オクトシティー正直村

おかしいな?変だな?と思った事を綴った駄文

この世から完全になくしてしまうことの困難さ

2021年12月28日 | Weblog

無駄で役に立たないものをこの世から完全になくしてしまおうという人間どもがいる。

 自然界から見ると馬鹿な行いである。完全になくしてしまうことには大変なエネルギーが必要であり、無限小に向かって永遠の努力を要することでもあり、全体から見ると無駄な努力でもある。ところが、人間はいとも簡単にすべてなくしてしまえと口にする。自分の言っていることをよく理解しているのかどうか、もっと考えて主張してもらいたい。自然界の法則ではそのような行為は実現不可能で努力しても無駄なことなのである。

たとえば、人間の身体にも必要のない無駄なものがある。

 男性の乳首であり、目には見えないけれどもお尻には尾骨があり、口には親知らずがあり、体全体には体毛があり、体内には盲腸があり、遺伝子には訳の解らない無駄と思われるものがたくさんある。考えたら、もっとたくさんの必要でない無駄なものがあると思う。そうであればなぜなくしてしまわなかったのだろう。そんなことを考えると、必要でない無駄なものをなくしてしまうことがいかに困難で、減少や退化はさせることができても不必要で不完全なままでも最後は少しでも残していた方が自然であることがわかる。

数字で考えると、

 100のものを半減すると50になる。50を半減すると25になる。これを10回繰り返すと、約1,000分の一になりほとんどゼロに近づく。ただ、これをさらに繰り返しても完全にゼロにはならない。そして、これ以上繰り返しても意味のない無限小の領域に入り込んでしまうし、人間界の数字の世界ではやっても無駄である。自然界は人間が考えているようにすべてを数字で表すことはできないのであり、数字で計数しているのは人間くらいのものである。年代も月日も距離も時間も個数も人間の年齢でさえも人間が作り出したもので、自然界にとってはあまり意味がない。

どうしようもない無駄なものも、害悪を及ぼし危害を及ぼすものでも自然界では必要なのである。

 これを抹殺することは自然の法則からすると無理なことであり、自然はそのようなものの存在でも容認するおおらかな仕組みから出発している。と言うよりも、容認した方が自然で、無駄なエネルギーを使う必要がないのである。ただし、弱肉強食、環境適応、生者必滅、諸行無常などの原理のもとにいろいろなものが峻別され、選ばれたものがその時点で栄えることになる。かといって、それ以外のものが抹殺されたわけではない。そして、それ以外のものがいずれかは栄える時機を待ち続けているのである。

人間の身体で言うと、

 確かに必要のない無駄なものはあるが、それは過去に必要だったものの残骸でもある。しかし、全てをなくすことなく退化し減少こそすれしっかりと残されているのである。もっと考えると、過去に必要でなかったものは最初から存在していないのである。存在しているからには過去に何らかの価値が認められたものでもある。現在存在しているものを無駄だからとなくしてしまうことは、過去の履歴を全て抹消することでもある。しかし過去を抹消することはできないのである。

よく効率化・合理化の御旗のもと無駄なものはなくしてしまえと主張する人がいるが、

 無駄なものでも過去には必要なものであったし、今現在何故に無駄になっているのかを考えて質を変え量を変えて改良してゆくべきなのであって、全てを抹殺することは何も生み出さないのである。自然界では人間の言うところの「雑草」でさえ役に立たないと抹消することなく毎年育てているのであり、この雑草の中に将来役に立つものがあると信じているのであろう。人間の言うところの「害鳥」や「害獣」も同じで、人間にとっては「害」であるが、自然界にとっては貴重な生物に変わりはない。我々人間として考え直す必要があると思われる。


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