酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

史学してみた。 「風雲児」が生きた時代 最終話

2013-01-11 10:52:13 | もっとくだまきな話
昭和32年10月26日。司法記者クラブ。
司法記者会が岸本検事長に宛てた抗議文。
全文掲載。
東京高検は二十四日夜、読売新聞社社会部立松和博記者を名誉毀損容疑で逮捕したが、当記者クラブでは二十六日緊急総会で極めて不当なものと全員一致で確認した。とくにこの逮捕は従来のこの種事件捜査の慣例を破って強制捜査権を発動した異例のものであり、しかも新聞記者のニュース・ソース秘匿を逮捕理由としていることは司法部担当の新聞記者として黙過できないと同時に報道の自由を侵害するもとと認めざるを得ない。よって厳重に抗議する。

10月26日。午後4時。岡原次席検事。自室。
「川口君。君と大津君、そして菊地君・・・・・泉君を読んで来てくれたまえ」
すぐさま、4検事が岡原の自室へ集まりました。
岡原が口を開きます。
「単刀直入に聞こう。立松記者の拘置請求なのだが、この先どうするつもりなのだ?」
「立松拘置期限は本日午後10時15分で切れますね・・・」川口が全員が分り切っていることを、あえて話します。
泉は、当然、拘置期限の延長を期待しているのでした。
「冗談じゃない!請求には大反対です。今から掛け合って来ます。第一、立松記者の健康状態が非常に不安定です。このまま拘置を続けたら・・拷問と捉えられかねない」
菊地はすぐに、部屋を出ていきました。
「よけいな事しやがって・・・もう少しで奴は落ちるんだ。おれがそうさせてやる」
泉は鬼検事と呼ばれるその腕には、過剰とも思える自信を持っているのでした。
午後5時少し前。菊地が部屋へ戻って来ました。
「では、皆の意見を集約しよう。泉君の他は、拘置期限の延長には反対。これでいいんんだね」

上記、流れを会話にしてみました。
事実は、一応の会議の体をなしていただけなのです。菊地が退席していた小一時間。その間に拘置請求が決定されているのです。
「だまし討ち!これ以外何物でもない!」
川口は激怒致します。

10月27日。早朝。立松実家。家宅捜査。
「おやまぁ。お久しぶりですこと」
家宅捜査へ向かう、東京高検検事、菊池は玄関を開けるなり、立松房子夫人のお出迎えに会いました。
菊池は、和博の父、房子の夫、立松懐清に世話になった事があるのでした。
それを夫人は覚えていたのです。
「奥様、お久しぶりでございます。家宅捜査を行いたくご自宅へお伺いいたしました。何卒ご協力お願い致します」
家宅捜査には似つかわしいとは思えない自宅玄関での挨拶を交わす二人。
立松家が司法界の中では重鎮中の重鎮の家柄であることを伺わせております。

少し前。
和博逮捕の黒幕が岸本検事長と知った房子です。
引出しからあるものを取り出します。
「あった!あったわよぉ!これを探していたんだわ!」
「お母さん。どうしたのです。何があったのですか」長男、立松喬が部屋へ入って来ました。
「あら、喬。これをね探していたのです」。
一枚の紙切れを喬に差し出します。借用書です。
この中身を見て、喬は驚きました。
黙っている喬に、房子が話します。
「これをね。高検に持っていこうかしら!」
「おかあさん。こんな古いものよく取ってたね。でも、これはお父さんと岸本との話だし、仮に、これを岸本が思い出してもだよ。事件の解決には役には立たないと思うよ。第一、和博が喜ぶとも思っているのかい」
「あらそぉぉ。いい考えだと思ったのに・・・」
戦前の二千円にもわたる借用書です。
懐清はそんな大金を岸本に渡しておりました。
形は借用とはなっておりますが、もともと、金銭感覚が普通の家庭とは大きく異なる立松家。
「岸本にただで渡した」こう言ってもよかろうと考えます。
司法界では大きな存在であった懐清。(第二話で大逆事件を語りました)
若い司法官がよく自宅へ訪ねてまいります。岸本もそのうちの一人でした。
懐清は、見込んだ若い司法官へは、金銭を通して援助を惜しまないことをしております。
「どうせ、家宅捜査があるのでしたら、一番目立つところにでも置いておこうかしら」
房子は自分の気持ちの行き場がない事に気づいていたのでした。

