酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 大和を知った日

2011-01-31 11:44:58 | 大和を語る
戦後1945年9月29日新聞紙上で公開された大和の沖縄突入では,総特攻のさきがけとしてではなく,「沖縄救援の途上」「米機の巨(大爆)弾」を受けて「海上砲台の猛威を果たさず」撃沈された,としている。「沖縄へ最期の逆襲」をする無謀な敵泊地,上陸地点への突入は失敗し,「この世の終わりかと」悲惨な末路を記事にしている。  「戦艦大和」が広く国民の目にさらされ、その存在が明らかとなったのは新聞記事からでご . . . 本文を読む
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祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 七ヶ浜村へ公報

2011-01-29 11:16:32 | 大和を語る
「空襲警報がなったかなんねぇがったか。そいずは忘れた。んでも、確かにカーチスが浜(七ヶ浜)さ来たのは覚えてっぺ。すごい低空で飛んできてや、機銃ばぶっ放して、すぐまたけぇって行った。誰、パイロットの顔見えたんだおん。たまげたなや。正直、零戦よりかっこえがった(笑)」 父との会話です。これが町史と残されているのか定かではございません。ですが、貴重な証言だと考えました。カーチスは艦載機ではなかったと記 . . . 本文を読む
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オレたちひょうきん族と丹治さんと酔漢

2011-01-21 10:27:31 | ああ宮城県な話
大学受験の際に上京しました。宿泊場所は「代々木」。かつて、「東京オリンピック」のとき、選手村として使われていた建物は、老朽化がひどく、「なんだや、おらほの校舎とあんましかわらねぇべさ」(仙台向山高校あの木造校舎です)と言った感じでした。 夕食は自分で取らなくてはなりませんが、大きな食堂にはテレビがあって、大勢での(受験生だべ)テレビ鑑賞となります。 土曜日です。ある人物がテレビのチャンネルを替えに . . . 本文を読む
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祖父・海軍そして大和 遺族として、家族として 

2011-01-14 08:54:43 | 大和を語る
「大和を語る」本日より再び再開いたします。 これまで「大和を生みし者達」として大和建造の過程とそこに生きた人間を「西島亮二」の視点を中心に語りました。 そして戦闘の様子、状況などは「奮戦スレド徒死スルナカレ」として語ってまいりました。 今回は三章目。私ども家族のこと、そして「ご生還された方が戦後どのように大和とかかわってきたか」を中心に語ります。 本来、酔漢が語らなけらばならない。その本題とも言う . . . 本文を読む
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真冬、思い出す・・事!妙な経験。

2011-01-11 10:51:02 | ああ宮城県な話
寒中お見舞い申し上げます 以前ご紹介いたしました「仙台公園」です。もっとも名づけ親は家内でして、欅の木と仙台萩が隣り合わせて植えられていることからこの名を勝手につけました。 その公園(酔漢自宅の真下)の正面入り口にございますのが「蘇秦蠟梅」です。 その蠟梅は花壇の中央に植えられております。そして看板が一つ。 「蘇秦蠟梅の広場」と。  水は生ず  菜をと . . . 本文を読む
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箱根の応援も20年目でした

2011-01-04 09:38:35 | もっとくだまきな話
昨日、早稲田大学の総合優勝で幕を閉じました「第八十六回東京箱根間大学駅伝競走」です。我が家は丁度、遊行寺の近くにございますので、(徒歩3分)年始の休みには沿道で応援しております。 今年は20回目を数えました。 シティラピッド君を肩車して、その次は年下君。いまでは、そうはいかず、早めの場所取りです。 テレビを見てまして、二区の後半の頃に家を出ます。 戸塚中継所で、一位の走者が襷を渡された頃では少し遅 . . . 本文を読む
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