オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

モノに固執する本当の心を見た

2008年05月07日 | Weblog
この前、家で些細なもめ事があった。

 この年になって夫婦喧嘩でもないが、私のガラクタにケチをつけられたので、カチンと頭にきて、そんなにガラクタと言うのならと手当たり次第に「ガラクタ」と思わしきものを次から次へと処分してしまった。私にとっては昔のある時期は「宝」であったものあり、今も大切なモノだと思っていた。しかし、思いっきり良く次から次へと捨てるに及んである快感がどこからともなく湧いてきた。快感と言うよりこだわっていたものから解放される感覚であろうか。

自分の心の中では、

 その「モノ」の価値を家族の者もある程度理解してくれていると思っていたし、申し訳の口実にそう思い込んでいたようだが、考え直してみると見事に自分の思い込みであったようだ。ひとつひとつを見直してみると、どれもこれも自分の世界の中だけで価値を認めるモノであり客観的に見るとやはり「ガラクタ」である。周りから「くだらない」と宣言されると確かに「くだらない」と納得してしまう。自分の思い込みの「夢」と「ロマン」は見事に砕け散ることになる。そういう「モノ」に固執することに何の意味があるというのだろう。あえて価値を認めるとすれば「モノ」にこめられた「ソフトウェア」の部分である。これらの「モノ」は、自分の中の過去の大切な思い出や知識や教訓を引っぱり出すきっかけにしか過ぎない。

こうやって自分の世界の中だけの残骸から解放されてみると、

 これまでの「自分」は何だったのだろう、これからどこへ向かえばいいんだろうと考え込んでしまう。自分の世界で自分のためにコツコツと自分の夢とロマンを目指してきたものが無意味に見えてくる。当然、この年になって自分のためだけに生きてきたわけでもないが、最終的には逃げ込める自分の世界を創り上げていたのは事実であり、それを最優先に大切にしてきた。自分の世界をもつことは人生において大切なことではあるが、自分の世界を持つことそのものが最終目的ではなさそうだ。自分の世界を出発点にして世のため人のために役に立つことが最終的な目的である。何でもないことであるがそんな気持ちがムクムクと湧き上がってきた。

そうであれば、

 最終的には「世のため人のため」に捧げることに努力するのが本来の姿である。自分で楽しければ満足し自分だけのために楽しんできたことはただの「自己満足」にしか過ぎない。自分がこれまでに築き上げてきたものが無意味で役に立たないものかも知れないし、誰も価値を認めてくれないかも知れないが、一人でも理解してくれる人がいることを信じて「世のため人のため」に外に向かって何かに役立つ努力をして行かなければならないのである。

「世のため人のため」に役立つものとは、

 それは単なる「モノ」ではない。「ソフトウェア」とでもいうべき知識であり文化であり信念であり教訓である。確かに「モノ」も文化であるが、その真髄は「モノ」に込められた製作者の「思い」であり「遺志」であり「伝統」であり「技」である。これは「モノ」そのものの便利さや機能ではなく「モノ」に込められた「ソフトウェア」とでも言うべきものである。そのような知識であり文化であり信念であり教訓であるような伝統と技を感じさせる「ソフトウェア」を築き上げ、世のため人のために努力することが我々の目指す最終目的ではなかろうか。そう考えて自分のまわりを見回すと、目にするもののほとんどが「がらくた」であり役に立ちそうなものはない。役に立つと思えるのは書籍であり買った物であるが、これらは誰かからの借り物でしかない。

たいそうな御託を並べたけれども、

 そんな大それたことを目指しているわけではない。ただ、考え直さなければならないのは、自分だけの世界に閉じこもっていないで外に向かった開かれた世界観を持つべきではないかと自省しているのである。最初のきっかけは個人的な興味であり「面白そうだ」「やってみたい」であろうが、最終的に目指すところは「世のため人のため」何かをなすことを考えなければならない。途中で頓挫するかも知れないが、見つめているのはそこであることを自覚し認識しなければならない。「自分さえ楽しければいい」という感覚だけでは中途半端な結果しか生まれないし、最後に「これは一体何だったんだろう」「何のためにやってきたんだろう」と後悔することになる。その時、その価値を一人でも認めてくれる人が周りにいれば救われるし、少なくともその人のために役立ったことは事実として認識できる。

生産的な喜びを直接的に感じることのない仕事に長い間従事し、

 個人生活では趣味の世界に没頭してきた自分を振り返って、ややもすると「世のため人のため」という感覚が薄れがちな傾向にあるのは否めない。近視眼的な雑事に追われ、個人の楽しみだけを追求する生活態度を改め「世のため人のため」が目指すべき最終目的であるということを再認識した次第である。仕事でも個人生活でも「世のため人のため」を目指さなければならない。考え直すことはたくさんあるし、具体的かつ現実的な、なおかつ身近なことから行動を開始しなければならない。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 過保護の戒め | トップ | 「核家族」の功罪 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事