酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

祖父・海軍そして大和 奮戦スレド徒死スルナカレ 朝霜

2010-05-16 11:41:00 | 大和を語る
「坊ノ岬沖海戦」はどうしても、大和が中心に描かれる場合が多いのです。これは致し方ないことなのですが、第二水雷戦隊各艦の事、そして乗艦されておられました方々をもう少し歴史の表面に出てきてもよかろうかと思います。酔漢は、原為一さん(矢矧艦長)、古村啓蔵さん(ニ水戦司令官)、寺内正道さん(雪風艦長)前川万衛さん(浜風艦長)他、ニ水戦の御生還された方々とお会いする機会に恵まれました。皆さん、それぞれ矍鑠とした「おじいちゃん」達でした。(昭和52年、靖国神社慰霊祭で)

(5月20日更新捕捉です。寺内正道さんを秋月艦長としておりました。雪風艦長の誤りでございました。ここに訂正お詫び申し上げます。この記事の末に昭和52年四月十日におこなわれました「第二艦隊海上特攻戦没者合同慰霊祭第八回の委員をなされたかたのお名前を掲載いたしました。ご参考下さい)

ですが「朝霜」だけは御生還された方がお一人もおられません。
この駆逐艦がどのような最期をとげたのか、ここで語りたいと思いました。

映画「男たちの大和」あるシーンです。俳優「春田純一」さんが、演じておられました「小滝久雄」第二十一駆逐隊司令の発言です。このシーンを原為一矢矧艦長の手記から見てみます。
話の流れによりますが、朝霜杉原艦長発言から語ります。

連合艦隊のかくの如き作戦計画に対して、わが水雷戦隊の司令、駆逐艦艦長等が、誰一人同意しなかったことはもちろんである。
寡黙冷静な朝霜駆逐艦長杉原中佐は、色をなして言った。
「生死はもとより問題ではないが、絶対戦果を期待し得ないような自殺作戦には大反対だ。駆逐艦一隻といえども、今は貴重な存在だ。国家は誰が守るのか。国民は誰が保護するのか。無為に沈んで堪るものか!」
と。ユーモア的で明朗、(中略)豪傑肌の二十一駆逐隊司令小滝大佐も声震わせて、
「連合艦隊司令部は、いったい何処にいるのだ。日吉台の防空壕の中で、一時的に事務を執るのは已むを得ないが、沖縄作戦、レーテ作戦の如き国家の興亡を賭する大決戦を何と思っているのか。
当然陣頭に立って指揮すべきだ。
東郷元帥を見ろ!ネルソンを見ろ!敗戦の後、部下の過失や責任を云々しても、取り返しがつかないのだ。穴から出てきて、肉声で号令せよ」
(原為一 矢矧艦長 手記より抜粋)

上記の抜粋は二度目になります。この小滝司令の発言は、伊藤整一2F司令長官にいたしましても「よくぞ本音を」と思ったに違いないのでした。
第二十一駆逐隊司令になってまだ二週間目の事なのでした。小滝司令の就任は昭和二十年三月二十六日です。小滝久雄中佐は司令としてこの「朝霜」へ乗艦しております。艦長は上記にご紹介いたしました「杉原与四郎」中佐でございます。
朝霜の竣工は昭和十八年十一月二十七日ですが、杉原少佐(当時)が艦長に就任しましたのが昭和十九年一月二十七日です。ですから朝霜はその生涯の殆どを「杉原与四郎艦長」だったのでした。
「杉原艦長」=「朝霜」と言ってもいいくらいの名物艦長だったわけです。

