うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

春をあるく 美術展篇

2007年05月07日 | ことばを巡る色色
若冲を見た!
ああ、わたしは若冲を見た!
「若冲と江戸絵画」プライスコレクション展 於:愛知県立美術館
昨秋、勢いで入手した京都の「ルーブル展」、ホントに見たかったのは向かいの京都国立近代美術館でやってたこの若冲だった。名古屋に来るなら、それまで待とう。そうして、ゆっくり見よう、と思い、あれから半年。ほとんど遠距離の恋人を待つような気分だった。いや、もっともっと前から心の中に若冲は用意されていた。2年前のバークコレクション展はその準備だったのかもしれない。そうして、見た!ゴールデンウィーク狭間の水曜。少しは人出も少なかろうと思い。
人生ベストテンに入る展覧会だった。
見えているのに見えなかった世界を、見た。そんな気分になった。
それまで日本画といえば、ああいうの、って意識で見ていたのだと、はっきりわかった。床の間にある掛け軸、富士山とか、高砂っ唐獅子牡丹てステレオタイプの眼でしか見ていなかったんだ、わたし。その世界を見てるのに、何も見えていなかった。
「紫陽花双鶏図」    
わたしが見えていなかった鶏がそこにいた。わたしは世界が見えていたわけじゃなかったんだ。若冲が見た鶏がわたしには見えていなかったんだ。若冲の絵の中には本物の「ある本物」の鶏がいたのに、今までのわたしがステレオタイプの眼でしか見ていなかったためにそれが見えていなかったことに気付いた。そうして、「日本画」とか「掛け軸」とか「屏風」って「眼」でしか見えていなかったことに気付いた。今までの私の眼はフリーズしてたんだ。なんて不自由なヤツだったんだろう、わたしって。そうして、もう一つの本物が、急にやってきた。執拗な写実と超越の抽象。写生とデザインの混沌たる融合じゃん。あまりに細部を描くことで、現実を越えてしまう浮遊感。この頃の絵師には必ず買い手がいる。絵師はその注文に応じて描く。売る為に描く。それが、現代絵画がなくしてしまった「面白さ」を残している所以かもしれない。自己表現などというヤツは所詮閉じた物かもしれない。「何かの為」が、逆に人を己の枠から解放する。芦雪も蕭白も、なんて面白くって、本物なんだ、ってやってきた。今まで見ていたのとは違う世界にわたしはいて、新兵器「もう一つの眼」を手に入れた気分だ。ワープできた気分だ。
その中でも、やはり若冲は突出している。若冲の絵の前で、わたしも若冲の目になる。若冲の見ている、その厳密詳細な現実と彼岸の意匠の世界を見る。
「鳥獣花木図屏風」    
じわじわと、ゆっくりと総毛立ってゆくということを私は初めて経験した。

お出かけ済み
「アール・デコ・ジュエリーの世界 シャルル・ジャコー」京都国立近代美術館
「麗らかなる錦絵」明治村
「シャガール版画展」メナード美術館
「若冲と江戸絵画 プライスコレクション」愛知県立美術館
「食卓の華」愛知県陶磁資料館

お出かけ予定
「名古屋城障壁画」名古屋市博物館
「ダリ展」名古屋市美術館
「丸紅コレクション 絵画と衣装 美しきシモネッタ」京都文化博物館
「富本憲吉展」岐阜県現代陶芸美術館
「大賀・若林コレクション オールドノリタケ展」細見美術館
「若冲展」相国寺承天閣美術館
「金毘羅宮 書院の美」三重県立美術館(来春だけどね)

ちょっと無理かも、でも見たい
「大正シック」東京都庭園美術館
コメント (2)
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