「今日で、今日で拘置期限が切れる。もう少しなんだ」
背中の痛みに耐えながら、もはや椅子に座ることも苦痛になって来た立松は、東京高検検事事務室内で黙っている泉を見ながらこう考えております。
立松は「相手がインテリであるほど、落ちやすい」と話した、知人の検事の言葉を思い出しました。
「おれが?インテリ?・・・な訳なんてないけどな」
しかし、こころの底では「あと三日は持たない」こう思っているのも事実なのです。
前回、「もし、情報がある程度、立松の耳に入っていたら、立松の気持ちが萎えることはなかった」。
こうお話し致しました。
司法記者クラブが岸本検事長へ宛てた抗議文も、あらゆる団体が立松擁護で動いて居る事すら、立松は知りません。
立松には食事を与えられないといった拷問よりも、情報の遮断は、大きな苦痛となっているのでした。
立松は泉の話をそらそうと、皇居の石段を数えることをいたします。
「おい!立松!いい加減にはいちまぇ!」
泉は執拗に立松を追い詰めてきます。
立松は、その大きな声に圧力を感じたのか、椅子から転げ落ちます。
「まだ調べは終わってないんだぁ!立てよ!」
机にしがみつき、ようやく立ち上がった立松。憔悴しきった表情で、口を開きました。
「たばこ・・・・たばこ・・くれますか?」
(落ちた!立松の野郎!落ちやがった!)
泉はこの瞬間に自分の仕事が終わるのを確信いたします。
自身のポケットからたばこを取り出し差し出しました。
「よく頑張ったな・・」
普通なら労いの言葉に聞こえるそれは、立松の頭を覚醒させるのには十分でした。
「頑張っただと?何を寝ぼけていってやがる!」
一度は泉の差し出した、一本の煙草を受け取った立松です。が。
それを指先で折ってしまいます。
「あんたのような貧乏検事と一緒にされちゃぁ、こちとら困るんだヨ!俺はなぁ。アンフォーラしか喫わねぇんだ!覚えてやがれ!」
「た!たてまつぅぅ!」
泉の顔が怒りで膨れ上がるのを立松は、心の中で笑いながら聞いておりました。
「本当に俺を怒らせやがったなぁ」
泉は椅子を蹴飛ばしました。

そして再び、10月27日、朝。
立松、四日目の朝を迎えました。
東京地検拘置尋問室。
部屋へ通された立松。
部屋にいるのは、刑事十四部付村松部長判事。
「立松さん。どうぞこちらへ」
椅子に座るように促す村松。
(立松さんだと?何があったんだ・・)
「検察側の拘置請求を検討いたしました。その結果をお知らせいたします。結果『あなたを拘置する正当な理由が見当たらない』これが見解です。したがってこの拘置請求を却下することに決定いたしました」
釈放です。
立松は疲れ切った頭の中で復唱してました。
司法記者生活の長い立松でも、その記憶がありません。
所謂、裁判所が検察の請求した拘置期間を断ったのです。
因みに、この事例を法制史から見てみますと「砂川闘争立ち入り事件」「佐賀県教祖事件」の二つがあるだけです。(当時、昭和32年10月現在)
立松は、その足ですぐ様読売本社へ向かいます。



立松は殆ど英雄扱いされます。
インタビューは読売の独占的な部分ではありましたが、入院先の病院の外には他社記者の姿もありました。
読売は、検察へのバッシングを続けます。



記事内容を掲載いたします。
(読売新聞社→読。岸本検事長→岸。といたします。また一部割愛致します)
読「立松記者の拘置請求が却下され、釈放となったが、不当逮捕を強行した高検の責任者としてどう思うのか?」
岸「拘置して調べたい一件があったからだ。却下された以上裁判所の決定に従う。準抗告はしない」
読「釈放によって不当逮捕ということが明らかになったではないか」
岸「見解の相違である」
読「拘置がつかないようでは逮捕を強行した意味はない。地裁で聞くと、逮捕状に判を押した判事は慎重でなかった、と批判されているのに対し、当の判事は、高検の態度が極めて強硬だったのそれだけの理由があると思った、と説明していると聞いた。拘置請求が却下されようとも準抗告してこそ、高検の逮捕に踏み切った理由が首尾一貫するではないか。どうして途中で腰砕けになってしまったか?」
岸「逮捕と拘置と意味が違う」
読「ニュースソースを言わないから自由を拘束して立松記者を拘禁性の異常心理に追い込み、ニュースソースを話させようとした狙いではなかったか。病み上がりの同記者を長時間にわたり調べ続け、検事は三人交代。過酷ではないか。立松記者がそう話している」
岸「身柄を拘束するという点では逮捕と拘置は同じであるが、意味は全く違う刑事訴訟法の条文通りである」
読「三人目の泉検事が一番ひどかったと立松記者は言っている。なぜあの検事はじめ三人もの検事を検事を繰り出して病弱な立松記者を調べたのか?」
岸「それは、いいじゃないか。検事が変わったのは仕事の都合だろう」
読「調べの方は今後どうなるのか?」
岸「七、八割はすんでいる。拘置だって、二、三日のつもりだったが、仕方がない。後は任意でやる」
読「では、何故二十七日になって、家宅捜査を行ったのか?家宅捜査は逮捕を同時にするのが常識じゃないか。二十五日に裁判所からとった令状を釈放寸前にするなど、嫌がらせではないか?」
岸「見解の相違である」

