「AのためにBを実行する」という人と、「Bを実行することはAに反している」という人がいる。
AとBの関係をはっきりさせないと議論は全く噛み合わないし、真っ向から対立するだけで反発することはあっても歩み寄ることはない。AとBの関係が必要条件なのか必要十分条件なのかの議論なら、果たして十分条件だけで十分なのか、必要十分条件である必要があるのかを検討をすればいい。意見の差は「必要条件」と「必要十分条件」の差であり、条件の緩い前者と条件の厳しい後者の調和をとれば自ずと解決の道は開けると思う。
「AのためにBを実行する」場合、結果が必ずしもAのためにならない場合もある。
それは結果論であり、実行してみないと結果はわからない。そして、結果が間違っていた場合はBそのものを見直す必要がある。あくまでもAのために実行していることは大義名分であり明白なのである。それをAのためにBを実行することは絶対的に正しいという考え方はある意味では間違っている。絶対的に正しいと断言した時点で修正不能となり、間違っていた場合もそのまま突っ走ってしまう愚挙を犯してしまう。何においても考え方に謙虚さを持つことはきわめて重要である。
「Bを実行することはAに反している」と批判する場合、すべてがAに反しているわけではない。
一部反しているものもあるが、それは割合の話で大部分が反しているならいざ知らず、一部であればその部分について個別に検討すればいい。「完全に必要十分条件を満たさないとBを実行することはまかりならない」と主張する限り、いつまでたっても実行に移すことはできない。現実に起こっている事象は数学の論理式のようにはならないし、不完全であってもその時点で最善の実行案を選択しなければならないのである。状況は刻々と変化し時は待ってくれないのである。タイミングを失うと実行の機会も意味も価値も失ってしまう。
「済し崩し」という言葉がある。
本来は「少しずつ片づけていく」という何でもない普通の意味であるが、政治の世界では「まず既成事実を作って徐々に大義名分化する」という悪い意味で使われる。問題は既成事実が先で大義名分が後だということである。「まずBを実行させてAを徐々に大義名分に仕立て上げてゆく」という手法である。大義名分が果たして正しいのかどうかは議論されないままに突き進んで行くことになる。気がついた時にはとんでもない状況になっている可能性もある危険な誤魔化しのやり方である。議論すべきは大義名分である。大義名分を何にするか、どのように定義し確定するかが重要な問題となる。
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