「南号作戦で一体どれだけの輸送船が内地までたどり着けなかったのか」
杉原艦長は自身を責めておりました。「南号作戦」とは一代輸送作戦のはずでした。が、やはりアメリカ第58機動部隊の攻撃にあい、輸送船の殆どを失っておりました。今や輸送船の数も限られてきております。しかし、本土では金属、燃料など枯渇寸前でした。
連合艦隊から命令が出ました。
「北号作戦」と名づけられたこの作戦は成功の見込みもないある意味「特攻的輸送」だったのです。(5月17日捕捉。「特攻」という定義につきまして、この表現がはたしてそれにあてはまるか。この場の表現として使用しましたが、酔漢が今後語ります「特攻」とは違っております。はたして「それでいいのか」自問自答しておるところです。昨日は気付きませんでした。ご容赦下さい)
「伊勢」「日向」「大淀」は母艦としての機能を有しており(伊勢、日向は航空戦艦。大淀は軽巡洋艦)ガソリンタンクが大きいのでした。このタンクを満載にして、輸送艦として使用しようとする作戦です。実際には甲板の上をむき出しのドラム缶で一杯にしております。
第四航空戦隊「日向」が旗艦でした。司令長官は「松田千秋」少将。そして「伊勢」の艦長が「小滝久雄」大佐だったのです。杉原朝霜艦長と小滝伊勢艦長とが初めて出合った作戦でした。
戦艦日向内。作戦会議。
「敵潜水艦、航空機多数の海域を突破するのが、本作戦である。この部隊に私はある名前をつけたのだが。これでどうだろうか」
全員、固唾をのんで見守っております。
「『完』部隊。どうだろう。完遂するの完。そういう意味である」
「『完』ですか。これで『完了』であってもらいたいものですな」小滝伊勢艦長らしい遠慮のない発言です。これを聞いて杉原朝霜艦長も思わず笑いを堪えていたのでした。
「本当はそういう意味もある・・・」松田司令長官が思わず本音を漏らしました。
「作戦としては、非常に難しい。敵潜は一体どれだけいるのか不明。最短距離で内地へむかうとなると、中国大陸からの米陸軍機の攻撃圏内を通過することになる。南号作戦の失敗はこの沿岸部を通過することで、かえって敵潜にやられた。今回は真っ直ぐ最短距離で通過していきたい」
昭和二十年一月九日にシンガポールにて物資の搭載を終えます。
「朝霜の倉庫がいっぱいです。これ以上積み込むと航行に支障が出ます」
朝霜はその倉庫に錫など金属を満載にしています。
「あちらの戦艦はガソリンが満載だな・・」
「そうですね。どれかに一発あたれば、たちまち部隊が誘爆するかもしれない」
積み込み作業を手伝っております。朝霜乗組員と伊勢乗組員の会話です。
翌日一月十日。シンガポールから内地へ向います。
十二日先頭を行く「初霜」から「テキセンハッケン」の無電が各艦へ送られます。しかし、この接触後、敵潜からの攻撃はありませんでした。翌十二日には「マーチン」と接触。
アメリカ側は「攻撃艦が内地へ向けて航行する」という事実を把握しているものの、その目的まではわかりかねております。それはそうです。「戦艦の中身が全て物資と燃料」なんてアメリカには想像着かないでしょうね。
哨戒にあたっていたのはアメリカVPBー21哨戒飛行艇部隊です。所謂「ダンボ部隊?」です。毎日、上空を哨戒しております。
十三日。朝霜の電探が敵編隊を捉えます。
「敵、編隊。数百余」
はたして、上空にはB24。B25。それとP51の大編隊が目視されました。
全員が戦闘を覚悟したその時、スコールが発生しました。雲に覆われ、視界から大編隊は消えます。しかし、朝霜の電探は敵を監視。長いスコールの後、敵は去って行きます。
「天は我等に味方した」小滝艦長の言葉です。
そして、昼過ぎ。
「雷跡2本」見張からの報告。「霞」からです。発見が早く、日向の取り舵が間に合います。一本は魚雷の射程が短く、途中で消えました。
十四日。再びB24。B25の編隊に遭遇しますが、これまたスコール。
米軍の空襲はこれから先はなくなります。この時間、米第58機動部隊は、沖縄南東海域にありましたが、最長後続距離を誇るB25であっても、攻撃圏外にあったのでした。
空襲の危機が去ったものの潜水艦の脅威は続きます。が、「初霜」「朝霜」「霞」の活躍により、雷撃を悉くかわします。
そして、昭和二十年一月十九日。一隻も欠けることもなく作戦は完遂するのでした。
「甲板にむき出しのドラム缶の中身がガソリン。機関銃一発でも戦艦がふっとっぶ。この恐怖は想像するだけで恐ろしくなります」(酒匂雄三 初霜艦長 証言)
この作戦、知られるところが少ないのですが、奇跡の成功と言えると考えます。「アッツ、キスカ撤退作戦」に匹敵するとも考えます。
ですが。
航空揮発油ドラム缶5000個、航空機揮発油タンク内100トン、普通揮発油ドラム缶330個、ゴム520トン、錫820トン、タングステン50トン、水銀30トン、輸送人員約500名。大淀は、輸送人員159名、ゴム50トン、錫120トン、亜鉛40トン、タングステン20トン、水銀20トン、航空揮発油ドラム缶86個、航空機揮発油タンク内70トン。
この量。貨物船一隻分でしかありません。GFは作戦成功に狂喜乱舞した?とも伝えられておりますが、何とも末期を思う酔漢でございます。

