立て続けに数多くの爆弾、魚雷が命中したときをさかいに、大和の左への傾斜は目に見えて、大きくなっていった。
「艦橋。だいぶ傾いているが、大丈夫か」
発令所の分隊士の声が、私の目の前の伝声管をとおしてとび上がってきた。
私は、このとき、なんと答えたらよいのか、まよってしまった。
「大丈夫、大丈夫と答えよ」
私のすぐ後方に腰かけて、望遠鏡をにらんでいた村田大尉(村田元輝大尉。大和方位盤射手)が叫んでいる。
私は、すかさず、
「大丈夫です」
と大声をはりあげる。しかし、このとき、大和の傾斜は三五度にもたっしていたのであった。
その直後であろうか。下部司令塔ちかくにいるはずの副長より悲痛な声が艦長へ報告された
「傾斜復旧の見込みなし」
(小林健 大和水長 第九分隊一班→前檣楼トップ方位盤発令所 証言 手記より抜粋)
このときの敵の攻撃は、すでに一五度ほど傾いた大和の艦橋をねらって、爆弾を投下してきたようであった。
艦のそのほかの部分にもやたらと命中し、爆煙は天をことごとく舞い上がり、至近弾はたてつづけに海底より茶褐色になった海水を甲板上に滝のようにおとしてゆく。
もはや組織的な命令系統のもとで戦闘継続するのさえ困難になってきた。
(中略)すでに彼らにとっては、訓練の標的を攻撃するより楽であったろう。
手足をもぎとられたダルマのごとくである。
(小林昌信 大和上水 高角砲発令所長 証言 手記より抜粋)
大和の傾斜は収まらず、その傾きは時間を経過するごとに増して来ます。
「傾斜復旧の見込みなし」
この報告が後の運命を決めてまいります。
むしろ伊藤整一司令長官はこの報告を待っていたのかもしれません。
機械室他注水したことで稼働している推進器は一つ。速力は八ノット。この時点からの計算では沖縄まで26時間を要します。
傾きは高所にあるほど増して来ます。艦橋ではもはや通常に立つことが難し状況でした。
森下参謀長。足元にはたばこの吸い殻がへばりついているのを見ました。
「こんなに吸ったのか」ふと昨日(否遠い昔の事のように思えるのですが)の事を思い出しのです。
「草鹿中将は・・大和に何かあったら・・司令長官が判断する。このときか・・」
しかし、この大和では引き返すことが困難であることは誰の目からしても明らかなのです。
「自分が今艦長であったなら」
森下参謀長はレイテでの「奇跡の無傷」を思い出すのです。が、司令部として「大和の操艦の一切は艦長に一任。無用な口を挟むな」という伊藤司令長官の強い達しがあることで、一切有賀艦長へは口を出さなかったのでした。
「これでいいのだ」
森下参謀長は自らを納得させているのです。
「たばこ・・・」
びしょ濡れのポケットには、煙草は入っておりませんでした。
その時、ドッカーンと物凄い衝撃。艦尾に魚雷が命中します。電気がすべて止まります。
その衝撃で第一艦橋にいたものが一瞬折り重なるように倒れます。
左舷後部の機銃伝令から「今砲塔の上で指揮官が切腹されます」という。
それを高射長に伝えてから「ほんまかいな」と半信半疑で杉谷(杉谷鹿夫 大和水長→前檣楼防空指揮所対空監視員)と二人で、すきを見て席をはずし、下をのぞいたが、後部主砲の上で左舷を向き、どっかり座り込んでいる人がいた。のぞいたときは、ちょうど切腹したように前かがみの姿勢になっていた。杉谷と二人で、やはり切腹なんてこともあるんだなあと話合ったが、その人の名は知らず、たしか剣道五段とかの士官だったと覚えている。こちらは戦闘中だから、あまり悲壮感はなかった。いろんな死が眼前にあったのです。
(川瀬寅雄 水長 証言手記→読売新聞社「昭和史の天皇」角川文庫337頁より抜粋)
映画「男たちの大和」にも描かれているシーンです。映画では軍刀を甲板に突き立て、自らその刀に倒れ掛かるように自決する士官がおられます。
