オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

職人

2007年01月08日 | Weblog

この前九州を旅行した。

 車を使って移動したが、あちこちに立派な道の駅ができている。休憩を兼ねて立ち寄って、その土地の名産物や郷土品を見るのが楽しみでもあった。そんな中で、手作りの民芸品を作って出している人の話を直接聞くことができた。売値が一個500円で、丹精込めて作っているためか評判が良く毎日売り切れになる。たくさん作ればいいと思うが、体力と集中力を継続するためには1日10個が限度だそうである。そばには同じような民芸品が並んでいるが、それらは売れ残っているにもかかわらず、この人の作った物は次々に売れて行く。たしかに良い物を作るための工夫がほどこされ、隅々まで細かな配慮が行き届いており、職人芸が駆使されている。

「金を儲けようと、欲を出して数多く作ろうとすると売れなくなる」

 この人はきっぱりと断言した。確かにそうである。数を増やした分は時間的に気持ち的に手抜きにならざるを得ない。手抜きがどれくらい許されるかは知る由もなく、作る側としては精一杯の技術と労力を注ぐしかない。その限度がこの人にとっては1日10個なのである。それ以上は作る気は全くない。近代文明の効率化・合理化からすると、何とかして大量の物を作る方法を考えるかも知れないが、結局人間の手作りに頼っているものは、人間の職人芸によるしかない。これを機械化することは可能かも知れないが、どうやっても職人の技術には及ばないし、できあがった物は形は同じかも知れないが、似て非なる物である。

職人芸が機械でもできるのであれば、

 芸術品を機械化して量産できるはずであるが、そんな話は聞いたことがない。やはり難しいのである。最新技術を駆使すれば何でもできるという幻想を常に抱いて、いろんな分野に挑戦しているが、結局は中途半端な粗悪品を大量生産しているだけではないかと考え直してしまう。自然の摂理が一番美しくて、人間の能力が最も優れていることを再度原点に立って考え直す必要がある。単純な肉体労働は機械化することは可能であるが、いい物を作るには最終的に人間の手による職人芸が必要なことを再認識する必要がある。そして、もっと職人の地位を向上させる施策と意識改革が必要な気がする。そうでないと日本の職人と職人芸が死んでいってしまう。

一人の職人は1日10個しか作れないかも知れないが、

 10人の職人がいれば1日100個作れる。品切れになるのは効率化合理化がなされていないのではなく、職人が足りないのである。この職人の技を継ぐ若者の後継者がいないのである。また、職人技を駆使して作った物の評価が低いかも知れない。1個500円でなく、もっと高額でも買ってもらえると思うし、かけた時間と手間を考えただけでももっと評価を高くしていいと思う。しかし、この方はまるで儲ける気もないし小遣い稼ぎくらいにしか思っていないし買ってくれた人が喜んでくれるだけで満足している。反対に市場経済の中では名工と言われる職人が製品に銘を入れただけで馬鹿みたいに高値で売られている。地方には無名の職人がたくさんいるのに、マスコミの宣伝に乗せられた人だけが有名になり大量生産した物に銘を入れて高値で売りさばいている。

しっかりとした物の見方を身につけなければならない。

 いかがわしい宣伝に乗せられないことである。いい物は場所や時間を超えていい物であり続けるが、いかがわしい宣伝に乗せられた物は買った途端に半額以下、下手をすれば二束三文の価値しかなくなってしまう。現代の市場経済はこれを何の違和感もなく受け入れているし、物自体が消耗品化しており、消耗してもらわないと経済活動が停滞すると思い込んでいる。買って、使って、捨てるのが一般的であり、途中に「修理して」とか「再活用して」とかいうプロセスが抜けている。いい物を修理して再活用して長く使い続ける心がけが必要ではないかと思う。修理や再活用のプロセスで十分商売はできるし、そんなにボロ儲けしなくても収支決算が合っていればいいはずである。

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