うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

もたない

2007年05月01日 | ことばを巡る色色
物を集めるということはハンティングである。狙いを定め、品を定め、相手を損ねぬように、こちらのリスクは最小に仕留める。多分私はコレクター気質。幼い頃から多くの物を集めて来た。しかし、本当は、仕留めることがうれしかったのかもしれない。戦利品を眺めての悦びはそれに比べれば少ない。それを丸ごと知り、手に入れないときがすまないのだ。いや、それは過去の話だ。
私は今、ハンティングをし、コレクトすることをやめている。
「集める」こと、「持つ」こと、が、ナマナマだなあと思っているからだ。
もしかすると、私は少しそこから自由になれたのかもしれない。

「持つ」ことと、「わかって欲しい」と思う気持ちは似ている。どちらも生々しく、血なまぐさい。鉄分の金臭いにおいがする。
持たずにはいられない気持ち、執着、こだわる心。それがなくとも、いいじゃないかと、今の私は思っている。持っていなくとも、私が「それ」を愛し、美しいと思う気持ちは否定されない。持っていなくとも、私は「それ」を好きな私でいられる。「持つ」ことはある意味で、依存であるかもしれないと思うのだ。買うためでなく、「見る」ためだけに私は出かけ、それを愛する。他人の持ち物だあろうと、それが美しく私を魅了することにかわりはない。他人の物である「それ」は、所有者でない私にも、美しく微笑みかける。
何故私はあんなにも、「持つ」こと「集める」ことに執着していたのだろう。
自分の気持ちを「わかって欲しい」という一点で、周りの者を振り回す人がいる。
本当にわかってもらわなければならなのだろうか。救われないのだろうか。報われないのだろうか。語らなくとも伝わる人には伝わっているし、万語を尽くしても、時でなければ何も伝わらない。「わかって欲しい」という気持ちの生々しさは、かえって相手を疲れさせるだけではないか。わかってもらっていなくても、私はあなたを大事に思っているし、私はあなたを、そう、愛している。持たなくとも、わかってもらおうとしていなくとも、それで、いい。
コメント (4)
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