誰だったのか、酔漢気になるところでございました。
「大和艦上で自決した士官の話を聞いたことがあるか」
と父に昨年聞きました。
「聞いたことはある。徳之島での慰霊祭(昭和52年徳之島三十三回忌)で聞いた」
と言い、記録を確かめる父。
「この人だと思う」と差し出された名簿。
「和田健三少尉」と書かれておりました。
「この人が?」
「どうも、剣道の達人だったらしくて、一兵卒。親父と一緒だっちゃ」
和田少尉とご遺族の事は「岩波新書『戦艦大和 生還者たちの証言から』」に詳しく掲載されております。
一兵卒。叩き上げ。御遺影を拝見いたしますと、武道の達人とは思えぬほど温厚なお顔立ちでいらっしゃいます。
後部機銃指揮官として敵と対峙。
壮絶なほどの責任感です。
この時点でどれだけ多くの人命が失われているのか。
推察することは出来ません。どの部署も壮絶極まりない様相であったことは想像できますが、弾丸の飛んでくる音さえ聞いたことのない酔漢にとりまして想像することは出来ません。
原勝洋氏が著されまました「真相・戦艦大和ノ最期」を拝読いたしますれば、「軍艦大和戦闘詳報」による記述と違っております。そしてこの件は原氏の分析結果が正確ではないかと信ずるところです。
「大和は意図的に左舷を集中攻撃された」というのが歴史の通説になっておりますが、最後の攻撃は逆に右舷を集中攻撃されております。
大和は左舷に30度近く傾斜しております。右舷はどうでしょうか。喫水線が上昇し、所謂「赤腹」が見えております。これはいくら大和といえど、防禦の薄い箇所があからさまに見えているということです。この右舷への雷撃が大和に引導を渡した、最後の雷撃となります。原氏によりますと「大和に最後の一撃を加えたのはヨークタウン所属の第九雷撃中隊である」としております。その九機のうち六機が攻撃いたします。
ステットソン大尉はイントレビット隊からの無線を聞きます。
「もはやデカイ奴は一本二本のマークで十分だぜ」
彼は「デカイ奴」にとどめを刺すことを決意いたします。
わずかに残った駆逐艦の砲撃が相変わらず激しい中、かれは雷撃態勢に入ります。
「あのクルーザーは、例の『あぶない奴』だ。(→冬月。彼らは駆逐艦である月型をクルーザーと呼んでおります。偵察段階では駆逐艦でした。ブリーフィングでも。しかし、パイロットたちにはクルーザーだったようです)奴の真上さえ通らなければ、デカイ奴にとどめを刺せるんだ。」
アベンチャーの後部搭乗員に司令を出します。
「今、調整官からデカイ奴の攻撃許可が出た。マークの深度を深くするんだ!」
最初の「マーク13K」の深度は3m。これは「こうるさいクルーザー」を仕留める為の深度でした。が、攻撃目標が「デカイ奴」であればその深度を6mに調整する必要があります。(しかしながら、攻撃戦闘中に魚雷の諸元入力が可能な性能だったのです)
高度1400mから雨雲を貫いて雷撃態勢に入りました。
「まずい、この距離からだとマークが失速してしまう。もう一度奴に近づくんだ」
彼は、小隊6機に再び上昇を下令いたします。デカイ奴の左舷後方から回り込み、右舷艦首方向へ位置を取ります。距離2290mに近づきました。
「よし、今だ!奴の右舷艦首方向へ・・・いけぇぇ!」
4機一斉の魚雷投下。残りの二機は一機が右舷艦首に命中。最後の一機が左舷艦尾に命中。
これが、最後の被雷となりました。
「おい奴の足はまだ止まってないのかよ!なんてぇ奴だ」
かれは、それでも、デカイ奴が「沈むのは時間の問題だ」と信じるのでした。
累計、九本目(副長データ。米海軍公式記録と違っておりますが、ここは手記そのまま掲載いたします)の魚雷被害のため、後部上甲板下の無電室もやられる、通信長山口博少佐以下、通信科員の大半戦死、艦隊旗艦「大和」の通信機能なくなる。ただ一人の二世として、乗艦の特暗科員中谷少尉も通信室決壊の寸前まで、敵暗号の傍受、解読の作業を落ち着いて行っていた、レシーバーをつけたまま戦死。
