オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

不正の温床

2022年08月20日 | Weblog

旧統一教会についてメディアで大騒ぎしている。

 またもや場当たり的で冷静さを欠いたゴシップ記事のような内容があっちこっちでぶち上げられている。団体組織と政治家の関係はありふれた当然のことであり、特定の団体と関係があるから問題だということ自体が感覚としておかしい。関係があっても不正や犯罪行為を働いていない場合は何も問題ないはずである。報道すべきはその不正や犯罪行為の部分であって、関係があったら何でもかんでも悪いと決めつけることはどう考えても理解できない。

当該政治家もやましいことがなければ堂々としてればいいのに、

 自ら積極的に詳細に調査してすべてをさらけ出してメディアの攻撃をかわそうとしている。何万円の会費や献金なんて「だから何だ!!」と思ってしまう。そんなことを言うなら、すべての団体組織との関係をさらけ出さなければならないことになる。旧統一教会が世間で騒がれているから、その部分の透明性を証明しようとしているのだろうが、その他の部分は不透明のままである。よく考えてみればわかることだろうと思うが、この風潮を質すような人は誰もいない。

政治と金の問題は根本から見直さなければならない。

 利用する者と利用される者の関係でお互いに利益を享受している。政治家は「票」であり、団体組織は「金儲け」もしくは「宣伝」である。そして、その中で一部のものに金にまつわる不正を働く者がいる。権限を持つものは不正を働こうとすれば権限内であればいかようなことでも不正が可能である。権限を与える者は不正を働かないという信頼のもと権限を与えているのである。そして、権限を行使した者はそのことに対する説明責任が生じるし、その結果に対しても責任を取らなければならない。

説明責任と最終的結果責任が果たせれば何も問題ない。

 不正な行為であれば、周囲に対して説明できないだろうし、結果が間違っていればその責任を取って、信頼を失い、権限も剥奪されることになる。それだけのことであろう。何が問題なんだろうと思ってしまうが、問題は与えられた権限が不明確であること、権限を持つ責任者が明確でなければ、説明責任も果たせないし、結果に対する責任も誰がとるのか解からないまま闇に葬られる。権限が不明確であるということは、権限のない人が権限を行使することも可能である。不正行為はこのような環境で生起している。

本来の権限を持つ人が、しっかりしないといけない。

 不正なことは誰が何を言おうと自己の権限を行使して拒否しなければならないのである。その拒否の権限をそれぞれの立場で行使しないために間違った不正な方向に進んでゆき、時が経つとともに誰にも修正できない怪物みたいなものが育ってゆくのだと思う。保身のために権限の行使を躊躇うものは権限を持つ資格はないし、権限を放棄した者の行く末は決まっているが、日本の場合は誰も責任を追及する人はいない。うやむやのまま葬られてしまう。

不正行為を暴くのは比較的簡単である。

 不正の事実さえ証明すれば、告訴することも可能である。しかしながら、その不正行為を許したのは誰だ、本来の正当な権限を持つものは誰か、何故不正行為が見逃されたのかという追求はあまりなされないで、不正の事実をつぶさに調査して裁判に持ち込んで関係者の罪を確定し、刑を執行して終わりである。通常、金にまつわる刑は軽くて、この種の犯罪は後を絶つことはない。日本の国の組織そのものが変わらない限り永遠に続くものと思う。困ったものだ。


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