オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

政治資金規正法問題

2024年06月08日 | Weblog
国会で大騒ぎである。

 いったいなんで騒いでいるんだろうと不思議でたまらない。大体が政治資金って何なのだろうと思うと、政治に必要な資金なのだろう。政治に必要な資金は個人の政治活動に必要なのだろう。何の問題があるのだろう。政治活動には即座に使える資金が必要なのもわかる。いちいち申請して手続して許可を経て給付される資金では時機を失してしまう。このこともわかるし、使い方にいちいち注文をつけられていたら自由な政治活動ができないのもわかる。そのためには自由に使える現金が必要なのもわかる。では、何が問題なのだろう。

政治資金の大本に立ち返って考える必要がある。

 政治資金を提供する側は、政治家を信用して政治家の打ち出す政策に賛同してこれを支援するために政治資金を提供しているのである。そうであれば、政治家はその信用に応えて、打ち出している政策を前進させるために政治資金を使っているのである。当然ながら、政治資金の使途については自信をもって説明できるはずである。それができないことに問題がある。提供された政治資金が不正な方法で使用されているか個人の目的のために悪用しているのである。だから使途を堂々と自信をもって説明できないことになる。

いくら制度を作っても根本を直さない限り問題は解決しない。

 反対に制度を悪用していくらでも不正な行為が可能になるし、制度に反していなければ何をやってもいいというとんでもない方向に進み始める。善意の献身的な発意から提供されている政治資金を不正に使っていることは犯罪であり、不正は糾弾しなければならないし、そんな不正を行う政治家は排除しなければならない。それは政治資金規正法の不備ではなく現行法でも可能なはずである。関連法を整備するということは法の範囲で不正を認めることでもある。

いったい政治資金は何に使われているのだろう。

 一番の使い道は選挙である。選挙のために資金を使うことは政治家の地位を引き続き確保するためであり、考えようによっては個人への流用である。選挙に金をかけても本来の政治には何も影響を与えない。選挙に当選した本人がどのような政策を展開するのかが本当の政治である。そのために政治資金は使われなければならない。掲げた政策と過去のすばらしい実績と実力があれば選挙で票を獲得するのは容易であり、選挙もここを焦点に実施しなければならない。金をかけて選挙活動しないと票が獲得できない候補者は最初から戦力外である。

政治資金提供の規模を20万円から5万円にしても意味がない。

 かえって手続きが煩雑になって政治資金そのものが有効利用できなくなる。100万円でも1000万円でも1億でもいいではないか。立派な政治をやってもらうために献金してくれるのであればその期待に応えて堂々と使えばいい。不正に使うような政治家には献金は集まらないし、信用を失墜し政治家としての地位を失う。政治家は堂々と使途について説明できるはずであり、使途は政治家の信用と信頼のもとに当該政治家に任されている。任されないような政治家は最初から信用されていないのである。

献金を受けると癒着が生じるという考えがある。

 それは献金をする側の料簡が狭いのである。自己の利益拡大のための献金は賄賂である。賄賂そのものも一方的に悪いとは思わないが、献金は日本国全体を発展させるような政策を支援するものである必要があり、そんな政策を掲げる政治家を支援するのである。献金を受けた政治家もそのために特定の団体に利するような政策を採用するような料簡の狭さではいけない。天下国家を語る政治家である必要がある。国民もそんな政治家の出現を期待し選挙に臨まなければならない。知名度と人気と容姿で投票していたのではろくな政治家しか出てこないし、ろくな候補者しか集まらない。

変な制度を作るから本質が見えなくなる。

 制度に反しなければ何をやってもいいとなってしまう。もともとどういう事なのかを考えるべきである。今回の政治資金の問題も政治資金規正法に反していないかだけが論点になっているし、規則に反して収支報告書に記載してなくて裏金として使われていたことが問題視されているが、裏金にしなければならないお金の使途は不正以外の何物でもなく刑事告訴されて当然である。政治資金パーティーなんて最初から動機が不純である。堂々と公開の場で献金を受ければいいと思うし、正式に国民に向かって報告できる仕組みを作ればいい。

政治活動の見える化が必要である。

 あまりにも水面下の得体のしれない動きが多すぎるし、得体のしれない権限が闇の中で暗躍している。それが政治だと思っている。堂々とやればいいではないか。堂々とできないことにろくなことはない。「正論」という言葉があるが、今の政治に「正論」は通用しない。「それは正論だが現実的でない」と言う言い訳ばかりである。ぜひ「正論」が通用するような政治を目指して、隅っこでコソコソよからぬことを企むような行為はやめてもらいたいし、そんな政治家は一掃したいものである。

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