全ての質問に「見解の相違」と突っぱねる岸本検事長。
裁判所の見解も同紙は掲載させております。

しかしながら、10月30日を過ぎて、大きくこの事件が動き出します。

自民党代議士「真鍋真」の逮捕につながって行きます。
しかし、これはこれでこの事件が壁にぶち当たります。
逮捕された真鍋は13日間の取調べの後に保釈されます。
ある意味、一番の黒幕の逮捕ではあった訳です。
ここで「あれ?あの二人はどうなったのか?」と疑問の思われる方もいらっしゃるかと存じます。
立松が書いた記事「宇都宮、福田両代議士の召喚必至」の「宇都宮」と「福田」の代議士です。

年も押し迫った昭和32年12月18日。
読売新聞記事。

「事件には全く関係なかった」
読売はこう結論。

実際はどうしたのか。
簡単に、お話しいたしますれば。
「岸本派の強硬な姿勢に、対局をなす馬場派がこれ以上の混乱を避ける為に召喚を見送った」。
これが歴史とされております。
この記事の意味するところは、「読売は記事の取り消しを認め、これを公表した」という事になります。
読売はこれを誤報を認めてしまった(酔漢的私見)。
ですから、内部処分も発表いたしております。
小島文夫編集局長と景山与志雄社会部部長が罰俸。等。
立松本人は「重大な過失により会社の信用を傷つけたるにより懲戒休職・編集局勤務」となります。

立松は失意の中、入院しております。
麻薬常習患者。
その後、入退院を繰り返しながら、静養どころか余計に精神に異常をきたし、自ら命を絶ちました。
「運ちゃん(兄の渾名。立松喬)読売は俺を助けてはくれなかった。ひどい会社なんだ」
病院への車の中。立松がふと本音を漏らしました。
昭和37年10月17日。早朝の事でした。

昭和35年。4月。総選挙。大阪5区。岸本立候補。
岸本は、選挙に際し、派手な買収工作をあからさまに行います。
最下位ながら当選致します。
しかしながら、これを大阪地検は見逃しません。
執拗のない摘発に向かいます。
妻、次男、実兄をふくむ204名もの検挙者。58名の正式起訴。86名の略式起訴。自身も嘗ての部下から取調べを受けます。
「18名に432万円をばら撒いた」というもの。
「選挙史上まれにみる悪質な事件」とされます。
検察ではかつての宿敵「馬場派」がその全てを抑えている事実。
「馬場に岸本の首を差出した」とも言われました。
これを指揮した検事正橋本は、こう語ってます。(週刊新潮昭和36年1月30日号)
「派閥うんぬん。勘繰りは、甚だしい勘繰りである。私は法に則り執行したまで。私は何派にも属してないことは明白」と。

昭和39年1月8日。
馬場は検事総長に就任します。
同年、3月9日。
岸に判決が言い渡されます。
「禁固1年3ケ月。執行猶予3年。公民権停止3年」

昭和40年。岸本は温泉療養中。心臓発作でより亡くなります。68歳でした。

立松和博を今一度、現在で語ってみよう。
こうした「くだまき」です。
読売新聞が「IPS細胞を巡る記事で誤報を認める」これが動機となりました。
記事の誤報を認める記事には、多くふれる事はありません。
過去には。「栄光なき天才たち」このコミックで立松を知りました。
二十年前「不当逮捕」(本田靖春氏著)も拝読いたしております。
事件そのものは多くの問題を抱えております。
しかし、どちらかと言うと「事件そのものを検証」するというよりは、「立松和博の魅力」の方に興味が湧きました。
危ない匂いのする男「キザな野郎。金持ち。ボンボン。スケコマシ野郎。薬中。英雄。・・・・」
日活映画全盛時代の、例えば「赤木圭一郎」が登場する映画より、遥かにに危なかっしい、その生きざまは、単に不良という熟語では片付けられない。
「レイテの生き残り」と言えば逞しい海軍軍人ではあるものの、その精神はかなり貧弱。
そうしたタイトロープを渡り切ったかに見えたその人生は、あっけない顛末を迎えております。
題名は「風雲児」としております。
「個人が組織を凌駕した時代」ではなかったか。これは「不当逮捕」著者本田氏が最後に結んだ言葉です。
結局、組織から切り捨てられた立松。
これをどう見ていくのか。
当時と現代では単純比較はできませんが、高度に発達したと見える現代の組織形態(企業も政府も・・)ですが、果たしてそうであるべきなのか。
こうした見方も出来うるのではないか。
そんな事を今考えております。
長い「くだまき」ではありました。
何時もの言葉ですが御高覧、誠に感謝する所存でございます。

