オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

多数派と少数派の戦い

2024年05月31日 | Weblog
日本の場合は従来多数派に流される人がほとんどだった。

 大多数の他人と変わったことをするのに抵抗があり、周囲からも悪人扱いにされていた。現在でもその傾向にあると思う。大多数の判断基準がどこにあるのかを気にしながら周囲の環境に合わせようとしている自分がいる。また、このほうが生活しやすいのである。大多数の意見は概ね正しいことが多いし、間違ってもいわゆる常識とかけ離れた意見であることは少ない。常識と言われるもののほとんどが大多数の意見の中にあると言ってもいい。

しかしながら、大多数の意見を強要することは許されない。

 強要しているのは大多数の中の一人の個人である。その個人がたぶん大多数の意見はこうであろうと思い込んでいる偏った意見の可能性がある。あくまで大多数の意見はこうであろうという判断は各人ごとに行っているのである。皆がそう思っていると思い込むことに何も根拠はない。統計を取ったわけでも調査をした訳でもない。もしかしたら何処かの誰かが主張したことかもしれないが、それが大多数の意見だというのも早計である。

この頃は少数意見の主張が認められるようになった。

 「私はこう思う」という個人の主張を前面に出して大多数に対して対抗することができるようになった。ネットワークなどの対抗できる手段が画期的に発達したとも言える。今まで無視されていた少数意見を掘り起こして大多数に対して知らしめ存在感を増大させた功績は大である。例えば「ハラスメント」がそうである。カタカナ英語で新しい概念だろうが、これまで埋もれていた少数者の不利益を白日の下にさらけ出した功績は大である。

この頃、体制側の皆さんはネットでの拡散に戦々恐々としている

 少数の人の行なった行為がネットで拡散し大多数の人が被害を被る事件が続出している。これまでであったら大多数側に埋もれて見向きもされなかったようなものが、ネット上で注目を集め拡散すると、無視できなくなり大惨事になるような事態になっている。しかし、よく考えると、大多数は何ともなくて、少数の異端が存在しているだけである。異端は認めるがあくまでも異端であって、それがどれほど重要かは個人個人で判断しなければならない。大多数がネット上で右往左往しては困るのである。

他人に具体的な迷惑をかけなければ何をやろうと自由である。

 他人に迷惑をかけないように周囲の環境に合わせようとしているということもできる。個人の意見を主張しても他人に迷惑をかけなければ問題ないはずである。他人を攻撃しているわけでもない。自分の意見を主張しているだけである。どこが悪いんだろう。ところが、これが悪いと言って非難する人がいる。大多数の他人と違っているから悪いというだけで、何が悪いのかの具体的な指摘はほとんどの場合無い。悪い基準の大本は大多数からの風評であり根拠は無い。

大多数の中で批判するのも、大多数に対して自己主張するのも個人である。

 個人の行動は基本的に自由であり、法律や規則に反していない限りこれを封じることはできない。表現の自由であり何をやろうと問題はないはずである。それじゃ、本当に何をやっても問題ないかというと、表現の自由とともに信条の自由がある。表現されたものに対してどのような信条を持つかはこれまた自由である。そうであれば、法律や規則に反していなくてもその表現に拒否感や不快感や不信感を抱くのも自由である。敵対感情を抱くことさえ自由である。

大多数の中で批判するのも、大多数に対して自己主張するのも自由である。

 何に気を付けなければならないのだろう。どちらにしても意見する側と意見を受ける側の間にわだかまりを残してはお互いに後の行動に悪影響を及ぼす。これをうまくやることだと思う。お互いにコミュニケーションを円滑にして議論し両者納得した上で結論を出すべきである。通常は結論はさておいて、言いたいことだけ言って相手を批判してそれで終わってしまっている。そこが問題だと思う。どちらにも良いこと悪いことがあるはずであり、一方的に強制することは許されないし、強制によっては何の進展もない。
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