オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

戦後77年を迎えて、

2022年08月16日 | Weblog

あちこちでいろいろな行事が行われているが、

 私が天邪鬼なのかもしれないが、何だか肝心なところが的外れのようにしか見えない。いろんなエピソードを掘り起こして、戦争の悲惨さを訴えて、二度と戦争を起こさないことを誓って、世界平和を祈念して終わっている気がする。私に言わせると、もう一歩踏み込んで、戦争が生起しないための提案や、具体的な行動や、何故戦争が生起するのかの根本原因の追究や、戦争の仕方そのものの研究や、世界レベルでの戦争法規の検討などに進んでゆくべきだと思う。

科学技術の発達は戦争の仕方を変えつつある。

 戦争の兵器そのものも、戦争の手段も、戦争のための情報収集も、世界に対する情報発信も世界各国の戦争へのかかわり方も変わりつつある。あらゆる手段を尽くして戦争を抑止しなければならないのである。戦争を取り巻く環境の変化で戦争そのものができなくなる状況を作り出してゆかなければならないのである。それはただ、訴えて、誓って、祈念するだけでは具体的な解決にはならないと思う。すでに第二次世界大戦から77年も経っているのに戦争の規模は小さくなっているが、未だに各地で戦争が続いている。

戦争をしないためにはどうすればいいか?

 敵国を作らないことである。すべての国が基本的にはお友達であり、喧嘩もあるかもしれないが、周りのお友達がうまく仲裁してやればいいと思う。ところが、平和主義を標榜する国が平和を乱すものを敵国としてやっつけようとしている。その国そのものが平和を乱していることに気付いていないようである。お友達の心があれば正義のためとはいえ徹底的にやっつける必要はないし、喧嘩の原因を取り除いてやれば問題は解決するはずである。

敵と味方に分かれるのは情報の衝突である。

 大局的に見れば、お互いの情報の不足と認識の齟齬から勘違いが始まり、慣性の法則で走り出したものは止められなくなる。早い時期に勘違いを解消して戦争を阻止しなければならない。そのための重要なファクターは時間だと思う。不安定な状態のままで放置しておくもしくは無視するもしくは楽観的な憶測を繰り返すことにより事態は深刻になる。的確な判断と具体的な行動の時機(タイミング)が重要なようである。

情報の衝突を避けるのは、まずは外交である。

 いろいろな戦争を観察してみると、外交努力の不足が戦争をもたらしている。外交レベルで早い時期にお互いの勘違いを解消してやれば軍事レベルでの解決には至らないのである。戦争をさせないという前に政治レベルでの外交が重要な地位と役割を占めると思う。その部分はどうなっているのだろう。政治家がその部分の反省や将来に向けた対策を語ったことをあまり聞かない。過去の戦争の歴史をいくら弄くり回してもそれに基づく反省と教訓と対策を見出さない限り意味がない。

政治家は過去の戦争において外交努力が足らなかったことを反省しなければならない。

 外交努力の不足の根本の原因は情報収集能力の不足でもある。このためにお互いの勘違いが生じている。平時から相互に情報収集のパイプを作って、人間関係も含めて的確な信頼できる情報が手に入れられる手段を確保しておくべきなのである。そして、その場で即時にお互いの認識の齟齬をなくす努力を絶え間なく積み重ねなければならないのである。それなのに、敵対国が敵対行動をとると、国交断絶して大使を引き上げ情報そのものを遮断してしまう。これでは外交の意味がない。

広島、長崎に原爆が投下されたのも外交努力で回避できた。

 日本は、ソ連が北方領土に迫っていたのを理解していなかった。時間の猶予を与えれば、北海道はソ連の侵攻を受けていた。その差し迫った状況を知っていれば、将来を見据えて即刻敗戦宣言していたはずである。広島、長崎の原爆投下で日本は敗戦を決意したが、もっと遅れていれば、ソ連は北海道に侵攻していたのである。敗戦宣言があればそれ以降は侵略する大義名分はなくなる。広島、長崎の原爆投下の是非は別として、これは歴史的な事実でもあり、たくさんの教訓を与えている。

現在のウクライナ紛争も同じのように思える。

 直接の原因はウクライナがNATO加盟を打ち出した3年前にある。ロシアにあってはNATOが国境付近に軍事基地を構築していることに恐怖を抱いている。結局はNATOとロシアとの敵対関係がこの紛争を招いている。この敵対関係は外交努力で解決しなければならないのだろうが、最初から敵味方の関係では解決の糸口も見つからないし、お互いの疑心暗鬼が紛争を招いている。本来であれば、紛争になる前に外交努力で何らかの対策を必要としたのだろう。

ロシアも中国も北朝鮮も基本的には地球上のお友達である。

 最初の出発点はそこから始まらないとどこまで行っても平行線のままである。そして、その友達の部分でお互いの話し合いと情報交換と認識の違いの解消を図らなければならない。それなのに世界各国が敵と味方に分かれて戦う構図になっている。どちらが正義でどちらが悪かなんて関係ない。お互いに悪いところを修正しあえば喧嘩しあうこともないのであるし、少なくとも軍事力を行使した戦争に突入することはないはずである。

「宣戦布告」という言葉がある。

 通常の戦いであれば、戦いを開始する前に「宣戦布告」しなければならない。戦う相手も「宣戦布告」を了解しなければならない。原則的にはこの時点から戦闘が開始される。ところが、戦争の場合はこの「宣戦布告」があいまいでいい加減であり、厳密に「宣戦布告」された戦争はほとんどない。「宣戦布告」される前に、「国交断絶」「最後通牒」があり「宣戦布告」ののち「戦闘開始」となる。「宣戦布告」前にずいぶんと時間があるのである。この間の外交努力が重要なのだろう。

私は戦争は外交努力で解決できると思う。

 反対に言うと、外交努力で解決できないことを軍事力による戦争手段で解決するのであるが、これほど国家間の関係が密接になっている現代社会において、果たして外交で解決できないことがあるのだろうか?あまりにも為政者が安易に戦争に走っているのではないかと思うし、政治レベルでの努力が足りないと思う。また、戦争では国際問題が解決できないような環境を作り出してゆくのも重要だと思う。地球規模の情報化社会は反社会的な行動をすべて監視できる環境を可能としている。戦争のやり方さえ変わっていっているのである。


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