ROOM 402

日々多くを思うものですがその思いはすぐにきえて忘れてしまうものです。忘れられない想いや日々の出来事を書き綴ります。

ムダ遣い

2007年01月30日 | WEBLOG
気がついたら明日で1月も終わりです。2月は日数が少し足りないだけで更に日にちの経過を早く感じるようですから、アッという間に3月になりますね。私はなぜかこの数週間忙しくて、なかなかブログにまで手がまわりませんでした。皆さんからメールでいろいろ催促されるのですがマジ時間なかったんす。そんなこんなでイライラしていたのかこの1週間で靴を3足も買ってしまいました。ハッキリ言ってムダ遣い。この数年間というものスニーカー以外に靴なんて全然興味なかったのに何を思ったのか突然、革靴ばっかり3足も衝動買いするなんてアホですよねぇ。オレ何やってんだろ。

哀悼

2007年01月24日 | WEBLOG
頭の中でどうしても気になって、やり過ごせない事柄がある。パキスタンの学校での話。泥レンガ作りの小さな教室に男の子十数人が机に向かっている。学校の外では同じ年恰好の女の子が群れていた。君たちは学校に行かないのかと聞くと、私たちには学校がないと女の子は答えた。イスラム世界では女児が初潮を迎えると一人前の女とみなされる。ということは「女は夫以外の男性と話をしたり顔を見せてはならない」というイスラムの戒律が適用される。だから夫でもない男の子と机を並べる男女共学はありえないし、男の先生に教わることも許されない。女の先生ならいいが、その肝心の女の先生がいない。それなら女の先生をつくればいいのだが、彼女らを教育する女の先生がいないから結局、女の子はいつまでたっても教育を受ける機会に恵まれない。せいぜいがこうやって教室の窓越しに先生の声を聞くだけなのだという。

学校の傍にはインダス川が流れている。河原に遊牧民の天幕が見えた。チャドルをかぶった女性3人がその天幕の前で羊の皮袋を揉んでいる。羊の乳を入れてそうやって揉んでいるとバターが遊離する。その作業を写真に収めようと近づいたら、亭主が飛び出してきて長い銃をこちらにむけてぶっ放してきた。妻は夫の持ち物。他の男が近寄ることは許さないというイスラムの教えがこの発砲を認めている。コーランには他に「女は男の畑だから好きに耕せ」とか「女はひたすら夫に従順に。反抗したら罰を加えよ」とか書いてあるらしい。そういうわけなのでイスラム世界では女が店に立って商売したり接客したりということはない。結婚前も結婚後も家に閉じ込められて一生を過ごす。

そんな女が夫の目を盗んで不倫でも働けば、報いは死刑と決まっている。80年代、イランの古都イスファハンで上司の妻と密会した部下が、邪魔な上司を強盗の仕業に見せかけて殺害した事件があった。判決は部下が殺人罪で死刑、上司の妻は不倫の罪で石打ち刑に処せられた。処刑は聖都コムの河原で執行され、腰まで埋められた妻に十数人の刑吏が「手ごろなサイズ」の石を投げつけて殺した。死ぬまで二十分はかかったとケイハン紙は伝えている。どれほど残忍な処刑方法なんだろう。これはつい最近まで日常的に行われていた光景。

本来は安らぎを与えるはずの宗教が、逆に苦痛と束縛を強いている。おまけに国民の半分を占めるであろう女性を教育から遠ざけ、家に閉じ込めている。これは重大な国家の損失になると考え、宗教からの脱却を開始したのがイラクのサダム・フセインだった。イランのパーレビ国王はそれをやってホメイニ師に追放された。イラクも同じでイスラム聖職者、とりわけシーア派はフセインに対する暗殺を執拗に企て続けた。フセインはそれを徹底的に弾圧する。今回の裁判でフセインに死刑判決をもたらした「シーア派の虐殺事件」がそれだ。しかし、フセインの鉄の意志はついに宗教界を黙らせ、イスラム圏にあって唯一ここだけが女性に教育と社会活動を補償するマトモな国になった。そして国民の半分が生き返ったイラクは急速に国力を伸ばし、忘れていたアラブ民族意識も取り戻した。

