オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

過保護の戒め

2008年05月03日 | Weblog

国際保護鳥で、特別天然記念物で、絶滅危惧種に指定されている「トキ」の人工孵化が話題になって、

 その成り行きが時々報道されているが、それを聞きながらいつものことではあるがムクムクと不審の念が湧き起こってきた。ニワトリの卵の孵化とどこが違うのだろう。それ程までに大袈裟に見守るべき話題であろうか?という感覚である。この人工孵化に一生懸命な人達には申し訳ないし、日中友好のシンボルとして重要な仕事であり、別に文句を言うつもりはない。関係ない門外漢が勝手な印象を書いているだけと思ってもらって結構である。

私の理解では、日本のトキはすでに絶滅している。

 高齢の1羽が現存していたが、すでにこの世を去っている。トキはかつては東アジアに広く分布し、日本でも全国に分布していた(そこら辺の田圃にもいた)が、現在では中国の一部にごく少数が残るのみである。今では中国から卵の提供を受けて日本で孵化させている。

トキは水田や湿地でタニシ、ドジョウを食べるが、

 日本はすでにトキが生存できる自然環境にはない(タニシ、ドジョウも少なくなり、メダカさえ絶滅に瀕しているという)ことを実証している。この期に及んで日本にトキを人工繁殖することの意義があるのであろうか。種を絶滅させないための施策であれば、トキが生存できる自然環境のもとで繁殖させるのが主旨である。何故「日本」で人工飼育しなければならないのか理解に苦しむ。「保護」と言う名目の人間のエゴであり、トキにとっては暴力であり、よけいな有り難迷惑でもある。

トキを人工孵化し人工飼育しても、

 自然環境の中で生存できる「トキ」は復活しない。本当にトキを復活させたければ、トキが生存できる自然環境を確保するところから始めなければならない。籠の中の鳥では「ペット」と同じである。この方面には素人なのでよく解らないが、ひとつがいのトキが生存できる自然環境とは、広大な敷地と自然なままの環境を必要とするであろう。そのような自然を残すことがトキの保護であり、ひいては人間のための環境保護にも通じる。自然環境はほったらかしで、籠の中でトキを育てることに熱中しても学問的な価値は認めるが全体としてはあまり意味はない。

トキが生存できなくなった理由は何であろう。

 少なくとも、餌とするタニシやドジョウが少なくなったからであろう。何故タニシやドジョウが少なくなったかと言うと、「農薬」であり「化学肥料」であり「河川の護岸工事」であり「ダム」であり「灌漑工事」であり「開拓による自然破壊」であり「大気汚染」であり「水質汚染」である。これらを改善しないと環境破壊はとどまるところを知らないで暴走する危険をはらんでいる。

「トキ」どころではなく、

 たくさんの動植物や昆虫、微生物が死滅してしまう。そうなれば当然人間も生存できなくなる。それが解っているのに止められない。環境保護と言うと「リサイクル」とか「省エネ」とか「野生動物の保護」という観念論に向いてしまうが、環境破壊の原因そのものを断たなければ、または環境保護と両立できる対策を講じなければいつまで経っても改善は期待できない。

「保護」と言うと闇雲に一方的かつ全面的に徹底してやろうとするが、

 あくまでも自立を助けるための「保護」である。自立できない飼い殺しは少なくとも目指すべき目標ではない。これは政治の場でも言えることである。例えば、養蚕業である。養蚕業を保護したために国内の生糸価格が上昇し、国外の生糸の安値攻勢に負けてしまった。これを保護するために生糸そのものの輸入制限をしたものだから、国外から原料としての生糸でなく生糸の製品が押し寄せ、国内の絹織物業界は国産の高い生糸に泣かされ、かといって輸入も許されず、海外の絹製品に押されて全滅に近い状態になってしまった。最終的には養蚕業も絹織物業も成り立たなくなって現在に至っている。

他人事のような感覚でいるかも知れないが、

 昔(つい最近)は日本の絹製品は一級品で海外でも評判であったのである。また、あちこちの農家で養蚕業が盛んだったのである。そして、各地に中小の絹織物業が盛んだったのである。それがあれよあれよと言う間にぶっつぶれてしまった。

その顛末について聞いたのは富士吉田市で昔絹織物業(主にネクタイやスカーフ)を営んでいた人からであった。

 この付近一帯はかつてあちこちで年中機織り機械の音がしていたのである。これをぶっつぶしたのは養蚕農家を人気取りの道具として手厚く「保護」した政治家である。つい最近のできごとであり、きれいさっぱり忘れてしまうには少々早すぎるのではないか。責任云々ではなく、しっかりと反省し、教訓は生かさなければならない。やりっぱなしでは困るのである。

「保護」するということは、保護する理由と条件が必要である。

 全部を「保護」することは無理である。可能だとしても個々に対しては微々たる「保護」しかならないし、それでは意味がない。どう考えても「保護」するのは一部の人または一部分に対してタイミング良く効果的にやらなければならない。一部に対する保護であっても理由と条件がしっかりして納得できるものであれば差別でもえこひいきでもない。政治の場において福祉の話をするとき、人気取りのために全員にバラ蒔く福祉を提唱する輩がいる。せっかく集めた税金を全員にバラ蒔いても意味がないし無駄である(最初から集めなければいい)。国がやることは万人に共通な部分における国がやるべき事業と、一部の困っている人に対する自立を助けるための「保護」事業である。基本的には個人は自立して生活するのが原則である。

自立できる人は「保護」はいらないのである。

 その分の納めた税金は恵まれない人に注がれるのである。国といえども相互扶助が原則であり、個人同士の相互扶助の考えを発展させたのが国家である。全員にもれなく均一の恩恵が与えられる政治はおかしい。そんなことができるはずがないし意味もない。困ってもいないのに「保護」してもらっても意味がないが、困った時には何人であろうと平等に「保護」してもらわなければならない。それが福祉であり、これがなされて安泰で平和な国家が築かれ信頼性と健全性が保持される。

教育も同じである。

 手取り足取り教える過保護な教育は意味がない。最終的に自立できる人を育てるなら「保護」は最小限にしなければならない。本人の意思を最優先し、本人の自由意志で物事に立ち向かっていける「自立心」を養わなければならない。危険も暴力も競争も悲しみも苦しみも悔しさも理不尽も矛盾も儚さも寂しさも全て実体験として自分のこととして理解させなければならない。可哀想だからと隔離していたのではいつまで経っても自立できないし、「保護」なしには生きられなくなる。「父性の欠除」と言われる所以である。お父さんがんばって・・・。

トキ保護の話から、予期せぬ方向(いつものこと・・・)に発展したが、

 トキも人間も同じで、「保護」されるよりも「自立」できる事を望んでいる。「保護」は一時的なもので、最終的に必要なのは「自立」できる環境である。貧富の差や年齢の差や性別などに関係なく、自立して生活できる場を提供することが国としては最優先であると思う。手厚く保護しすぎて自立する力を奪ってしまっては、また、自立しようとする意志をうち砕くような政策をしていたのでは、「保護」するほうも「保護」されるほうも不幸である。

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