tyokutaka

タイトルは、私の名前の音読みで、小さい頃、ある方が見事に間違って発音したところからいただきました。

一ヶ月以上たって(阪急梅田コンコース取り壊し)

2005年10月22日 17時33分50秒 | 都市論
コンコースの閉鎖から一ヶ月たった。まだまだブログで紹介していく。

今、書き続けるのも重要ではないかと思う。と言うのも、時間が経ち人々の記憶から薄らいでいくことで、あの場所への関心が薄れ、なし崩し的に何もなかったような工事が行われることが一番の問題なのではないかと思う。実際、工事はゆっくりだが、確実に進行している。工事そのものが悪いわけではない。もう一度確認しておきたいのは、あれだけの近代建築が何もなかったことのように、取り壊され、忘れられていくことの問題性である。そしてまた、同じものが作られないということの問題性でもある。だとすると残すことの意味はかなり巨大なものであると思われる。

あの場所に、大げさとも受け止めれるような意義を見出すことを不思議に思う人がいるかもしれない。
ウォルター・ベンヤミンも次のように書いている。

美術学校によって建築は造形芸術の側に入れられてしまった。「これは建築にとっての災厄でもあった。バロックにおいては芸術と建築の一体性は完全であり、また自明の事柄であった。ところが一九世紀が進むうちにこの一体性は分裂し、偽りのものになってしまった。」(ジークフリート・ギーディオン『フランスにおける建築』)この箇所はバロックについての重要な観点を提示しているだけではない。同時にこれは、歴史的に見てもっとも早く芸術という概念から抜け出たのが建築であることを示している。あるいはこういった方がいいのかもしれない。建築は「芸術」として鑑賞されることをもっとも嫌うものとなった、と。もっとも、一九世紀は、これまで想像も出来なかった規模で、しかも結局のところいままで以上にはっきりした根拠があったわけでもないのに、精神的想像力の所産に芸術と言う名を押し付けたのだが。
(ウォルター・ベンヤミン『パサージュ論 1』岩波現代文庫 2003 357ページ)

この示唆は重要である。既に19世紀に入る前に、建築は芸術としての認定を受けることを忌避してきた。つまり、他者の評価を退けてきたのである。そしてまた、「あれは美しい」という行為、すなわち「芸術」としての認定が、ただそのように見たいと思う人々の押し付けの概念ではなかったのかとも言われる。

確かに、あの梅田のコンコースを美しいと感じ、残したいと思っている人々(同時にその中に私も入るのだが)は、そう見たいと思っているだけの人なのだろう。

しかし、つい最近立てられた建築を「この建築、50年くらい経って、高い芸術的評価が出ますか?」と聞いたときに、今答えられる人はいないだろう。なぜなら、もう既に建築が芸術から離れた場所にあるから、誰も評価できない。

作ったすぐに評価が出ず、時間が経って評価が定まるものを新しく作る欺瞞。そして、既に高い評価が出ているものを壊す矛盾。

(評価の対象になりにくい)芸術が多くある中、確実に、「残すもの」として評価できる存在として、コンコースを挙げたいのだ。

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