うさとmother-pearl

目指せ道楽三昧高等遊民的日常

春をあるく 山登り篇

2007年05月05日 | お出かけ
ゴールデンウィーク。世の中は西へ東へお出かけ中か。私はといえば、ぎふてぃの心優しきおにーさん3人(註:年齢不問)と、その姫と、わが友のオネーサン(引き続き年齢不問)と、お山に登りました。天下布武の金華山よりちょいと高いお山。天下の上を行く思いですよ。皆様、ペースあわせてくださり、ホントにありがとう。向かい酒というのがあるのだから、筋肉痛にも向かい労働とばかり、今日は屋根を越えてしまいそうな我が家の泰山木の枝払いをいたしました。仕方ないよね。どこまでも繁らせておくわけにはいかないんだもん。我が家は田園のドンツキにある。庭木は田の陰となってしまうし、雑草は、田に種を撒き散らせてしまうんだ。人の作った物を食べ、里や町に住むということは、庭の枝を払い、雑草を抜くということなのだね。
すぐに大きくなってしまうこの木は幹も密ではなく、わたしでもシャクシャクと簡単に伐れてしまう。ノコギリをふるうと、いい香りが漂ってくる。脚立の上で、遠くを見渡しながら、私は泰山木をかぐ。そう、お山もいい匂いがした。春の木はかぐわしい。少し甘く、少し清い好い匂いだ。遠くに見える山も街も霞んでいる。私の国の春は朧で、かぐわしい。
ゴールデンウィークの各地のニュースを見、また、春の祭りのことを考えている。春の祭りは、浄め、再生の祭りだ。もう芽吹かぬ枯れた枝を焼き、湿潤な地に棲む虫を燻し、焼き、駆除し、新しき水を捧げ、全てを新しくして、早乙女は舞う。若き男子は馬に乗り、魔除けでもある弓を鳴らして流鏑馬をする。冬の間に澱んだ空気の粒の一つ一つを、火で水で煙で清めるのだ。「死」を、「魔」を追い払う。生まれ変わるのだ。新しくなるのだ。やわらかいさみどりのかぐわしい春をむかえる。全てを新しくするのだ。いい匂いの春の粒がそこいら中でいくつもいくつも、ばちんばちんと、はじけて薫る。そんなイメージが大気の中から、そうしてわたしの中から湧き立って来る。
春をこんな風に感じるようになったのは、数年前からだ。
見たり聞いたり読んだり学んだりしたことは、ある時から一つのイメージとして現れる。頭の中にあった知識や経験が渦を巻き螺旋になり、起点は終点となり、原因は結果となり、カチャリと符合し、脳から、言葉から解放される。見る為に知り、知る為に見る。わたしはただイメージの器としてあるのだ。何かのためという囚われから離れ。「知ること」を越えるために、「知ること」はあるのだと、思える。だからこそ、「知ること」は大切だと思える。学ばぬ人は不幸だ。知識の果てでしか、知識を越える物に出会えぬ、とわたしは思うよ。

コメント (14)
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