(中略)残存速力七ノット。十四時十五分表示版警鳴器に赤ランプがつく。どの弾庫、火薬庫かと思って目をやると、第一砲塔はじめあちこちの弾庫、火薬庫の赤ランプが「ついている、いよいよ誘爆か。
主砲はまだ三式弾を三発発射したのみ。(←この記述が違っていることは先にお話しいたしました。この戦闘で主砲は六射。実際はこれ以上と推察されますが)あと千百六十七発が残っている。副砲もほとんど撃っていない、これらが誘爆すると、不沈戦艦「大和」といえども、ひとたまりもない。(中略)有賀艦長「弾庫、火薬庫に水がはいらんか」と、つぶれたノドがはりさけるかのごとく、怒声をあげる。しかし、注排水指揮所は命中魚雷で破壊され、各弾火薬庫側との連絡もとっさにはとれ難い。
爆発はいつか。「大和」もついに自らの砲弾で轟沈するか。
それも良し。
武士の切腹にも似ているではないか。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
第一艦橋への扉が開きます。電話が通じなくなった(いくつかの証言では、副長は電話にてその事を伝えたとされておりますし、副長手記でも電話での意見具申とされております。しかし、石田恒夫少佐らの証言によりますと「副長は艦橋へ上がって来てそれを話した」とお話されておられました。それに基づきます)ので、防御指揮室からラッタルを駆け上がって来た能村副長です。傾いた艦橋で足を踏ん張り報告です。
「もう、どうにもなりません。艦復元の見込みはありません」
そして艦長のいる上防空指揮所へ更にラッタルを上がっていくのでした。
防空指揮所。有賀艦長は鉄兜を被っておりません。鉄兜は飛ばされたのか、指揮所内にもありませんでした。羅針儀につかまったまま濡れたたばこに火をつけているのでした。
敵のいる海を見ているのでした。しかし、その形相は鬼神のごとくでした。
副長はその艦長の顔を見て、すぐさま報告しなくてはならない言葉を飲み込むのでした。
「艦橋。だいぶ傾いているが、大丈夫か」
発令所の分隊士の声が、私の目の前の伝声管をとおしてとび上がってきた。
私は、このとき、なんと答えたらよいのか、まよってしまった。
「大丈夫、大丈夫と答えよ」
私のすぐ後方に腰かけて、望遠鏡をにらんでいた村田大尉(村田元輝大尉。大和方位盤射手)が叫んでいる。
私は、すかさず、
「大丈夫です」
と大声をはりあげる。しかし、このとき、大和の傾斜は三五度にもたっしていたのであった。
その直後であろうか。下部司令塔ちかくにいるはずの副長より悲痛な声が艦長へ報告された
「傾斜復旧の見込みなし」
(小林健 大和水長 第九分隊一班→前檣楼トップ方位盤発令所 証言 手記より抜粋)
このときの敵の攻撃は、すでに一五度ほど傾いた大和の艦橋をねらって、爆弾を投下してきたようであった。
艦のそのほかの部分にもやたらと命中し、爆煙は天をことごとく舞い上がり、至近弾はたてつづけに海底より茶褐色になった海水を甲板上に滝のようにおとしてゆく。
もはや組織的な命令系統のもとで戦闘継続するのさえ困難になってきた。
(中略)すでに彼らにとっては、訓練の標的を攻撃するより楽であったろう。
手足をもぎとられたダルマのごとくである。
(小林昌信 大和上水 高角砲発令所長 証言 手記より抜粋)
大和の傾斜は収まらず、その傾きは時間を経過するごとに増して来ます。
「傾斜復旧の見込みなし」
この報告が後の運命を決めてまいります。
むしろ伊藤整一司令長官はこの報告を待っていたのかもしれません。
