オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

きっかけは強制であった

2007年07月08日 | Weblog
この前町内会で公園の一斉清掃があった。

 私は単身赴任であるが、一応町内会の一員であるので早朝から出かけていった。集まって来たのは、ほとんどが男親である。開始直後ザンザン降りの大雨になったが、誰も草刈りをやめようとしない。黙々と作業している。案内のチラシには「小雨決行」となっていたが、どう考えても「小雨」ではない。結局バケツの底の抜けたような大雨の中で最後(全体の草刈りが終わる)まで作業は続けられた。みんなびしょ濡れである。それでも文句を言う人もいない。仕方ないとあきらめているようである。

私は文句を言いたかったし、できれば中止を提案したかった。

 しかし、誰がこの作業のリーダーかわからない。周りの人に聞いてみてもわからない。あまり出しゃばりすぎると町内会行事に協力的でないと烙印を押されそうで途中から諦めて遠慮したが、内心歯がゆい思いをしていたのは事実である。かと言って途中でやめて帰ってしまうのは悔しいので結局最後までしかも熱心に作業に没頭してしまった。ズブ濡れになってしまえばあとはいくら降ろうが同じである。何も雨の日にやらなくていいであろう樹木の剪定までやってしまった。

作業が終わると、

 雨合羽を着た完全装備の草刈り機を手にした人が現れて「ご苦労様でした、これで終わります」と作業終了宣言をした。この先頭に立って黙々と作業をやっていた人がどうやらこの作業のリーダーであったらしい。みんなと一緒になって作業に専念するよりリーダーとして判断すべき事項がもっとほかにあるのではないかと思えた。たとえ決心の変更がなくても「大雨でも最後までやります」と途中で宣言すべきであったのではないかと思う。リーダーはひとつ上の立場で大局的に現状をとらえる必要があると思う。みんなと同じになってしまってはリーダー失格である。

この公園を使用する主人公は子供である。

 ところが、これまでに子供が作業に参加することは稀である。一家族だけ父親と子供が一緒に参加しているのを見かけたが、ほとんどが大人達が作業を担当している。作業内容は子供達にでもできる事が多い。少なくとも大人が刈った草を集めてゴミ袋に詰める作業くらいは小学生でもできる。何故子供達を参加させないのか不思議になる。自分達の使う公園を自分達で整備するのは当然のことである。通常町内会の子供の行事は「おもしろおかしく」が中心で、楽しくもない整備作業を敢えてやらせるという考えはあまりない。これでは子供らを甘やかすばかりで、権利と義務を理解させ奉仕の精神、我慢の精神を養うことはできないと思う。

ボランティア活動が奨励されているが、

 ボランティアの精神は身近なところでいくらでも発揮できるし、本来のボランティアは身近なところから出発するものである。そして、身近なところで生まれた精神が発展して周辺地域のため、街のため、県のため、国のため、世界のためと広がるものであろう。最初に「ボランティア活動」というものがあって、善良な市民はこれに参加すべきであるという考え方はちょっとおかしい。国の奨励施策も形だけのものでないことを期待したいし、その底辺には個人レベル、自治体レベルの小さな活動の積み上げがあることを見過ごしてはならないと思う。

ボランティアの精神が生まれるきっかけは「強制」ではないかと思う。

 自発的にボランティアの精神が生まれ育つのが理想的であるが現実は理想通りには行かないし、一人の子供にかかりっきりで生まれ育つのを監視しているわけにも行かない。まずはやらせてみなければならない。我々年輩の者は子供の頃無理矢理やらされた経験を持っているはずである。その経験が現在の奉仕の精神を支えているはずである。何故、現在の子供達には無理矢理強制的にやらせることを躊躇しなければならないのだろう。教育の専門家が強制することは成長の芽を摘むことになりあくまで自主自立を尊重すべきだと忠告するからであろうか。それとも自らの強制された体験を良しとせず子供には理想のあるべき姿を追求しようと思っているのであろうか。

まず、経験してみることからはじめなければならない。

 世の中には経験もしないでやる前から拒絶反応を示し、なおかつ批判しようとしている人がいる。経験もしないで批判はできないし、経験していてもちょっと囓ったくらいで批判するなんて身の程知らずも甚だしい。通常子供は自ら経験しようとは思わない。誰かが経験させてやらなければいつまで経っても多くを体験することはできない。経験させるとは①体験の場を準備し②見守ってやり③成果を評価してやることであると思う。最初は子供が安心して自ら経験できる場を作ってやる必要がある。慣れてくれば子供は自立してゆくのである。

自らの体験に基づいた経験を積み上げる機会が子供達から奪われつつある。

 親たちの過保護が原因なのか、理想ばっかりを追求する教育体制が原因なのか、我々大人達が教育に対する自信を失っているのか、それとも大人達自身が未熟なのかは知らないが、とにかくこのような状況を呈している。考え直すべきは自分達の身近なところからであり、大小の差はあっても身近な問題も社会的な問題も本質的には同じ要素を含んでおり、身近な問題の解決を心がければ自ずと社会的な問題も解決の道が開けてくると思う。大上段に構えないで、他人任せにしないで、自分の足下から見直してゆく必要があるようである。


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