オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

日本の寄付文化のお粗末

2024年02月22日 | Weblog
日本人の助け合いの精神は海外でも評価が高い。

 ところが、日本国全体の評価は世界では最下位に近いようである。見知らぬ赤の他人を助けることは日本人にとって不得手であるようだ。だからと言って、身内の小集団の中での助け合いは素晴らしいものがあり、その集団に属すれば手厚いもてなしを受けることができるのである。外国の旅行者が日本を訪れて日本国民と直接交流すると、その親切心に心から感動してしまう。災害が起きた時の地域住民同士の助け合いも海外で評判になっている。礼儀正しく、謙虚であり、他者を尊重する心はそのまま助け合いの精神に結びついている。我も我もと自己主張し集団の調和を乱す者は少なく、災害時にもかかわらず秩序を保って行動している状況を見て世界から賞賛の声が上がっている。

それでは、何故見知らぬ人を助ける風習がないのだろう。

 日本の小集団的民主主義の弊害だと思う。思考範囲が小集団の中にきっちりと納まってしまっているのではないかと思う。「寄付」というと、ただお金を出すだけだが、その先には助けを求める人たちがいて、その人達を助けるために寄付しているのである。日本人は「周囲のみんなが寄付しているから私も寄付しなければ世間体が悪い」と思いながらお金を出しているのが実態ではないだろうか。小集団の中では助けを求めている対象が明確になりみんなで全力を挙げて助け合うことができているのではないかと思う。「寄付」というよりも、すべてを救済する仏教の「布施」の心を目指すべきである。「布施」は「自分の大切なものを提供する」ということで、お金だけではないのである。

英語では「Charity」という。

 チャリティーは困っている人たちに援助を提供し、資金を集めるために設立された組織のことである。チャリティーそのものは「組織」なのである。日本でよく「チャリティー」と言われているが、どんな組織なのかあまり明確でないし、どんな援助をしようとしているのか曖昧なままである。よって、これに参加しようとすると、目的も対象も不明確なため、実感として人助けをしていると認識できないようだ。そういう意味で、日本人には「チャリティー」が浸透していない。ただ、お金を寄付することだと思っている。援助をするのは金だけでなく、人でもあり、物でもあり、時間でもあり、空間でもある。時には自ら参加し、自分の物を提供し、自分の時間や空間を差し出すのである。そんな心掛けが必要なんだろう。

「布施」に戻って、

 「布施」の中身はお金だけではない。現在ではお寺や神社に渡す「お布施」として残っているだけだが、本来の仏教用語に立ち返って「布施」の精神をよみがえらせなければならないのではないだろうか。「自分の大切なものを提供する」ということは、何でもいいのである。笑顔でも、言葉かけでも、席を譲ることも、ボランティアでもいいのである。そして日本人が小集団の中で行っている助け合いがそのまま「布施」なのである。問題はこの「布施」の心を小集団の中に閉じ込めるのではなく、世界に向かってもっと言えば宇宙に向かって発展させなければならないのだろう。今現在の日本がその中途段階にあるのではないのだろうか?日本人個々の助け合いの精神は素晴らしいものがあり、これを継承してゆく努力も必要だが、これを拡大発展してゆくことがもっと求められるのだろう。

日本国として何をしなければならないか?

 組織と制度と教育を整備することだと思う。まずは、寄付先の組織をしっかりと定着させることだと思う。いかがわしい組織が跋扈しないような監視が必要なんだろう。制度としては寄付の可視化が必要だろうし、寄付に対する減税措置もあるだろう。ふるさと納税などもやっているが、国税と地方税の交換に終わっているし、個人としては返礼品のためにやっているのが実情である。どう考えても「チャリティー」でも「布施」でもない。教育としては、寄付の心を教えて子供の意識を高めることと、全体に対する社会教育も必要なのだろう。それよりも本来日本人の持っている「布施」の心を廃らせないようなしつけ教育、道徳教育、倫理教育、遵法教育などが必要なんだろう。何よりもそのような文化を継承できる環境を保持しなければならないのだろう。

日本の国は世界から金は出すが、人や血や汗は出さないと言われる。

 国としても、世界の困っている国々に援助を提供する仕組みができていないのだろう。金を出したからにはその金で何をしようとしているのか、組織を明確にし、その使途を監視し、目的を達成するまで責任を持たなければならない。現地に人も派遣しなければならないし、組織も立ち上げなければならない。どこかの団体に丸投げでは金をドブに捨てるようなものである。金は目的を達成するために使って初めて意味がある。そのやり方が稚拙なのだろう。コロナ対策や、災害対策も同じような気がする。



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