酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ほそ道の先には・・鹽竈

2014-11-27 11:00:39 | もっとくだまきな話
芭蕉の5月8日の足跡を振り帰っております。
先だって、「末の松山」をご紹介いたしましたが、「多賀城碑」へ立ち寄ったのは、一度塩竈へ入ってから再び多賀城へ戻った。こうした史実なのです。
芭蕉は、塩竈から、その後、松島へと舟で向かいます。
「おくのほそ道」で、最も、感動的で高揚した芭蕉がそこにはあります。
故郷です。
その故郷は、枢機な運命に翻弄されるかのような歴史をたどっているように感じます。
時代と共に、その役割と姿を変えていき(それはどの地域、自治体でも同じなのでしょうが)、門前街であり、景勝地であった当地は少なくなっているようにも感じます。
「鹽竈様」は、塩竈のシンボルでもありますが、その変わらぬ姿を見るにつけ、回りの風景の変わりように、目が行ってしまう酔漢でございます。

芭蕉の見た、「しほがま」はどうったのでしょうか。
今の風景を合わせて想像してみます。
何時ものことなのですが、「ひーさんの散歩道」より拝借いたしました写真も使わせていただきました。
本当にご提供、感謝致します。御礼申し上げます。

冒頭の古地図です。
塩竈を知った方なら、あらかた想像つくように、大きな部分は変わって降りません。
「一森山 鹽竈様」の位置であるとか、「御釜社」であるところは変わっておりませんので、「あああのあたり」だと分かります。
古地図を振り返りながらとなりますが、芭蕉の見た、塩竈を想像してみましょう。

地図の下、「マガキ嶋」とあります。
現存する、「千賀浦」=「塩竈湾」内、唯一の島として残っております。
芭蕉は船上からこの島を眺めます。



古今集詠み人知らずにこのような歌がございます。
わが背子を都に遣りてしほがまの籬の島のまつぞこいしき
子の帰りを待つ、親の心情が込められております。

千賀浦、塩竈が埋め立てられる以前、その様子は、都でも景勝地として知られ、その塩竈を模した庭が作られたとも言われております。
古地図、右側に「法蓮寺」と大きく記されておりますが、現存しているのは、その一部にあった「勝画楼」だけです。




酔漢も、その場所を何度も、訪ねております。
日本で最初の西洋灯台を建設されるはずだった場所でもありました。今でも土台が残されております。
写真の崖の上にバルコニーにように突き出た部分がありますが、今で言う展望台です。
そこから眺める塩竈は「画にも勝る風景であった」こうして名づけられております。
そこから見える風景の写真。おそらく現存している唯一のものだと思います。
「ひーさんの散歩道」からです。



これは、絵葉書なのだそうですが、その勝画楼の柱二本目と三本目の間から見える島は「籬島」と推察出来ます。
これが、その絵だとしたら、勝画楼は、今の田律庵から見える風景とそん色ないような気が致します。
(田律庵の牡蠣フライ・・・食べてぇなやぁ・・・独り言)
この建物を見るにつけ、「保存はできないものだろうか」こう思ってしまいます。
昭和9年、イタリア公使がここで摂待を受けております。

この史実はもう少し知られていてもよいのではないか。こう思ってしまいます。

詳細は、下記をご参照くださいませ。
ひーさんの散歩道「勝画楼」
酔漢のくだまき「久しぶりに・・・塩竈雑景」

古地図に「千力ノ浦」とあって、「町や」と各区に分かれております。その一番右下の部分にあるのがこの場所です。

丁度、その真中の道路は、これは酔漢が中学までありましたが、川が流れていて、ここから湾へと繋がる河口の部分なのです。
佐浦酒造の蔵とその間に石柱がありあますが「大河岸橋」とあります。
新河岸川(その少し上、江尻へ向かうと、「祓川」となるのですが、名前の違い、由来は、酔漢も詳しくはございません。
旧、本塩釜駅と塩竈消防署へ直ぐにに橋でした。
懐かしい風景です。
「写真は丹六」という老舗の目の前で撮影しました。

「志ほがま」は銘菓。落雁に似た菓子でございます。
横断歩道が見えますが、左へ進みます。




芭蕉はここから船に乗ります。(ひーさんの散歩道より)
古い塩竈でも、ここはまだ海(千賀浦)ではありません。
古地図ですと、「町や」と「町や」の間は川でして、色違いの横に塗りつぶされた部分が橋になります。
一番下の橋が「大河岸橋」です。そのたもとから船をだしたのでした。

曽良の日記にはこう記されております。

八日 朝之内小雨ス。巳ノ尅 より晴ル。仙台ヲ立 。十符菅・壷碑ヲ見ル。未ノ尅、塩竈ニ着、湯漬など喰。末ノ松山・興井・野田玉川・おも ハくの橋・浮嶋等ヲ見廻リ帰 。出初ニ塩竃ノかまを見ル。宿、治兵へ。法蓮寺門前、加衛門状添。銭湯有ニ入。
九日 快晴。辰ノ尅、塩竈明神ヲ拝。帰 而出船 。千賀ノ浦・籬嶋・都嶋等所々見テ、午ノ尅松島ニ着船。

八日の箇所は、もうかなりご紹介しているところですが、その最後の方の部分「塩竈ノかまを見ル」とあります。
これは「御釜社」のことです。



本日は、鹽竈様はじめ、御釜社などの由来は、割愛致します。
御釜社は、修復が終了いたしております。
ひーさんから頂いた写真です。
古地図にも「御釜」と知るされておりますね。
この地図の「町や」と「町や」の間も川になっていて、この部分が「祓川」と呼ばれておりました。



これは、酔漢が撮影したものですが、右側のガードレールの下にまだ川が流れております。
この左側と右側が、一番左側の「町や」であり左から二番目の「町や」になるわけです。
この界隈は、今でも少し怪しく、塩竈の昔を偲ばせる雰囲気があります。



「水神」とかいてある碑があるのですが、その由来は記されておりません。
ここから先に参りますと。



「祓川」の案内が記されております(これらの案内はここ数年にわたり整備、新しく作られたものです)

そして、この先には、「祓社」(はらいの社)という本当に小さな祠があり、そこは市民でも知られていない場所だったりいたします。
下記、是非ご参照ください

ひーさんの散歩道「祓戸社/塩竈市(鹽竈神社関連)」

表参道への鳥居が、地図に記されておりますが、その先が「江尻」となっていて、河口の先と言えますね。
表参道へは、やはり船で降りるのが近道だったと、伺われます。



表参道を上から下へ見てみました。丁度、道路の部分が川なわけですね。

そして、芭蕉と曽良は「法蓮寺前」に宿を取っておりますので、



今、この案内のあるあたりだったのでしょうか。

五月雨の空聊はれて、夕月夜幽に、籬が嶋もほど近し。蜑の小舟こぎつれて、肴わかつ声々に、つなでかなしもとよみけん心もしられて、いとゞ哀也。其夜、目盲法師の琵琶をならして奥上るり
と云ものをかたる。
平家にもあらず、舞にもあら ず。ひなびたる調子うち上て、枕ちかうかしまし けれど、さすがに辺土の遺風忘れざるものから、 殊勝に覚らる。


故郷の芭蕉を語ります。















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