tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

特別展「東大寺公慶上人」

2006年01月04日 00時23分23秒 | 都市論
奈良国立博物館で開催。副題は「江戸時代の大仏復興と奈良」)

家で取っている新聞の販売所は時々、美術展のチケットをくれる。今回は、奈良国立博物館のチケットをもらった。

この奈良国立博物館は全国にある4箇所の国立博物館(東京・京都・奈良・九州)の一つであり、かつては奈良帝室博物館と称した。この博物館の年間行事で最もメインなのは11月の上旬に行われる、奈良時代から伝わる東大寺正倉の宝物展示である、「正倉院展」だが。それ以外にも年間を通じて何回か展示を行う。

ちなみに、文豪、森鴎外は亡くなるまでの5年間、こうした国立博物館の総監になっていた。毎年正倉院展の時期になると、奈良へ視察に訪れたのだが、その時期に子ども達に送った手紙が残っている。その一部を書くと、

奈良の郵便局は、とてものろい。東京の手紙は、三日午後三時発のが、四日の昼時に来る。それに、奈良から毎日出しているのに、一日のも届いていないらしい。大阪へ書物の事を尋ねたが、中二日おいて返事が来ない。電車で一時間で行くところじゃないか。この手紙なども、おれが帰ってから後に着くかも知れない。
(小堀鴎一郎、横光桃子編『鴎外の遺産』幻戯書房 2005)

奈良の郵便に、鴎外先生、大変ご立腹である。現代ならブログを御勧めするところだが・・・。

さて、東大寺大仏殿は戦火で二度消失している。早い話が、大仏さんは二回火あぶりになったのだ。一回目は平安時代の末期、平清盛の息子に当たる平重盛が焼き討ちを行い消失。後に鎌倉時代になって、重源上人が再興した。そのときに大仏様(だいぶつよう)と呼ばれる建築様式の南大門が作られ、東大寺再興と同じく文化史でも名前が出てくる。勿論高等学校の日本史にもしっかり出ているが、二回目はどのように消失したのかと言うと、奈良の人間でも詳しく知る者が少ない。二回目は戦国時代である。この周辺を統治していた三好衆は、配下の松永久秀に攻め込まれる状況にあって、東大寺大仏殿に陣取る事になった。1567年、この松永の夜討ちに遭い消失。大仏も頭部が溶け落ちた。その後、時の権力者の援助も受けながら、両手・肩と銅板貼りの頭部で修復されるが、板つけの『仮』大仏殿は、強風で吹き飛ばされるほどであり、百年以上、大仏は鎌倉のそれと同じく雨ざらしの状態であった。

大仏と大仏殿の修復は、江戸時代、それも徳川綱吉の治世であった。その再興の中心人物が、今回の特別展の主役である公慶上人(こうけいしょうにん)である。公慶は12歳のときに東大寺に入り、雨ざらしの大仏をみて、再興を志したといわれる。

公慶は修業熱心であり、寒さ厳しい二月の「お水取り」の中心である連行衆も18年間勤め、教学にも精通した学僧であった。その知識は徳川綱吉にも進講したほどである。これにより、幕府に近づく事が出来、大仏殿再興のための寄進を募る「勧進(かんじん)」の許可も得たといわれるが、それでもかなりの困難を伴った。

最終的に大仏殿の再建まではこぎ付けたが、その規模は天平の頃と比べるとかなり小さなものになった。しかも、大仏復興を見た1705年に全国行脚の過労から死去。その死から4年がたってようやく大仏殿が再建された。ちなみに昨年が没後300年であり、それを偲ぶ形での展示である。

また公慶は今日、我々が見るような観光地としての奈良町の基礎を作った。
本展覧会は、1大仏殿炎上、2公慶上人、3江戸時代の奈良の三部構成になっていたが、1と2を主体とした内容で、3が少し少なかったの残念である。ただし、大仏殿の炎上から再建までの内容が非常に充実していた事が特筆に値する。

最新の画像もっと見る