ただそれが欧米には都合が悪かったらしい。アラブ国家はいつまでもアホのように頑固な宗教に浸かったまま石油さえ提供していればいい。変に民族意識など持ってもらっては困るというわけだ。そしてサダムは取り除かれた。
重石が取れたイラクは再び宗教が前面に出てきて、宗派ごとの終わりのない争い、殺し合いを始めている。処刑台に立つサダムに「地獄に行け」とののしる声が記録されていた。死に行く者の尊厳を平気で踏みにじる、まるで中国人のような民。こんな連中を一つにまとめてまともな国家に育て上げた男の偉大さを、改めて思い知らされる。合掌。


世の中は別に悪くなっていない

2007年01月18日 | WEBLOG
不二家の問題とはとくに関係ありませんが、世の多くの人たちはいつでも、今の社会がどんどん悪くなっていると思い込んでるようです。子どもたちは年を追うごとに凶悪化し、日本古来の礼儀や人情もすたれてしまってきている。いつの時代でも人々は「世の中が悪くなっている」と無意識に感じているようですね。紀元前何先年も前の記録の中にも「世の中はどんどん悪くなっている。いまの人たちはだめだ!」という記述があるというのですから、この感じ方は世の常のようです。もし、仮にこのように何千年にもわたって世の中が悪くなり続けてきたのだとすると、今はもう最悪の時代のはずです。しかし、実際にはそんなことないですよね。だとすると本当のところはどうなのか?気になってしまったので私なりに少し考えてみました。
思うに、人々が常に「世の中が悪くなっている」と感じる理由の一つには、仮に世の中で以前に比べて良くなったり、以前に比べて改善されたりしていい方向に向かっている事象・事柄があっても現実では多くの人たちにとって、その良くなった事象・事柄がスグにその改善された状態が「当たり前」になってしまい、意識されなくなってしまうことが原因なのだと思うんです。例えば現在の日本の社会では昔に比べて多くの人が飢えることもなく、赤ちゃんや子どもたちが病気で死ぬことも少なくなりました。しかし、もうそんなことは我々には当然のこと「当たり前」のことなんですね。この「当たり前」というのが曲者なんです。「当たり前」以前と以後では状況が大きく変化しているにもかかわらず人々は「当たり前」以後は何事もなかったかのように「当たり前」以前のことなんて考えもしないんです。あれほど昔はたいへんだったのに!病気をしていない時に病気のことなど考えないのに似ています。戦後何十年かが経過して、誰も戦争時代のことなど口にしないのと似ています。誰しも昔のイヤな時代のことを口にしないのは理解できますが、時には思い返し「人間の愚かな過ち」を再考することも必要だと思うんですけどね。「開かずの踏み切り」なんてのがよくありますが、線路を高架上にするなどして「開かずの踏み切り」が解消された後は、人々はかつてどれほど不便だったかなんて考えもしませんものね。みんな改善後のこの便利な状態・状況を「当たり前」として受け取るだけなんです。昔の不便な時代のことなどとっとと忘れてね。
そんな我々の特徴なのですが、苦労して改善されたりした素晴らしいことはスグに忘れるくせに悪い変化や悪いことだけはよく目につくのです。そして最近ではこの「悪いこと」の種類が変化してきているように感じます。つまり、全体的にドンドン悪くなっているのではなく、つねに新しい種類の悪いことが幾つも幾つも産み出されてきているのです。過去にあった悪いことは、少しずつですが改善されているようなのですが、それはすぐ忘れてしまいます。ところが、次から次へと新たな悪いことが生じるので、つねに世の中は「悪くなる」と感じる。正しくは「ドンドン悪くなる」ではなく、「つねに新しく悪いことが生じる」なのではないでしょうか?

