オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

絵に描いた餅(画餅)

2024年05月23日 | Weblog
どんなに巧みに描いてあっても食べられないところから、

 何の役にも立たないもの、実物・本物でなければ何の値打ちもないこととある。それじゃあ、本当に画餅が役に立たないかというと、実物・本物を見て食べて味あわなくても「餅」とはどういうものかを理解させる意味で十分価値がある。餅を食べた経験のある者にとっては、画餅を見ただけでおいしかった餅を再現することができる。実物・本物の餅は劣化して腐ったりするが、画餅はいつまでも残って餅の存在を表現し再現してくれる。

画餅にもピンからキリまである。

 いかにも本物を連想させるような巧みな絵から、落書きみたいな稚拙な絵もあるし、ただ楕円を書いて「餅」ですというのもある。やはり価値が認められるものは限りなく詳細に巧みに描かれた「餅」であろう。そんな素晴らしい画餅を「何の値打ちもない」と言い切れるのだろうか?それはそれで価値があると思うし、食べれなければ意味がないとも言えない。本物の「餅」にもピンからキリまである。美味しい餅もあるし、不味い餅もある。しかし、画餅は美味しい餅を目指して描かれているし、おいしい餅しか連想しない。

子供の権利条約というのがある。

 日本では5月5日のこどもの日を中心に児童福祉週間が実施され、子供の権利条約に基づいて児童福祉の理解と認識を深めるために各種行事が展開されている。その論議の中で、この子供の権利条約を教育指導要領に記載すべきだという意見が聞かれる。この条約に批准したのは平成6年であり、まだ日本国内に反映されていないのはある意味で問題だが、規則に反映すればそれでいいというわけでもない。いつも言うが、規則は最低限の基準である。その最低限を決めることが最終目標ではない。

本来であればそれ以上の目標を目指して努力しなければならない。

 規則やルールやガイドラインやマニュアルを強調する人達は、一生懸命最低限を決めてくれと要求しているだけにしか見えない。具体的に何をすれば文句を言われないのかとわめいているだけにしか見えない。確かに最低限も決まってなければ何を基準に考えていいかわからないだろうが、本来は自分のできる最大限のことを追求すべきであって、価値を見出すのは最低限から自分の到達できる目標までであり、皆と同じことをやっていて新たな価値が生じるとは思えない。

画餅にもピンからキリまである。

 規則やルールやガイドラインやマニュアルで示された画餅はどう考えても巧みな絵とは思えない。巧みな絵を作り上げるのはそれぞれの個人である。しかし、現実の「餅」は餅であり、餅に変わりはない。子供の権利条約はルールやガイドラインやマニュアルではない。あるべき目標の姿を表現したものである。これを理解して自分がどう取り組むかはそれぞれに考えなければならない。この時に最低限で効率的に無駄なくやろうと考えればあるべき目標とはかけ離れてしまう。

画餅の具体的なものはどこにあるか。

 子供の権利条約で言えば、自分の目の前にいる子供達である。もっと言えば自分の目の前にいる一人の子供である。その子供をおとなと同様に一人の人間として人権を認めることである。人権とは、生きる、育つ、守られる、参加するを柱として記述されている。まずは我々は個人としてこのために何ができるかを考えなければならないし、そのために自分の周囲から努力してゆかねばならない。教育に携わるものとしてはさらにその意識が求められる。

日本国憲法そのものを画餅にしてはならない。

 画餅は我々自身が作り上げるものであり、より素晴らしい画餅を作っていかなければならないし、日本国憲法は日本国民の理想とあるべき姿を記述したものである。一言一句日本国憲法の条文に従っていれば問題ないわけではないし、細部のルールを決めてゆくばかりがあるべき姿ではない。混乱し問題があれば最低限のルールは必要だが、何でもかんでもがんじがらめにしては国民の創造的かつ発展的・伸展的な活動は封じられてしまう。ぜひ教訓にして反省してもらいたいものである。




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