機械室他注水したことで稼働している推進器は一つ。速力は八ノット。この時点からの計算では沖縄まで26時間を要します。
傾きは高所にあるほど増して来ます。艦橋ではもはや通常に立つことが難し状況でした。
森下参謀長。足元にはたばこの吸い殻がへばりついているのを見ました。
「こんなに吸ったのか」ふと昨日(否遠い昔の事のように思えるのですが)の事を思い出しのです。
「草鹿中将は・・大和に何かあったら・・司令長官が判断する。このときか・・」
しかし、この大和では引き返すことが困難であることは誰の目からしても明らかなのです。
「自分が今艦長であったなら」
森下参謀長はレイテでの「奇跡の無傷」を思い出すのです。が、司令部として「大和の操艦の一切は艦長に一任。無用な口を挟むな」という伊藤司令長官の強い達しがあることで、一切有賀艦長へは口を出さなかったのでした。
「これでいいのだ」
森下参謀長は自らを納得させているのです。
「たばこ・・・」
びしょ濡れのポケットには、煙草は入っておりませんでした。
その時、ドッカーンと物凄い衝撃。艦尾に魚雷が命中します。電気がすべて止まります。
その衝撃で第一艦橋にいたものが一瞬折り重なるように倒れます。
左舷後部の機銃伝令から「今砲塔の上で指揮官が切腹されます」という。
それを高射長に伝えてから「ほんまかいな」と半信半疑で杉谷(杉谷鹿夫 大和水長→前檣楼防空指揮所対空監視員)と二人で、すきを見て席をはずし、下をのぞいたが、後部主砲の上で左舷を向き、どっかり座り込んでいる人がいた。のぞいたときは、ちょうど切腹したように前かがみの姿勢になっていた。杉谷と二人で、やはり切腹なんてこともあるんだなあと話合ったが、その人の名は知らず、たしか剣道五段とかの士官だったと覚えている。こちらは戦闘中だから、あまり悲壮感はなかった。いろんな死が眼前にあったのです。
(川瀬寅雄 水長 証言手記→読売新聞社「昭和史の天皇」角川文庫337頁より抜粋)
映画「男たちの大和」にも描かれているシーンです。映画では軍刀を甲板に突き立て、自らその刀に倒れ掛かるように自決する士官がおられます。
誰だったのか、酔漢気になるところでございました。
「大和艦上で自決した士官の話を聞いたことがあるか」
と父に昨年聞きました。
「聞いたことはある。徳之島での慰霊祭(昭和52年徳之島三十三回忌)で聞いた」
と言い、記録を確かめる父。
「この人だと思う」と差し出された名簿。
「和田健三少尉」と書かれておりました。
「この人が?」
「どうも、剣道の達人だったらしくて、一兵卒。親父と一緒だっちゃ」
和田少尉とご遺族の事は「岩波新書『戦艦大和 生還者たちの証言から』」に詳しく掲載されております。
一兵卒。叩き上げ。御遺影を拝見いたしますと、武道の達人とは思えぬほど温厚なお顔立ちでいらっしゃいます。
後部機銃指揮官として敵と対峙。
壮絶なほどの責任感です。
この時点でどれだけ多くの人命が失われているのか。
推察することは出来ません。どの部署も壮絶極まりない様相であったことは想像できますが、弾丸の飛んでくる音さえ聞いたことのない酔漢にとりまして想像することは出来ません。
原勝洋氏が著されまました「真相・戦艦大和ノ最期」を拝読いたしますれば、「軍艦大和戦闘詳報」による記述と違っております。そしてこの件は原氏の分析結果が正確ではないかと信ずるところです。
「大和は意図的に左舷を集中攻撃された」というのが歴史の通説になっておりますが、最後の攻撃は逆に右舷を集中攻撃されております。
大和は左舷に30度近く傾斜しております。右舷はどうでしょうか。喫水線が上昇し、所謂「赤腹」が見えております。これはいくら大和といえど、防禦の薄い箇所があからさまに見えているということです。この右舷への雷撃が大和に引導を渡した、最後の雷撃となります。原氏によりますと「大和に最後の一撃を加えたのはヨークタウン所属の第九雷撃中隊である」としております。その九機のうち六機が攻撃いたします。
