悠々time・・・はなしの海     

大学院であまり役に立ちそうもない勉強をしたり、陶芸、歌舞伎・能、カメラ、ときどき八ヶ岳で畑仕事、60代最後半です。

日本の漢字・仮名「書風」の祖(もと)<王義之>

2005-11-16 01:30:00 | 文学・文芸・芸術

現在我々が使っている漢字・仮名の「書法」の大もとは何であろうか。
私が「書」に興味を持ったのは子供の頃であるが、最初は「書道」としてである。

その頃は、年の初めには必ず「書き初め」をしたものである。正月明けの登校
初日には宿題の「書き初め」を筒に入れて持って行ったものである。その当時
の書き初めは、「富士の山」とか「初日の出」という内容であったと記憶している。

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漢字と万葉仮名
余談はさておき、卑弥呼の時代に、既に中国から文字(今で言うところの漢字)
が入ってきているが、その後、論語などが入ってきて、わが国でも漢字が使わ
れるようになった。

飛鳥、聖徳太子の時代には、仏教の経典が入ってきて「写経」が盛んに行われ
るようになった。「書」を含む文化の橋渡し役として、「遣隋使」制度がスタートし、
その時々の中国の最新の文字や書が入ってきたが、後に、その漢字を用いて
日本語を表記しようとした試みが、「万葉仮名」といわれるものである。   

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<聖徳太子「法華義疏(ほっけぎしょ)」>
これは現存する日本最古の肉筆といわれている。
聖徳太子の法華経注釈書の草稿本であるが、本人の直筆かどうか不明である
が、紙に筆で書かれたものとしては日本最古といわれる。538年が仏教伝来の
年といわれるのでそれより以前、四世紀頃の中国の「書風」と見られている

縦長になるので本来の長さの半分だけ載せたが、丸みがあり、素朴な筆運びだ
が、しっかりとしたそりがある特徴的な書風である。

         
               
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三筆の一人<橘逸勢(たちばなのはやなり)

橘逸勢と空海は、ともに遣唐使として中国に渡り、書の研鑽を積んできた
が、その書風はかなり異なる。
橘逸勢はその豪放な性格を現して、筆力は強く、点画にハリがあり、線の
太さについてはメリハリがある。一方で、流れるような抑揚があり、後の
和様風の先駆けを感じる書風である。しかし、ベースは王義之である。

                <橘逸勢> の書  

           ほのかにきく、これちち、これはは・・・
           側 聞 惟 父 惟 母      

             
   

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三筆の一人<空海>

空海が最澄に宛てた手紙の一つで、「風信帖」というが、最初の一行目に、
「風信雲書・・・」と書いてある。空海もまた、王義之に始まり、王義之から
発展していったのであるが、この書は、行書、楷書、草書が混じり、硬軟
が自在であり流れが流麗である。私個人は、これが能筆であるかどうかに
ついて意見を述べる立場にないが、書道史上の至宝といわれている。
一つ一つ見ると、これが上手いのかどうか、首を傾げたくなる文字がある
が、そこが凡人の見るところである。

空海に限らないが、唐風の楷書的な文字から日本風の優美さを備えて
きているところが、後の和様仮名文字への先駆としての書風を感じる。
空海も、当時の中国のいろいろな書法を身につけて帰えってきたが、
基本となる書風は王義之なのである。

                 「風信帖」
                
               ( 風 信 雲 書・・・)
           
     


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中国<王義之(おうぎし)>の書風

専門家ではない私には、知識でしか分からないが、わが国の漢字の「書風」は、
元をたどると、中国の東晋時代の能書・王義之(おうぎし)にたどり着く。平安
時代の「三筆」、「三蹟」もそうであるが、江戸時代から現代に至るまでの「大家」、
「能筆」と言われる人たちも、一度は「王義之」のところへ行き、「王義之」から
戻って新しいものを創造しているのである。

王義之は、楷書、行書、草書の三体を芸術的に完成させた人物で、現代でも
「書聖」といわれる。わが国では正倉院に多くの文書・書物が保管されている

王義之は楷書、行書、草書を芸術的なレベルまで高めた書の大家といわれて
いるが、確かに下の「書」は見事なものである。


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実は、これは、昭和60年に84才で亡くなった、現代かな書の巨匠、文化功労者、
故日比野五鳳の大正9年のときの王義之の臨書である。昭和62年に上野松坂
屋で開催された、朝日新聞社主催の「現代かな書の巨匠 日比野五鳳遺作展」で見
たものである。

日比野五鳳の仮名は平仮名だけではないので、今風に云えば、変体かな書の
巨匠である。

この巨匠もまた、王義之に辿り着いて、平安朝の王義之の草書を元に発展して
きた仮名の書風を、王義之の対極にいる良寛(中国の懐素634~707の書風)
に強く惹かれていたというが、それでも王義之から離れたわけではない。

昭和54年に制作した「万葉百首」は、王義之から発展させた和様平安朝書風と
良寛の書風とを調和させたもので、当時の評論家に云わせると、優美と素朴との
闘いであり、調和であった、とのことであるが、
結論として、わが国の書の祖(もと)は、王義之にあると云わざるを得ない。



                「日比野五鳳」の臨書
                    
                                -王義之「孔侍中帖」-  

          
                     


[追記]
前回載せた、小野道風の<智証大師諡号勅書>は王義之の書風を
ベースに「道風」様に工夫、展開させたものとみることができる。

            


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                                    おわり               


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