と、廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九
朗助稲荷社の5社を明治5年(1872年)に合祀することとなり「吉原神社」として創建された。浅草七福神のひとつ、弁財天も合祀されている。

 
隅田川の堤防である日本堤から、吉原遊廓(新吉原)へ下る坂を「衣紋坂(えもんさか)」という。衣紋坂から「く」の字に曲がりくねった「五十
間道(ごじゅっけんみち)」が吉原の入口の大門まで続くが、この道の入口の左手にあるのが、見返り柳である。 

宝暦7年の吉原細見『なみきのまつ』の序文では「出口の柳」と書かれており、後に「見返り柳」と呼ばれるようになったと考えられている。

        

        

 (吉原弁財天~見返り柳  : 東京都台東区 2012.05.05 撮影)