ステットソン大尉はイントレビット隊からの無線を聞きます。
「もはやデカイ奴は一本二本のマークで十分だぜ」
彼は「デカイ奴」にとどめを刺すことを決意いたします。
わずかに残った駆逐艦の砲撃が相変わらず激しい中、かれは雷撃態勢に入ります。
「あのクルーザーは、例の『あぶない奴』だ。(→冬月。彼らは駆逐艦である月型をクルーザーと呼んでおります。偵察段階では駆逐艦でした。ブリーフィングでも。しかし、パイロットたちにはクルーザーだったようです)奴の真上さえ通らなければ、デカイ奴にとどめを刺せるんだ。」
アベンチャーの後部搭乗員に司令を出します。
「今、調整官からデカイ奴の攻撃許可が出た。マークの深度を深くするんだ!」
最初の「マーク13K」の深度は3m。これは「こうるさいクルーザー」を仕留める為の深度でした。が、攻撃目標が「デカイ奴」であればその深度を6mに調整する必要があります。(しかしながら、攻撃戦闘中に魚雷の諸元入力が可能な性能だったのです)
高度1400mから雨雲を貫いて雷撃態勢に入りました。
「まずい、この距離からだとマークが失速してしまう。もう一度奴に近づくんだ」
彼は、小隊6機に再び上昇を下令いたします。デカイ奴の左舷後方から回り込み、右舷艦首方向へ位置を取ります。距離2290mに近づきました。
「よし、今だ!奴の右舷艦首方向へ・・・いけぇぇ!」
4機一斉の魚雷投下。残りの二機は一機が右舷艦首に命中。最後の一機が左舷艦尾に命中。
これが、最後の被雷となりました。
「おい奴の足はまだ止まってないのかよ!なんてぇ奴だ」
かれは、それでも、デカイ奴が「沈むのは時間の問題だ」と信じるのでした。
累計、九本目(副長データ。米海軍公式記録と違っておりますが、ここは手記そのまま掲載いたします)の魚雷被害のため、後部上甲板下の無電室もやられる、通信長山口博少佐以下、通信科員の大半戦死、艦隊旗艦「大和」の通信機能なくなる。ただ一人の二世として、乗艦の特暗科員中谷少尉も通信室決壊の寸前まで、敵暗号の傍受、解読の作業を落ち着いて行っていた、レシーバーをつけたまま戦死。
(中略)残存速力七ノット。十四時十五分表示版警鳴器に赤ランプがつく。どの弾庫、火薬庫かと思って目をやると、第一砲塔はじめあちこちの弾庫、火薬庫の赤ランプが「ついている、いよいよ誘爆か。
主砲はまだ三式弾を三発発射したのみ。(←この記述が違っていることは先にお話しいたしました。この戦闘で主砲は六射。実際はこれ以上と推察されますが)あと千百六十七発が残っている。副砲もほとんど撃っていない、これらが誘爆すると、不沈戦艦「大和」といえども、ひとたまりもない。(中略)有賀艦長「弾庫、火薬庫に水がはいらんか」と、つぶれたノドがはりさけるかのごとく、怒声をあげる。しかし、注排水指揮所は命中魚雷で破壊され、各弾火薬庫側との連絡もとっさにはとれ難い。
爆発はいつか。「大和」もついに自らの砲弾で轟沈するか。
それも良し。
武士の切腹にも似ているではないか。
(能村次郎 大和副長 手記より抜粋)
第一艦橋への扉が開きます。電話が通じなくなった(いくつかの証言では、副長は電話にてその事を伝えたとされておりますし、副長手記でも電話での意見具申とされております。しかし、石田恒夫少佐らの証言によりますと「副長は艦橋へ上がって来てそれを話した」とお話されておられました。それに基づきます)ので、防御指揮室からラッタルを駆け上がって来た能村副長です。傾いた艦橋で足を踏ん張り報告です。
「もう、どうにもなりません。艦復元の見込みはありません」
そして艦長のいる上防空指揮所へ更にラッタルを上がっていくのでした。