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4 コメント

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眠りにつくあの専制君主の目を盗み今がチャンスだぜ (ある友人)
2013-01-12 15:41:05
長々とご苦労さんでした。最後はちょっと急ぎましたかね(笑)実は飽きたんでしょ(大笑)

事件そのものの背景や結論については少々異論もあります(政治背景や地検内の抗争はもちろんですが、いわゆる新しい権利について認識が薄かった時代でもありました)が、立松氏個人に興味があるとの事なので、そこには触れません。
立松氏個人についての私見ですが、現在の日本で失われてしまった人々の中に、ダンディズムをまとった人というのがいると思います。戦後の代表は白洲次郎氏、戦前ならバロン西氏などですね。日本流のダンディズムは一見すると鷹揚で、西欧風に洗練されながらも、根幹にあるのは武士道のようなどこかに狂気をはらんだ尊厳を抱えている事だったと思います。そういう人たちはまさに和魂洋才の歴史が生みだした人たちだった。立松氏はそんな人たちの気配を感じさせるところがありますね。個人的にはちょっと小粒だと思いますが(笑)

「個人が組織を凌駕した時代」という論には正直なところ疑問を抱きます。長くなるので詳しく論拠は述べませんが、社会的動物である人間が社会そのものである組織を凌駕するなどあり得るのでしょうか。絶対君主すら王権神授に依存する組織形態です。ヒトラーによる全体主義もそもそもは民主的なワイマール憲法下で市民によって選択されたもので、ヒトラー個人が国家という組織を凌駕したわけではありません。
ただし組織の意味を広義で「システム」と言い換えるのならば、酔漢さんの抱く懸念に共感できます。現在のシステムはどれも極めてタイトに運用され、たとえば企業の莫大な内部留保にしても人材育成にしても、利己的というより排他的でさえあります。予測できない誤りを避けるために、リスクヘッジの名目で未来への投資を避け、立松氏のような逸脱者は切り捨てている。しかし多くの歴史が証明している通り、そういう逸脱者がイノベーションを起こしたりするんですよね。
そうなってしまった根幹には、どこか清潔過ぎる「正解しか許さない社会」あるいは「失敗を許容しない社会」が背景にあるように思います。運が悪かったと思える事さえ「過失」として責任を追求され、無知だと思える事さえ丁寧過ぎる注意書きを付けないと伝えていない方が悪いとされてしまう。それじゃあ萎縮して、皆が臆病になる。そして自分が依存したいシステムにだけ従って生きるようになる。

何か最後は話がずれてしまいましたね。すみません。いやはや。
返信する
こんにちは (見張り員)
2013-01-14 13:59:02
・・・言葉が無いです、一連のお話を読んできましたが、組織の怖さとか何とかを感じます。

房子さんの行動には、「もし自分もその立場なら同じことするだろうな」と思いました。
何とかしたい、の一念だったのでしょう。

それにしても立松氏の最後は衝撃でした。
それでも彼は彼らしく生きたのでしょう・・・

要領えない言葉の羅列になりましたがご容赦。

もう一度最初から記事を読んで自分なりに解釈したいと思います。
返信する
ある友人君へ (酔漢です)
2013-01-15 09:05:54
痛いとこ突くなぁぁ(笑)
この理由は先だって電話でお話しいたしまた通りです!

>どこか清潔過ぎる「正解しか許さない社会」あるいは「失敗を許容しない社会」が背景にあるように思います。運が悪かったと思える事さえ「過失」として責任を追求され、無知だと思える事さえ丁寧過ぎる注意書きを付けないと伝えていない方が悪いとされてしまう。それじゃあ萎縮して、皆が臆病になる。そして自分が依存したいシステムにだけ従って生きるようになる。<

システムはなるほど的を得ておりますね。まさしくその通りだと思います。

「バロン西」。硫黄島での指揮ぶりは、多くの方が知っておりますが、彼の生きざまは、案外知られておりませんね。魅力あふれる人と思っております。
返信する
見張り員さんへ (酔漢です)
2013-01-15 09:17:09
立松和博氏の記事を探すのも、苦労しました。
県の図書館のマイクロフィルムを見ながら探しました。
読売新聞年鑑にも、この件の記事は削除されていて、「読売があれほど長く、時には執拗に岸本を糾弾していた」そんな事は、忘れ去られているかのようです。
魅力はありますよね。
愛宕の生還者です。
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