ART@AGNES

2007年01月14日 | WEBLOG
神楽坂にある隠れ家ホテル、ホテルアグネスで開催されているアートイヴェント「ART@AGNES」に行ってきました。国内有数の現代美術を扱うギャラリーが31件集まり、ホテルをジャックしてホテル内の各部屋で各ギャラリーの扱う作家を販売しようという試みです。私が到着した午後1時くらいは比較的ゆったり見れましたが、帰り際の3時くらいには入場待ちの行列がホテルのロビーを突き抜けて表の駐車場まで50m以上にもわたって並んでいました。さすがに彼らはゆったりと見るというわけにはいかなかったんじゃないでしょうか。そんなに大きなホテルじゃないので現場はケッコウ大混乱だったんじゃないでしょうか。でも初日であれだけのお客さんが行列をなしていたということは、意外なことに日本でも少しずつですが現代美術への関心が高まってきているのでしょうかね。しかし、来場者の顔ぶれを見るかぎりでは、年齢層も比較的若く、昨年あたり美大卒業しましたみたいな人や作家の親族などが目立ってしまっていてまだまだニューヨークやパリ、ロンドンのアート界に比べて田舎っぺの猿真似レベルでしかないなぁともちょっと感じてしまいました。
日本のような先進国でこれほどまでに美術への関心が低い国も珍しいです。拝金国家であるがゆえにその国民もお粗末な拝金主義者、別段特定の宗教があるわけでもないので、酒、テレビ、パチンコ、セックスなどのお手軽で束の間の快楽以外興味ないんでしょう。というかそれしか知らないんでしょうね。しかし、ここまで生活も文化も向上したのですから、そろそろアートの出番なんじゃないかと思うのですが、いろんな意味で。
パチンコも競馬もやらない私にとっては、現代美術ってネットや音楽と同じくらい面白くて自由で思想やアイデアの源泉にもなって楽しいんだけどなぁ。特に写真を趣味とする私にとっては写真家の存在が気になります。新宿辺りの写真ギャラリーは昔ながらのカメラ好きなオジサンには適しているのでしょうが、私にとってはなんの意味もないので、こうしたイヴェントは本当に有難いんです。現在、最前線で活躍しているアートフォトグラファーの作品を生で見れるのもこういう機会しかありませんから。生ゲルハルト・リヒターやウルフギャング・ティルマンスを観れるのも買えるのも貴重です。世界中のアーティストの価格的価値を知ることも大切なことなのです。それにしてもリヒターのペイント高かったなぁ。ソニックユースのジャケにもなっていた有名な作品だったけど350万はちょっと高いかも・・・。でも5年後には平気で500万超えても買えないかもしれないですけど。おーっと、忘れちゃイケナイのが現代美術につきもののハプニングや即効パフォーマンスもホテル内で繰り広げられていて気持ち悪くも面白かったです。今でもあんなハプニングとかやってるんすね。
アーティストやアートフォトを目指している人には多くのヒントや指針が示されたであろう今回のART@AGNES。WAKOワークスオブアート、小山登美雄ギャラリーが良かったな。でも残念なのは、時代を切り開く才能や本当に欲しいなぁという作品はありませんでした。来年に期待しましょう。今年もたまにはギャラリー巡りなどや美術館巡りなどして素敵な作品と出会いたいですね。


