オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

不易流行

2010年09月04日 | Weblog

30代の頃、ちょうど絶頂期でバリバリ仕事をしていた時、

 先輩から指導があった。「変えなくていいものは変えるな」という忠告である。今やっている自分の正面の仕事を見直すと、自分なりに変えたくなる衝動に駆られる。最初の頃、自分で考えて良かれと思って、前年度の提案書を参考に自分なりに変更した新しい提案書を持って指導を受けると、変更した部分について「なぜ変更したのか」と聞かれる。指導に応えて説明を試みるが、最終的にやるべき事は何も変化してないのに書類だけをいじくりまわしている自分に気付く。「提案書を変更したのなら、何かが変わるはずだ。何も変わらないのなら提案書を変更すべきでない。」という厳しい指導がある。過去の提案書はすでに実行され、それなりの成果と実績のあるものである。これに対して変えるべき所があれば変えなければならないが、そうでなければ変える必要がない、もしくは変えてはいけないのである。

はっきり言うと、一言でも訂正すれば、何かが変わらなければならない。

 受け取った側も、変更があった部分が新しい提案であると認識する。継続している事業であれば、ほとんどが変更がなく、一部変更して状況の変化に対応してゆく事となる。当然ながら、継続でなく新規の事業は全てがフリーハンドで提案される。長期的な視野で見れば至極当然の考え方であり、ほとんどの事業は過去、現在、未来と一貫性をもって継承されているのである。それなのに、毎回コロコロと変えられたのでは、どこが継続でどこが新規か判らなくなってしまう。変えなくていいものは変えなくてよくて、変えてはならないのである。変えなければならない事実があって、変えるべき原因があって、変えなければならない理由が説明できて、はじめて変えることができる。そして、どのように変えるのかの具体的な提案がなされる。担当者の自分の好みで特に理由もなく勝手に変えることは許されないのである。

反対に、当然変えなければならないのに、変えないで済ましている場合がある。

 これも、先輩から大いに叱られ、強烈な指導を受けた。変えると新たな仕事が増えて、問題点も抱える事になるし、変えた部分の責任は自分で負うことになる。変えないで済ませれば、その責任は前任者のものになり、自分の責任は免れる。状況が変わった、規則が変わった、新しい要素が加わった、やり方を見直した、などが生じたら、当然変えるべきなのであるが、見てみない振りをして、とりあえず前任者の提案をそのまま踏襲して、不具合が生じた時に対策していたのでは後手後手の愚策に陥ってしまう。この場合も、何を変えるのか、何故変えるのか、どのように変えるのか、具体的にどうするのかを明確にして、しっかりと説明できなければならない。本当の仕事は、こちらのほうであって、書類をいじくりまわすばかりで、何も変わらないのは、仕事のための仕事であって、混乱させ害をもたらすだけである。

人間の生き方も同じ様な気がする。

 自分の生活を見てみると、ほとんどが変わらないものでできあがっている。そして、変わってゆくべきものは、ほんの少しである。これを全て変えてしまったら生活は成り立たないし、混乱するばかりである。人によっては、変わり映えしない生活を嘆く人もあるが、本来変わらないものをベースに生活は成り立っているし、めまぐるしく変化する生活が素晴らしい訳ではないし、変わらない生活の中に素晴らしいお宝が眠っていると思う。また、素晴らしいものを生み出す材料になるのも変わらないものの中に存在すると思う。自分の人生をよりよくするためには、変わらないものも、変えるべきものも重要であって、変えるべきものの中だけに価値が見出せるわけでもない。この頃は、めまぐるしく変化する生活を過ごすのが充実した人生だと勘違いする人が多いが、そんなことはないと思う。生物としての人間は本来「スローライフ」を過ごすのが幸福なのである。

難しい言い方で「不易流行」という言葉がある。

 「変えるべき事は変えるが、変えていけないものは変えるべきでない」という至極当然のことを言っている。変化の激しい現代だからこそ、変えるべきでないものが何なのかをしっかりと把握しておかなければならないと思う。そして、何もかも変えてしまうのでなく、必要なものだけを確実にかつ具体的に変えてゆく努力をしなければならない。また、変えるべきものと変えてはいけないものを明確にして、混乱しないように、迷走しないように、一貫性を持って進んでゆく必要があると思う。変えるべきでないもの「不易」は、日本の歴史に根ざした、先祖代々の英知を結集した伝統であり、文化であり、日本人の資質である。決して欧米や諸外国に「不易」が存在するわけではない。「不易」の部分がしっかりと確定する事によって、今おかれている環境を見回して何を変えなければならないかを明確にする事ができると思う。
 
政治が迷走している。

 はっきり言って、「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」がハッキリしていない。それとは別に、個人の考え方が「ブレてる」とか「ブレていない」とかで、くだらない論争になっている。そして、自分がリーダーになったら、何でもかんでもみんな改革してゆくと、意気込みと熱意だけは強調するが、肝心の何を変えてゆくかの具体的なものがよく見えないし、何をどのように変えるのかも明確でない。もっと嘆かわしいのは、「不易」の部分がみえないことである。酷い場合は「不易」の部分を全否定して、全くゼロから始めるという。そんなことは現実的にはあり得ない。何かというと諸外国の事を例にとって、それを真似しようとする。反対に「日本」のあるべき姿と、置かれている現状、日本の将来を見つめていないし、自分の言葉で語れない。ただ、「明るい」とか「力強い」とか「発展向上」とか言われても困ってしまう。変えるべきものはほんの少しで、現在の環境に合わせて将来を見据えて必要な具体的対策をするだけでいいのである。この地道な積み重ねが政治であり、何でもかんでも改革して実現できそうもない夢を語るのが政治ではないし、そのための特効薬のような政策は初めから存在しない。

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