昔は道は大切にしたらしい。
よく時代劇で、街道を掃除したり水をまいたりしているのを見かけるが、あれが道を大切にしていた頃の名残かもしれない。現代では道は移動のための便利な施設に過ぎなくて、道を大切にする気持ちなんてあまりないし、使いっぱなしで整備は国や地方自治体に任せっぱなしである。しつけの悪い人たちは道を汚したりゴミを捨てたりすることに何のためらいもない。こんなところから公徳心や倫理や伝統が廃れてゆくのだろう。
昔(江戸時代)は道、特に街道と言われるものは一般の人達は走ってはいけなかった。
走れるのは飛脚か火消しか早馬であったという。一般の町民はひたすら静かに歩いていたのである。また、大八車という二輪の運搬具も道が滅茶苦茶になるという理由で街道は通れなかった。下駄を履いて歩くのも不届き者で、草鞋を履いて、荷物運搬も馬や牛の背中に乗せて運んだようである。時代考証のしっかりした時代劇ではこれらの風習がよく再現されているが、時々急いで走る人や、走って追いかけたりする場面を見るが、これはご法度だった。
江戸時代以前の道は獣道みたいな道しかなくて、
街道や橋を集中的に整備したのは元禄時代であったらしい。おかげでその後の江戸時代は流通や交易が発達して栄華を極めることになる。その中心的な役割を果たしたのが「道」であった。「道」は神聖なものであり大切にしなければならないものだったのである。そして、江戸時代の人は「道」をみんなで大切にしたのである。「道」とは、ある目的を達するためにある地点から目的の地点まで迷わずに効率的に到達できる方法でもあった。
「道」はいろんなものに見ることができる。
茶道、華道、剣道、柔道、道徳、神道、北海道、などなどである。昔、道を大切にしてきた名残が名前として残っている。その歴史を考えないと、何故「道」がついているんだろうと疑問を抱いてしまう。「道」を大切にしない現代では、この「道」の意味が理解できないようである。どれでもしっかりとした「道」が定められ、その道の通りに進んでゆくのが本来の意味である。一人の人が見つけた「道」は脇道か獣道でしかないし、仮にその価値が認められるとしても少なくとも100年くらいはかかる。
老子によって説かれた「TAO」は「道」である。
「TAO」とは、人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。ここにも「道」がある。「TAO」は万物の根源であり宇宙の摂理である。これに逆らうところに人間の苦悩が始まる。あるがままに委ねれば自然と道はできてゆく。なぜならば人間そのものが自然の産物であるからである。不思議なもので、人間はその根源に戻れば、有でも無でもない何かが生まれてくるのである。
私は、無から有が生まれるのは組み合わせだと思っている。
組み合わせそのものに無も有もない。しかし組み合わせは存在するのである。そして、組み合わせは簡単に消滅することができる。それじゃぁ、その組み合わせはどうやって見つけるのか?それこそ「道」「TAO」であり、「TAO」に従っていればおのずと何らかの組み合わせが出来上がってくるのであり、それが自然の法則に一番適したやり方なのだろう。人間そのものも膨大で複雑ではあるが、結局は組み合わせでできた産物である。
よく時代劇で、街道を掃除したり水をまいたりしているのを見かけるが、あれが道を大切にしていた頃の名残かもしれない。現代では道は移動のための便利な施設に過ぎなくて、道を大切にする気持ちなんてあまりないし、使いっぱなしで整備は国や地方自治体に任せっぱなしである。しつけの悪い人たちは道を汚したりゴミを捨てたりすることに何のためらいもない。こんなところから公徳心や倫理や伝統が廃れてゆくのだろう。
昔(江戸時代)は道、特に街道と言われるものは一般の人達は走ってはいけなかった。
走れるのは飛脚か火消しか早馬であったという。一般の町民はひたすら静かに歩いていたのである。また、大八車という二輪の運搬具も道が滅茶苦茶になるという理由で街道は通れなかった。下駄を履いて歩くのも不届き者で、草鞋を履いて、荷物運搬も馬や牛の背中に乗せて運んだようである。時代考証のしっかりした時代劇ではこれらの風習がよく再現されているが、時々急いで走る人や、走って追いかけたりする場面を見るが、これはご法度だった。
江戸時代以前の道は獣道みたいな道しかなくて、
街道や橋を集中的に整備したのは元禄時代であったらしい。おかげでその後の江戸時代は流通や交易が発達して栄華を極めることになる。その中心的な役割を果たしたのが「道」であった。「道」は神聖なものであり大切にしなければならないものだったのである。そして、江戸時代の人は「道」をみんなで大切にしたのである。「道」とは、ある目的を達するためにある地点から目的の地点まで迷わずに効率的に到達できる方法でもあった。
「道」はいろんなものに見ることができる。
茶道、華道、剣道、柔道、道徳、神道、北海道、などなどである。昔、道を大切にしてきた名残が名前として残っている。その歴史を考えないと、何故「道」がついているんだろうと疑問を抱いてしまう。「道」を大切にしない現代では、この「道」の意味が理解できないようである。どれでもしっかりとした「道」が定められ、その道の通りに進んでゆくのが本来の意味である。一人の人が見つけた「道」は脇道か獣道でしかないし、仮にその価値が認められるとしても少なくとも100年くらいはかかる。
老子によって説かれた「TAO」は「道」である。
「TAO」とは、人や物が通るべきところであり、宇宙自然の普遍的法則や根元的実在、道徳的な規範、美や真実の根元などを広く意味する言葉である。ここにも「道」がある。「TAO」は万物の根源であり宇宙の摂理である。これに逆らうところに人間の苦悩が始まる。あるがままに委ねれば自然と道はできてゆく。なぜならば人間そのものが自然の産物であるからである。不思議なもので、人間はその根源に戻れば、有でも無でもない何かが生まれてくるのである。
私は、無から有が生まれるのは組み合わせだと思っている。
組み合わせそのものに無も有もない。しかし組み合わせは存在するのである。そして、組み合わせは簡単に消滅することができる。それじゃぁ、その組み合わせはどうやって見つけるのか?それこそ「道」「TAO」であり、「TAO」に従っていればおのずと何らかの組み合わせが出来上がってくるのであり、それが自然の法則に一番適したやり方なのだろう。人間そのものも膨大で複雑ではあるが、結局は組み合わせでできた産物である。
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