ROOM 402

日々多くを思うものですがその思いはすぐにきえて忘れてしまうものです。忘れられない想いや日々の出来事を書き綴ります。

哀悼

2007年01月24日 | WEBLOG
頭の中でどうしても気になって、やり過ごせない事柄がある。パキスタンの学校での話。泥レンガ作りの小さな教室に男の子十数人が机に向かっている。学校の外では同じ年恰好の女の子が群れていた。君たちは学校に行かないのかと聞くと、私たちには学校がないと女の子は答えた。イスラム世界では女児が初潮を迎えると一人前の女とみなされる。ということは「女は夫以外の男性と話をしたり顔を見せてはならない」というイスラムの戒律が適用される。だから夫でもない男の子と机を並べる男女共学はありえないし、男の先生に教わることも許されない。女の先生ならいいが、その肝心の女の先生がいない。それなら女の先生をつくればいいのだが、彼女らを教育する女の先生がいないから結局、女の子はいつまでたっても教育を受ける機会に恵まれない。せいぜいがこうやって教室の窓越しに先生の声を聞くだけなのだという。

学校の傍にはインダス川が流れている。河原に遊牧民の天幕が見えた。チャドルをかぶった女性3人がその天幕の前で羊の皮袋を揉んでいる。羊の乳を入れてそうやって揉んでいるとバターが遊離する。その作業を写真に収めようと近づいたら、亭主が飛び出してきて長い銃をこちらにむけてぶっ放してきた。妻は夫の持ち物。他の男が近寄ることは許さないというイスラムの教えがこの発砲を認めている。コーランには他に「女は男の畑だから好きに耕せ」とか「女はひたすら夫に従順に。反抗したら罰を加えよ」とか書いてあるらしい。そういうわけなのでイスラム世界では女が店に立って商売したり接客したりということはない。結婚前も結婚後も家に閉じ込められて一生を過ごす。

そんな女が夫の目を盗んで不倫でも働けば、報いは死刑と決まっている。80年代、イランの古都イスファハンで上司の妻と密会した部下が、邪魔な上司を強盗の仕業に見せかけて殺害した事件があった。判決は部下が殺人罪で死刑、上司の妻は不倫の罪で石打ち刑に処せられた。処刑は聖都コムの河原で執行され、腰まで埋められた妻に十数人の刑吏が「手ごろなサイズ」の石を投げつけて殺した。死ぬまで二十分はかかったとケイハン紙は伝えている。どれほど残忍な処刑方法なんだろう。これはつい最近まで日常的に行われていた光景。

本来は安らぎを与えるはずの宗教が、逆に苦痛と束縛を強いている。おまけに国民の半分を占めるであろう女性を教育から遠ざけ、家に閉じ込めている。これは重大な国家の損失になると考え、宗教からの脱却を開始したのがイラクのサダム・フセインだった。イランのパーレビ国王はそれをやってホメイニ師に追放された。イラクも同じでイスラム聖職者、とりわけシーア派はフセインに対する暗殺を執拗に企て続けた。フセインはそれを徹底的に弾圧する。今回の裁判でフセインに死刑判決をもたらした「シーア派の虐殺事件」がそれだ。しかし、フセインの鉄の意志はついに宗教界を黙らせ、イスラム圏にあって唯一ここだけが女性に教育と社会活動を補償するマトモな国になった。そして国民の半分が生き返ったイラクは急速に国力を伸ばし、忘れていたアラブ民族意識も取り戻した。

ただそれが欧米には都合が悪かったらしい。アラブ国家はいつまでもアホのように頑固な宗教に浸かったまま石油さえ提供していればいい。変に民族意識など持ってもらっては困るというわけだ。そしてサダムは取り除かれた。
重石が取れたイラクは再び宗教が前面に出てきて、宗派ごとの終わりのない争い、殺し合いを始めている。処刑台に立つサダムに「地獄に行け」とののしる声が記録されていた。死に行く者の尊厳を平気で踏みにじる、まるで中国人のような民。こんな連中を一つにまとめてまともな国家に育て上げた男の偉大さを、改めて思い知らされる。合掌。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
革命に血は! (鎮目 浩二)
2007-01-26 10:08:51
今回も興味深く読ませて頂きました、I氏の宗教観、現代社会への問題意識が鋭く描かれており”ノンポリ”の私などはTVで報道される”極一部の世界観”に囚われている人間として非常に恥ずかしい思いをしました。と言うのも普通にTV報道を見る限り「大量虐殺をしたフセイン氏」と言う代名詞がクローズアップされており中々I氏の様な深読みが出来なかったからです、氏の文章を読みながらフセイン氏の革命家としての一面が良く見えたからです。革命には血はつき物です、しかし今回のフセイン報道にはその部分が全く無く”恐怖の残虐者”としての側面しか報道していないからです。おそらく氏の様な見方をする日本人は少ないと思います(私はNHKしか見ないからかも知れませんが)、が分かってる人も中々語らないでしょう。日本人はとかく宗教と言うと良いイメージを持たない様に感じます(特に若い人達)、オウムなど特化した物がイメージされるからかも知れません。日本は「宗教の自由」を謳ってる国ですから無責任と言わざるを得ません、変てこな”新興宗教”が次々に生まれても「宗教の自由だ」で終わってしまうのです。
これから世界はどうなって行くのでしょうか?、もう少し勉強しなければと強く感じました。
返信する
Unknown (402)
2007-01-26 19:10:38
物事を一面から見ると確実に見誤る好例ですね。ただし、私の意見がすべて正しいわけではありません。賛成するもの、反対するものそれぞれの意見があるわけですが、本来はそのすべてを丹念に追って行くべきなのでしょう。この私の話でも、私が読んだ雑誌からの抜書きなどもあり、本来ならその出所も明らかにすべきなのでしょうが面倒でやっておりません。すいません。ただ、この私のブログではテーマにもあるように日々思ったこと考えていることを今後も書き続けていこうと思います。
返信する

コメントを投稿