オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

忠告・注意と小言・不平

2007年01月07日 | Weblog


今単身赴任中だが、たまたま家に帰ると、一挙手一投足について家族の小言と不平がつきまとい困っている。

 片っ端から突っつき回される感覚である。何をしても文句を言われるし、その後は不平タラタラである。多分招からざる迷惑な異端者と思われているのであろう。残されている家族には家族なりのやり方が定着していて、それをいちいち乱すために文句を言われるのであろう。文句を忠告や注意と思えばまだ救われるが、どう考えても小言と不平である。忠告や注意と小言や不平とは何が違うのだろう。

小言や不平は自己中心的である。

 「あなたがやってもらわないと私が困る」という態度である。「最終的には私がやる羽目になるんだから」と言いつつも、言外に強烈に「本音ではやりたくない」と主張している。いかにも恩つけがましいが、結局は自分でやることを拒んでいるのである。最初から自分でやるのを覚悟していれば小言や不平は必要ないはずである。しかも、やり方まで自分と同じにしないと気が済まないときている。相手の思い通りに行動するなんて最初から不可能である。よって、何をやっても文句を言われる。

一人で行動している時は、何も問題ない。

 自分のやり方で仕事が完結できる。やってもらうつもりならそのやり方で満足してもらうしかなく、相手に全てを任せる度量が必要である。それをやる前からいちいち細かいことにケチをつけられたのではたまったものではない。いつも「うるさい!黙れ!」と言葉を荒げて険悪なムードになってしまう。このように小言・不平が続くと一遍にやる気をなくしてしまう。やろうとして何かを始めると、小言・不平が始まる。面倒くさいので途中でやめてしまいその相手に任せてしまう。いちいち指示通りに動くくらいなら最初から指示している人がやればいいと思う。やめたらやめたで「何もやってくれない」と文句を言われる。困ったものである。

この頃は、少し諦めたようで、何事かを始めても小言・不平が少なくなった。

 しかし、やっている途中は意識して見ない振りをして無視し、結果に対しては評価もされず無反応である。お互いに勝手にやっている状態が続いているが、状態は険悪である。私としては、家庭内で私の行動(家族にとっては我が儘)を認めてもらうのは無理だと思っている。これを機会に家の外に対して私の行動を認めてもらう努力をしようと画策している。私の我が儘は家族の迷惑であるようだ。私の考え方も家族にすれば異質なようだ。だからといって自分を変えてしまうつもりはあまりない。この我が儘は自分の一部であり私の存在の証であると思っているし、人生の半ばを過ぎる年齢になって変えるつもりもない。人はこれを「頑固親父」と言うのであろうが、大いに結構である。

それにしてもこの頃は潔癖主義が主流を占めているようだ。

 例えば、汚したものは汚した分だけきれいにすればいいというのが私の考えであるが、完璧にきれいにしないと気が済まないのが世間の風潮であるようだ。テレビのコマーシャルを見ていると完璧にきれいにする製品が次々に宣伝されている。多少汚れていても。少しくらい不潔でも、少々ほこりがあっても、と思うが、何でもピッカピカでないと気が済まない人達で溢れている。部屋は常時使うものがそこここに置かれていた方が生活感があると思うが、きっちりと収納してしまわないと気が済まない人達で溢れている。私はホテルの整頓された空間は窮屈でたまらず、自分なりに部屋の配置を変えたり、自分の持ち込んだ小物を配置したりしてくつろぐための工夫をしている。

単身赴任先で、私は洗剤をあまり使わない。

 風呂場は使った後お湯でゴシゴシ洗うだけ、食器はその都度水で洗うだけ、部屋はほとんどが雑巾の水ぶきだけである。一応洗剤はあるがほとんど減らない。確かに風呂に入れば浴槽に多少のザラつきがあったり、食器は水垢でくすんだり、床や家具にツヤがなかったりするが、これ以上汚れることはない。汚れた分はきれいにしているのである。自分としては何も問題はないし、衛生面でも問題ないはずである。車も水洗いが主体でワックスを掛けることも滅多になく、ピッカピカではないがそれほど汚れていないし周囲の人に不快感を与えるほどでもない。部屋は自分の動きに合わせて必要なものが配置されていて、他人が見れば散らかっているように見えるが、これ以上散らかることはないし、これ以上散らかった分は整頓している。

ピッカピカの完璧に整頓された空間を維持するのには多大な労力を必要とする。

 本来、自然は汚れたものである。その中に人間が人工的な空間を作り上げる。そして汚れた自然を無菌状態の完璧な潔癖主義の産物として作りかえてしまう。汚れた部分も人間の一部であるはずであるがその部分を覆い隠して隔離してしまう。そんなことをしながらいつの間にか自然のしっぺ返しを喰らっている。SARSだBSEだ鳥インフルエンザだエイズだ花粉症だなんだかんだだと騒いでいるが、結局は自然の汚れた部分に対する人間の抵抗力の低下が原因であり、汚れた部分と同居していないことに根本的な原因がありそうである。汚れたものと同居して抵抗力をつけた人間から汚れたものの悪影響を取り除けば画期的な効果があるが、汚れたものから徹底的に隔離され抵抗力のない人間はほんのちょっとした汚れたものによって甚大な悪影響を受けてしまう。

ある程度汚れたものを基準としてそれ以上汚さない努力をすればいい。

 完璧に汚れをなくすことは他のものを必要以上に汚していることになる。全体から見れば無駄な努力であり迷惑行為でもある。ピッカピカに磨き上げた高級車に得意げに乗っている人達を見て少しは羨ましいと思うが同時にその甚大な努力に対してご苦労様という気持ちが先立ってしまう。私の車は移動手段のための道具にしか過ぎない。ピッカピカに磨き上げた浴槽に最初に入るのは確かに気持ちがいい。しかし、二番目三番目の人はそういうわけに行かない。だったら最初から二番目三番目の人レベルの清潔さでいいではないか(十番目ではちょっと困る)。食器もたいていのものは水だけで十分である。しつこい汚れがつくような食品(特に油)は健康に良くないのでやめよう。使い終わったら直ちに洗うのがコツである。

小言・不平も同じような気がする。

 少々自分の思い通りにならなくても、間違ったことや完全でないことがあってもいいではないか。それが致命的な欠陥であれば声を大にして主張すべきであるが、ほとんどのことはそれほどではない。直接は影響のない些細なことである。そこまで完璧にしようとすれば、多大の労力を必要とする。当然ながら人が変われば考え方も変わるし全てをぴったりと一致させるのは不可能に近い。あまり神経質な小言・不平はお互いの幸福のために害を及ぼすばかりである。そしてそれを強制すればするほどお互いの関係は歪になってしまう。なぜならば一方的に強制する側は強制させられる側の人格を無視しているからである。最終的には強制させられる側も無視するしか方法がなくなってしまう。人間関係において無視が一番悲惨である。憎んだり怒ったりは少なくとも相手の存在を認めているが、無視は相手の存在さえ認めていない。


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