防空指揮所。有賀艦長は鉄兜を被っておりません。鉄兜は飛ばされたのか、指揮所内にもありませんでした。羅針儀につかまったまま濡れたたばこに火をつけているのでした。
敵のいる海を見ているのでした。しかし、その形相は鬼神のごとくでした。
副長はその艦長の顔を見て、すぐさま報告しなくてはならない言葉を飲み込むのでした。
吉田満氏の『提督伊藤整一の生涯』を読んで、さらに、「大和ミュージアム」で、本人自筆の手紙等を見て、のうのうと不満ばかり言って暮らしている自分が恥ずかしくなります。
当時の軍人がすべて潔い人たちばかりだったとは思いませんが、逆に、現在の日本を代表する人たちにどのくらい高潔な人格を持った人がいるのかと心配になります。人のこと言えませんが。
天一号作戦時の年齢で言えば、
有賀さんが今の私よりも一つ若く、
森下さんが一つ年かさ、
古村さんが同い年でした。
あの時代に生きていたら、彼らのような責任感をもって事に当れたでしょうか。
正直言って自信はありません。
せめて裏表を作らず、
誰にも恥じることのない生き方をしたいと念ずるばかりです。
天一号作戦の説明に来た連合艦隊参謀長の草鹿さんに伊藤さんは尋ねます。
「作戦成功の見込みなしという状況になったときはどうすればよいのか」。
草鹿さんの答えはこうでした。
「その際の判断は第二艦隊司令部に任せる」。
伊藤さんが草鹿さんの言質を取った形ですね。
大和が傾斜復旧の見込みなしという状況になった時、
朝霜は「我敵機と交戦中」の連絡を最後に消息を絶っていました。
矢矧と浜風は沈没し、磯風と霞は航行不能。
残るは涼月、初霜、冬月、雪風のみ・・・
作戦成功の見込みが極めて低いことを知っていた伊藤さんは、
正に作戦中止を指令するタイミングを計っていたのではないでしょうか。
その伊藤さんが艦(「フネ」と読んで下さい)と運命を共にしたのは、
連合艦隊命令に反して作戦を中止した責任を取るためだったと思います。
「作戦成功が不可能に近いと分っていたら、なぜ命令を拒否しなかったのか・・・」
このような議論が聞えてくることもあるかもしれません。
しかし連合艦隊の命令を拒否すれば、伊藤さんは第二艦隊司令長官を解任されたでしょう。
そして新たに任命された長官の下で作戦は決行されていたと思います。
そして伊藤さんは抗命罪で軍法会議にかけられていたでしょう。
軽くても予備役編入。悪くゆけば銃殺刑。
軍法会議にかけられる前に自決を強要されていたかもしれません。
話は飛びますが、井上成美さんは阿川弘之さんに次のように言っています(趣旨)。
「そこが軍籍にある者のつらいところだ。
負けると分っている戦場に教え子を戦場に送り出す際も、軍籍にある以上は
しっかり戦ってこいとしか言えない」。
日本の敗戦を予測して軍事学よりも普通学の科目を重視した
海兵校長時代のことについての質問への回答です。
犠牲が出ることは止められない。
だとすればせめて、できるだけ多くの部下を救いたい。
だとすれば大和の傾斜復旧が絶望的になったのが、ぎりぎりのタイミングだったのだと考える次第です。
自身より6歳も若い年齢に言葉を失いました。
どれほどの責任感と戦ったのでしょう。
自分の甘さを痛感します。
改めて、最度掲載し直します。その予定です。
また剣道が強くて奈良県から当時表彰されたとも聞いております。
私自身も凄く気になっており、やっと此方の文面にたどり着きました、ネットで岩波書店の本を取り寄せております!
因みに、私自身は1960年生まれで有ります。
私の母親も祖母も奈良県東吉野村出身であり祖母は和田トラノと言います。
本当に此方を読んで驚きと背景と戦争と言う物を改めてやってはいけない事だと感じました。
有り難うございました。