オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

自主性に任せる幻想

2007年01月13日 | Weblog

世の中何でもかんでも自主性に任せるのが最良の選択だという風潮が強い。

 自主性の持ち主は個人である。要は個人の自由にするのが理想的な解決策だと主張している。果たしてそうだろうか?個人の自由にしてしまったらバラバラでメチャメチャになってしまうのではないだろうか。「自主性に任せる」と主張する人達は、その前提として任せた本人が常識的な日本人であることを期待している。よって自主性に任せるとはいってもおおよその結果は予測した上での判断であるようである。そのために自主性に任せた結果に対して期待した通りでないと不満の意を表明し非難して反発する。自主性に任せたはずなのにである。

最終的に自主性に任せるのは当然のことである。

 その当然のことをわざわざ強調して主張するのも奇妙である。どうやらその真意は「(これ以上については)自主性に任せる」ことらしい。最終的に個人が自主的に判断する前に、ある意見に対する説明や説得や議論が十分尽くされるはずであり、その時点ではおおよその結論は見えているはずである。その最終段階に至る前の対抗策として「(これ以上については)自主性に任せる」という言葉が出てくるのではないか。「これ以上進めると形勢が不利になるので、まだ形勢が決まっていない段階で決着をつけさせよう」ということであろうか。自主性に任せるという主張と同時に出てくるのが、一方的、強圧的、権力的等である。それらを打破するのが自主性と思っているようである。また議論が平行線で収拾がつかなくなった時も「自主性に任せる」で逃げる場合もある。

私にいわせれば、徹底的に最後まで納得行くまで説明し説得し議論し合えばいいと思う。

 最後の決め手を「常識的な日本人」という曖昧なものに委ねないで負けても勝っても徹底的に最後まで戦えばいいと思う。勝負が見えてきたら有利なうちに早めに「自主性に任せる」という卑怯な方法をとるのはよろしくない。早い時期に多数決を強要するのも正当な方法ではない。理想的な解決法は議論を尽くして最良の結論に至ることである。そして最後は自主性なり多数決によるのである。日本人は最後の最後まで死闘を尽くして議論するような習慣があまりない。どちらかというと争うことを好まないようである。両者が歩み寄って円満解決することを好む。よって、結論は曖昧でどっちつかずの中途半端なものになってしまう。「常識的な日本人」に照らして判断された結論は当然責任の所在も明確にならないまま放置される。

集団には自主性はない。

 日本人は集団を擬人化して自主性もどきをくっつけるのが好きなようである。だから集団に対して「自主的」な行動を要求したりする。集団のトップが部下に対して「自主的に行動しなさい」と言うのもおかしなものである。あくまで集団の枠組みの中での「自主性」であるなら、自主性を要求する前に、集団の枠組みをしっかりと定めるのが先なはずである。枠組みさえ決まれば個人は黙っていても枠組みの中で自主的に行動する。自主的に行動できないのは枠組みがしっかりと定まっていないか、枠組みにがんじがらめに縛られているからだろう。その枠組みを決定するのは集団のトップであり、本当に問われているのは集団のトップの自主性の発揮である。集団に自主性はなくても集団のトップは自主性を発揮することができる(その成果は結果で評価される)。

「国民が自主的に判断する」「社員が自主的に行動する」「学生が自主的に決定する」等々良く出てくるが、

 これは幻想であり言葉としては間違っている。国民が、社員が、学生がひとつの思想に染まっていて、個人個人の出した結論が集団の結論と一致するのなら話はわかるが、そんな世界は封建的な独裁主義体制の社会である。集団に自主性はない。このような表現は、問題点を曖昧にするだけの誤魔化しの表現である。確かに自主性に任せて最良の結論が出るのは理想かも知れないが、それは幻想であり、幻想を現実のものにするためには、個人個人を説得しひとつにまとめるプロセスが必要である。それをまとめられるのが集団のリーダーなのである。よって、「自主的に判断する」ではなく集団のリーダーがどのように考えているのかが集団の総意であるはずである。日本人には集団のリーダーがはっきりせず、集団のリーダーが機能せず、集団のリーダーの考え方が明確でない。集団と言っても烏合の衆であり、その判断基準は「常識的な日本人」によっているようである。ここで議論は停止してしまう。

集団の自主性を表現する場合は、自主性そのものの中身に触れなければ意味がない。

 自主性の内容が何なのか、何を持って自主性というのかである。集団は個人の集まりであり、その個人がどういう考え方のもとに集まっているのかを明らかにする必要がある。個人の自主性の寄せ集めが集団の考え方ではない。要は集団としてのはっきりした考え方(意志)を明らかにする必要がある。集団の考え方(意志)は作り上げるものであり自然発生的に湧いてくるものではない。よって作り上げたものについては責任を持って説明されなければならない。それを「自主性」で片づけてしまっては中身が雲散霧消してしまう。国民、社員、学生等の集団の考え方(意志)は作り上げるべきものなのである。作り上げられたものをその集団が認めることによってそれは権威として存在することになる。そしてその権威に従うことによって集団の行動として具現化し、その結果が評価される。この一連のルーチンの中で「個人の自主性に任せる」と言った途端、集団の意志も権威も行動も消滅してしまう。

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