一並びに喜ぶおじさん

2007年01月11日 | WEBLOG
どうでもいいことなのですが、本日は1月11日と1の横並びでなんか嬉しくなりますね。しかし、もう正月から10日も過ぎたのかと思うと今年も時間の経過が早そうです。この調子で今年もどんどん過ぎていってしまうのでしょう。そしてまた一つ歳を取っておじさんになっていくのですね。イヤっすね。
それでも子供の頃は私も早く「おとな」になりたいと思ったものでした。なぜなら「おとな」はなんでも知っているようにみえたからです。私が高校生の頃、大学生はものすごく「おとな」に見えたものなんです。当時、高校生側から見る大学生はかなり遠い存在で距離感もありました。今の年齢から眺めると高校生も大学生も同じように幼くて区別がつかずひとくくりにしてしまいそうですが、ひとくくりにされる側の高校生や大学生の方では世代間の明確な区分があったのを今更ながら思い出しました。簡単に彼らのことをひとくくりにしてはいけませんね。しかし、当時高校生であった私には彼ら大学生は私がしたことのない経験を積み、私には思いもつかない複雑なことを考えてるに違いない、などとマジで思っていたものでした。そんな私もやがて、大学に行き、30歳を越え、40歳を越え、いつの間にか50歳に近づこうとしています。そして恥ずかしいことに私は突然気づいたのです。「オレって頭の中身も何もかも、高校生の頃とほとんど変わってないじゃん!」ショックでした。
鏡の前に立ち、そこに写っているおじさんをしげしげと眺め、私はこんなものが「おとな」であるはずがないと深く嘆くようになりました。いや、もしかしたら「おとな」などというものは、多くの人々が勝手に作り上げた幻想で、本当は我々は子どものまま、身体だけが成長し、衰えていくだけなんだと今では考えるようになりました。だって、この世で「おとな」と呼ばれている人たちの新聞やニュースで報じられてる汚職、談合、不正、犯罪などは子供以下の仕業ですからね。「おとな」って全然エラくなかったんですね。
しかしながら「おとな」の例外として私はやんちゃなジジイたちが大好きです。実は私の生きるお手本にしているといってもいいくらいなんです。ストーンズの面々をはじめ、先日お亡くなりになったジェームス・ブラウン大先生、ガッツ石松さん、イギー・ポップ兄さん、勝新大先生など、それら以外にも小説家、スポーツ選手、科学者、サラリーマンでもこの手のやんちゃピープルはたくさんおります。普通、世間では「しょーもない」といわれる人たちですね。そんな「しょーもない」人たちの生き方を長期間観察して発見したことが一つだけあります。彼らは不思議とわかっているんですよね。ほんとうは、誰も「おとな」なんかになったりしないんだということを。これは凄いですよね。達観してるんです。これは意識的にはできません。仮に意識的にやろうとすると、そこには作為がみられます。作為的なものは輝きもなく面白くもありません。これらを無意識的に自由におこなう。素晴らしいですよね。しかも笑える。これが大事です。人生「笑い」がないといけませんからね。今年の私は彼らを見習って少しずつでも「おとな」から脱却できるよう生きていこうかなと考えているところです。

