オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

「核家族」の功罪

2008年05月10日 | Weblog

「日本を核家族の社会にしたのは日本国政府である」

 と言ったら反発する人が多いだろう。私も一概にそう言いきれないと思うが、日本国政府は国民の代表であり、「日本を核家族にしたのは日本国民自身である」とも言えると思う。国をあげて「核家族」に突っ走って現在に至っているが、どう考えても正常な状態ではないと思う。何か対策を必要としているのではないか。

核家族が昔の家族のあり方を変え教育や文化を塗り替えてしまった。

 昔が良かったという懐古趣味はないが、良かった部分は残すべきである。その良かった部分とは、要するに、おじいちゃんとおばあちゃんとおかあさんとおとうさんと子供が三世代もしくは四世代に渡って生活していたことに起因している。そして、周囲には親戚があり、先祖代々からの村や町の人達とのつきあいがある。すべてが集団と個人との関わり合いを保ちながら安定した社会生活が営まれていた。

このような社会を打ち壊したのは、戦後の殖産振興策である。

 働き手は都市部に駆り出されて近代工業を担う労働者として位置づけられ、若者は集団就職列車で、地方であぶれた次男坊以下は職を求めて都市部へ殺到した。これが核家族化の起爆剤である。当時の産業構造の空白部分を埋めるため国もこれを奨励した。都市部に集中した人達はそのまま定住しそこで家庭を築いて都市生活を満喫している。都市は地方の人達の寄せ集めでもあり、戦前から住み続けている人のほうが珍しいくらいである。

この核家族化が是正されないのは、地方に働き口がないからである。

 UターンとかIターンとかを奨励している地方自治体もあるが、なんせ地方に産業がない。都市は人口が集中して四苦八苦しているのに地方に産業が育たない。この弊害は日本の中央集権体制に原因がある。中央の旧態依然たる体質でもあり、自立できない地方自治体でもある。

中央集権体質を是正するというと、

 「首都機能移転」や「遷都」「分都」が叫ばれるが、国家の中枢部を物理的に移転したり分散したりする必要はない。中央の権限を地方に譲渡すればいいのである。国家の中枢部が中央に物理的に集中していることは何も問題ない。人間の身体だって中枢部分は脳に集中している。何も矛盾のない自然の摂理と言っても良い。これが分散したり他の部分に移動したりすることの方が問題である。

中央集権体制の問題は、

 地方に任せるべきことまでも中央で細かくコントロールすることである。人間の身体で言うと、脳は指令を出すだけで細部の動きは身体各部に任されている。いちいち細かいことまでコントロールしているわけではない。そして、身体各部はそれぞれに単独で独立的に機能することを許されている。脳が身体各部の事細かなところまで制御できるわけでもなく、いちいち脳から指令をもらわないと身体各部が動けないと言うのでは困ってしまう。

地方自治体は中央から独立すべきである。

 ただし、単独で孤立するのでなく、国家という枠組みの中で独立するのである。戦後50年を過ぎてやっと地方自治体が独立できる環境が整ったと思う。と言うよりも、国家が発展し中央集権の弊害の方が強くなってしまったのである。昔からの封建的な大家族を失って核家族となった国民は、国家に一家の大黒柱である「おじいさん」を期待し、家庭を上手に管理する「おばあさん」を期待しているかも知れないが、「おじいさん」「おばあさん」が事細かいことまでいちいち口を挟むのは、自立しようとする人にとっては百害あって一利なしである。また、自立しようともしない人にとっては旧態依然たる進歩のない繰り返しであり中央集権の手先として周囲に迷惑をかけるだけである。

みんなで我慢し合い助け合っていた貧しい時代は、

 集団の長老の言うことを何でも聞かざるを得なかったが、社会が発展しそれぞれ個人が独立しようとしている現在に至っては個人の自立を優先させなければならない。自立した個人同志が関係し合うのが集団であって、個人は集団の一部ではないのである。社会は発展し進化しているし、そのためのしくみが整いつつある。中央集権体質を死守するのは時代に逆行しているし、自立できない地方自治体は時代に取り残されてしまうと思う。

「核家族」が家庭を崩壊し、社会に害悪を及ぼしているという人がいるが、

 昔の封建的な家族にも一長一短がある。問題は、昔の封建的な家族のしがらみを引きずったままで、個人の自立を重視した「核家族」に移行しようとしていることである。「核家族」が現実であれば「核家族」に応じたやり方をしなければならない。それは、権威とか威厳とか強制という形ではなく、個人対個人の話し合いによる関係であり、個人の責任と権限を尊重した個人が自立した関係であると思う。「個人」を「家族」や「地方自治体」や「会社」や「国」と言い換えても同じである。

「核家族」を前提として、

 個人を優先したような社会を築き上げることは可能である。しかし個人が社会生活を営むには村や町や市や国との関わり合いは避けられない。この関わり合いを昔の「封建的家族」の感覚で長老に任せっぱなしにしたのでは「国家」が巨大な「封建的家族」になってしまう。現在の社会が政治がそうではないと言えるだろうか。これを改善するためには、まずは「個人」そして「家族」「地方自治体」「国」そして「世界」へと自立した集団の輪を広げていかなければならないと思う。

このような考えに基づけば、

 諸悪の根元と思われている「核家族」の弊害もなくなり、核家族化により欠落する部分はそれぞれの構成要素である個人の責任で埋め合わせしなければならない。個人はこの責任をしっかりと自覚しなければならないし、その責任を果たしてもらわなければならない。他人任せではいけないのである。また、家族を核家族化したのなら国家も核家族化して地方分権を図るのが道理であろう。明治初期の文明開化からすでに西洋の文化が取り入れられ、形だけでも「封建主義」から「民主主義(デモクラシー)」に移行しているのである。「仏作って魂入れず」にならないように心しなければならない。

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