ROOM 402

日々多くを思うものですがその思いはすぐにきえて忘れてしまうものです。忘れられない想いや日々の出来事を書き綴ります。

一並びに喜ぶおじさん

2007年01月11日 | WEBLOG
どうでもいいことなのですが、本日は1月11日と1の横並びでなんか嬉しくなりますね。しかし、もう正月から10日も過ぎたのかと思うと今年も時間の経過が早そうです。この調子で今年もどんどん過ぎていってしまうのでしょう。そしてまた一つ歳を取っておじさんになっていくのですね。イヤっすね。
それでも子供の頃は私も早く「おとな」になりたいと思ったものでした。なぜなら「おとな」はなんでも知っているようにみえたからです。私が高校生の頃、大学生はものすごく「おとな」に見えたものなんです。当時、高校生側から見る大学生はかなり遠い存在で距離感もありました。今の年齢から眺めると高校生も大学生も同じように幼くて区別がつかずひとくくりにしてしまいそうですが、ひとくくりにされる側の高校生や大学生の方では世代間の明確な区分があったのを今更ながら思い出しました。簡単に彼らのことをひとくくりにしてはいけませんね。しかし、当時高校生であった私には彼ら大学生は私がしたことのない経験を積み、私には思いもつかない複雑なことを考えてるに違いない、などとマジで思っていたものでした。そんな私もやがて、大学に行き、30歳を越え、40歳を越え、いつの間にか50歳に近づこうとしています。そして恥ずかしいことに私は突然気づいたのです。「オレって頭の中身も何もかも、高校生の頃とほとんど変わってないじゃん!」ショックでした。
鏡の前に立ち、そこに写っているおじさんをしげしげと眺め、私はこんなものが「おとな」であるはずがないと深く嘆くようになりました。いや、もしかしたら「おとな」などというものは、多くの人々が勝手に作り上げた幻想で、本当は我々は子どものまま、身体だけが成長し、衰えていくだけなんだと今では考えるようになりました。だって、この世で「おとな」と呼ばれている人たちの新聞やニュースで報じられてる汚職、談合、不正、犯罪などは子供以下の仕業ですからね。「おとな」って全然エラくなかったんですね。
しかしながら「おとな」の例外として私はやんちゃなジジイたちが大好きです。実は私の生きるお手本にしているといってもいいくらいなんです。ストーンズの面々をはじめ、先日お亡くなりになったジェームス・ブラウン大先生、ガッツ石松さん、イギー・ポップ兄さん、勝新大先生など、それら以外にも小説家、スポーツ選手、科学者、サラリーマンでもこの手のやんちゃピープルはたくさんおります。普通、世間では「しょーもない」といわれる人たちですね。そんな「しょーもない」人たちの生き方を長期間観察して発見したことが一つだけあります。彼らは不思議とわかっているんですよね。ほんとうは、誰も「おとな」なんかになったりしないんだということを。これは凄いですよね。達観してるんです。これは意識的にはできません。仮に意識的にやろうとすると、そこには作為がみられます。作為的なものは輝きもなく面白くもありません。これらを無意識的に自由におこなう。素晴らしいですよね。しかも笑える。これが大事です。人生「笑い」がないといけませんからね。今年の私は彼らを見習って少しずつでも「おとな」から脱却できるよう生きていこうかなと考えているところです。