今更ながら

2007年01月05日 | WEBLOG
私は子供の頃から勉強が大嫌いでした。中学も高校も勉強は適当にさぼってごまかして過ごしてきました。本を読むのは大好きでしたが、今から考えると何かを学ぶというよりは受験勉強などからの逃避でしたね。受験勉強も嫌々仕方なくという感じだったし大学でも遊び呆けてばかりでした。教師が休講で授業が無い時など「バンザーイ!」と叫んでいたくらいです。よくよく考えてみると中学以降の私は学校では友達と遊ぶ以外何もしていなかったということを思い出し愕然としています。当時は物事を学ぶ、とか、学問を教わる、ということがどれほど面白いのかということがまったくわかっていなかったのです。
ところが最近偶然にも人からモノを教わることになり今までの考えが一新されました。社会人になって二十年以上というもの学校や教室などに足を踏み入れる機会がなかったので久々の教室は新鮮です。こじんまりとした教室には窓から透明な冬の日差しが差し込んでいます。テキストの上に顔を埋めて、居眠りしている学生もいます。チョークの白い粉が、ふわふわと教室内を漂っているのも久し振りです。何か懐かしくも緊張感があるのです。先生の話もスゴクよく頭にはいります。ものを学ぶということは、こんなにもおもしろいことだったのか!と、ようやく気付きました。休講になったりすると本気で腹を立てる始末です。
勉強するということが、こんなにもおもしろいということに、どうして早く気付かなかったのかと本気で残念に思いました。しかし、それは年をとって学ぶからこそ、おもしろくてたまらないのだろうとも思うのです。要は若いときにはわからないのです。年をとることによって初めてわかることもたくさんあるということなのでしょう。
もちろん、世の中には早熟な天才も少なくありません。子供の頃から学ぶことのおもしろさに目覚めた人もいるでしょう。ですが、一般に若い頃は学問とは違う方向に興味は向いてるものです。クラスの可愛い女の子のことや、どうしようもなくクダラナイ冗談にばかり興味は働くのです。三十分もじっと座っていると発狂しそうになっていたものです。まして昔の講義というものは先生が勝手にしゃべってばかりで生徒は黙々と講義をノートに書き写していましたよね。実に無味乾燥であーいった授業はいつの世の中でもおもしろくもなんともありません。ところが最近の講義というのは生徒数が少ないのでアットホームな感じがなにやら良いんです。そして教師のほうも以前の教師に比べると格段にクダけてリラックスしたタイプが多いので彼ら自身が気楽にしゃべっていますからこちらもタイヘンわかりやすい。そして昨今の学生がバカなために、そこから更に噛んでふくめるように教えてくれるのですから更に解りやすく有難いのです。専門の学者になるのは別として、勉強をするおもしろさを味わうつもりなら、年をとってから再度トライしたほうがゼッタイにいいですね。ハッキリ言って今こそ我々がモノを学ぶのには絶好の時期だと思うのですが・・・どうでしょう?
若い頃は古典を読んでも、ほとんど実感することがなかったように思います。一応、なるほどなー、などと感心することはあっても、腹の底から、うーん、と納得できるのは四十歳を過ぎてからじゃないでしょうか。「もの言わぬは腹ふくるるのわざ」などという文句も、意味は理解できてもそれだけのことでした。「いやー、ほんとうにそうだよなぁ」とつくづく共感するのは、ある程度、年をとってからのことなんです。年をとるのがおもしろいというのは、こういうことなんだと思います。みずみずしい感性が失われていく代わりに、以前は見えていなかったことが見えるようになる。頭でわかっていたことが、全然違う角度から実感できるようになってくる。学ぶことのおもしろさに目覚めることも、その年をとる効用の一つでしょう。今からでも遅くはありません。もう一度、大学に顔を出してみるのもいいかもしれません。私はいつまでも欲張りですから今後、医学、建築、音楽、芸術、哲学なんか勉強しようと思案中です。欲張りすぎですね。

今年こそは

2007年01月01日 | WEBLOG
年末の怒涛の飲み会の日々に浮かれまくり、すっかり更新サボッていたらいつのまにか年が明けていました。この10日ほどの間に愛車を電柱にブツけるなどアクシデントもありましたが、懐かしい友人と10年ぶりに会ったり、美味しい食べ物を頂いたり昨年の最後の10日間は日々激しかったなぁ。
さて、本年の個人的目標は更に健康オタク化を加速させようと思っとります。やっぱり毎日を快適に生きるにはガンガン酒を飲むだけじゃ駄目なんですよね。ベースとして先ずは健康な身体と精神あってこそ気持ちよく酒が飲めるんだとしみじみ昨年感じた次第です。昨年一年かけてやっと人並みの体重に戻りましたので、これから壮年に向けて少しのことではくたばらない身体作りをしようかと考えてます。やっぱこれからは医療費などを含む健康系の出費が膨らむことは明白です。今から少しでも鍛えておくことで将来の医療費を安くあげようというセコい考えなんですね。後、煙草も止めます。自分としては久々のとても大きな決断です。昨年来からずっと考えていたのですがやっぱタバコは健康には良くないみたいですね。キリがいいので今年から止めようと思いました。その決意の程に関してはタイトルにあるような感じなのですがいつまで続くのでしょうか?でも、今回はマジで頑張ろうと思ってるんですよ。