オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

変えられないと思っていることは意外に変えられる。

2007年01月02日 | Weblog

年末に向けて、直筆で大量の文字を書く機会が増えた。

 近頃はキーボード入力が多いので直筆の機会が少なくなっており、たまに大量に書き物をすると、中指の第一関節にできた昔のペンだこが退化しているため、ペンがあたる部分が痛くなってくる。私は比較的筆圧は高い方で、力を入れて書く癖がついている。ある書家の方から「かな釘流」の流派を冗談でいただいたような悪筆である。基本的にはペンの持ち方が悪いのであるが、「長年、このやり方でやっているので直しようがない」と思って半世紀近くを過ごしてきたのである。

痛さに堪えかねて、持ち方を変えてみた。

 ちょっと、違和感はあるが、書けないことはないし、手の痛さは感じない。いくぶん筆圧も少なくなって伸び伸びした文字になったような気がする。変えられないと思っていたことが変えられたのである。しかも、すんなりと。たぶんこの頃あまり直筆で書く機会がなくなったために、文字を書く記憶感覚が鈍っていて、持ち方を修正してもそれほど違和感がないのではないかと思える。変えられないと思っていたのは過去に固執していただけで、変えようと思えば変えられたのである。人生の半世紀を過ぎての不思議な発見である。ほかにもこのような思い込みで固執しているものがあるのかも知れないと反省してみるが、今のところ思い当たらない。

具体的な身体の動作だけでなく、考え方も変えようとして変えられないものがあるのかも知れない。

 まず第1に、最初から変えようと思ってもいないもの、第2に、変えようと思っても変えないもの、第3に、変えようと思って変えては見たが都合が悪いので元に戻したものであろうか。こんな分類で変えられないものが山積みされている。変えないことに意義があり、変わらないことが個性に通じるという考え方もあるが、「変わらないもの」は常に精選すべきであり、整理統合されるものである。ただ単に放置された「変わらないもの」はゴミ同然であろう。最低限、第3分類の変えてみる努力は常にやるべきであり、状況によって変えてみる勇気が必要であろう。

「何でもかんでも変えろ」というのは過激すぎる。

 少なくとも、ある事象は過去を引きずっているのであり、悠久の過去の集大成として存在している。その存在そのものに価値がなければ変えても意味がない。それは捨てるしかない。存在そのものに価値があるなら過去の集大成の上に新しいものを積み上げて行かなければならない。過去の集大成を全て捨て去って新しいものだけを積み上げたものはこれが大成するまでに更なる年月を必要とする。新しい芽を育てることも重要だが、どこもかしこも新しい芽ばかりでは、当面役に立つものが皆無になってしまう。「抜本的に見直せ」「改革しろ」「新しくしろ」と叫ぶ人の声は注意して聞いた方が良い。昔のやり方のどこを何故、どのように改善すべきかを具体的に指摘してくれる人の声を聞くべきである。

物事がうまくいかない理由を「得体の知れないもの」のせいにしてはならない。

 ただ単に不安を助長するだけで、何の解決策にもならない。他力本願の神頼みになるか、スーパーマンの登場を願うしかなくなる。百パーセント正しい解決策ではないが、少しでも問題の解決に役立つのであれば具体策として実行すべきであり、それらの集大成したものにより問題は解決される。特効薬のような解決策はないと断言しても良い。それなのに大衆が「特効薬」を求めるのは、各種の具体的な解決策がなされていないからであり、なされていても効果を発揮していないからである。そのような状況が長年にわたって続き、不信感を持っているからである。しかし、それでも物事がうまくいかない理由を「得体の知れないもの」のせいにしてはならない。即効性を求めてもいけない。地道な努力と忍耐しかない。

物事をうまくいくように改善しようとすると、

 猛烈な反対があって、結局変えられない状況に陥る。何故反対されるかと言うと、そこに理念がないからである。事象Aを事象Bに変えるだけの改善策だけで、何故変えるのか、将来的な見通しはどのように考えているのか、変えることによりどのような効果があるのか等の「理念」が見あたらない。理念に対して反対するのは対立理念を必要とするが、単なる事象に反対するのは簡単である。なぜならば、事象は無限大に存在し、収束することはない。具体的改善策というと、ただ単なる思いつきの改善策(事象)だけを提示するが、重要なのはその具体的改善策に至った考え方(理念)であり、しっかりとした理念が反対を説得できる力を生むことになる。

反対勢力も、過去に固執するだけでは将来への伸展はない。

 過去にも、悠久の過去と、近未来の過去、前世紀の過去があり、そのレンジによって使い分けなければならない。現在の物事がうまくいかない原因は過去にあり、過去に立ち返って原因を究明し、改善策を考えなければならない。固執している過去はほとんどが前世紀の過去であり、個人又は小集団の過去である。悠久の過去のごとく理念化したものでもない。試行錯誤的に行われているだけで、状況が変われば変えなければならないのである。「絶対変えられない」「死活問題だ」等と考えるのは被害妄想であり大袈裟すぎる。良い方向に変わるのか悪い方向に変わるのかはやってみなければわからないし、いずれは変わってゆくのである。「改善」の名の下に根本から根こそぎ切り倒すような急激な変化であれば別の話である・・・。

基本的には、具体的な事象としての物事はいずれかは変わらなければならない運命にある。

 少なくとも、周囲の状況が変わった分は変えなければならないのである。それを無視して過去に固執して変えることに頑なに抵抗することは無駄だと思う。

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