それから二ヵ月後。伊勢艦長小滝久雄中佐。朝霜艦長杉原与四郎少佐。この二人がコンビを組むことになるのでした。

「機関の状態が心配であるが」杉原艦長は佐多機関長と話しを始めます。
「巡航タービンの減速の調子がどうも。これはでも朝霜の癖ですから」
「癖なのか。一旦調子を落としているが」
三月二十三日。呉第四船渠に入渠することが出来ました。
「これで、ようやく朝霜を休ますことができる」艦長は安堵するのでした。
三月二十六日には小滝久雄前伊勢艦長が第二一駆逐隊司令として着任いたしました。
「杉原艦長。よろしく頼む」
「小滝司令。あの時は肝冷やしました」
「ガソリンタンクが枕元にあると思うと、寝られなかった」
二十一駆逐隊の艦長三名を前にして、豪傑と言われた小滝司令の本音に笑いが出たのでした。
「朝霜と初霜は、しばらく修理にかかるのだね」
「はい、ようやく修理できる体制になりました」
佐多機関長も安堵の表情を浮かべております。この時点で二十一駆逐隊の作戦は下令されていなかったのでした。
呉第四船渠は戦艦仕様です。その大きさから艦体の損傷にある「冬月」「初霜」「朝霜」の三艦同時の入渠となりました。呉工廠でもこの時期、修理備品の不足などから、まずは船体損傷の大きい艦からの修理となります。最初に「冬月」そして「初霜」。順番として「朝霜」の機関修理というようになります。
「朝霜は現時点でも戦闘航行に支障はないのだから」というのは杉原艦長でした。そして「当面、朝霜の出番はないのだから」とも。しかも、ニ水戦古村司令官へ、こう意見具申しております。
「矢矧電探の件、早急に解決されたし」
第二水雷戦隊旗艦「矢矧」電探の交換は急務としこれを「ニ水戦最重要優先事項」と提言しております。小滝司令も同意した内容でした。他各司令も同意見でした。
ところが、沖縄突入の下令が下り(重複するのでこの編では割愛いたします)駆逐艦6隻から8隻の増員が2Fから打診されたGFはこれを承諾いたします。
修理中の「初霜」「朝霜」もそれに加わるよう下令されました。
「朝霜」は、修理半ばで再び戦場へと向います。
「杉原艦長は、押しが弱い為に、他の艦への修理を優先するように承知した為、朝霜の修理が後後になった」と語る方もおられます。しかし酔漢の意見は違います。杉原艦長、「決して押しが弱い」のではないのです。愛する自身の艦です。その機関の状況は既に把握済みですし、小滝司令にも報告しているのです。「朝霜の修理不完全」は、部品調達の遅れ、急激な作戦下令による突発的出撃によるところが大きいと考えます。決して(再度ですが)杉原艦長の性格によるところではないのです。
三月二十九日1YBは三田尻沖へ回航。四十一駆逐隊の一角「響」が機雷に接触し航行不能になります。古村司令官は「朝霜」へ曳航するように命じます。
この間にも杉原艦長は再度機関補修の依頼をしております。しかし、呉が空襲にあい、また米軍の沖縄上陸が時間の問題となっていることなどから拒否されます。
徳山の燃料は「朝霜」以下が命を懸けて運搬した燃料だったのでした。(上記「北号作戦」記載)
「小滝司令。着任早々お願いがあります」
「杉原中佐。どうした」
「私を朝霜に残してください。天号作戦はこの朝霜と一緒に出撃させて下さい」
三月末の人事異動です。杉原艦長は「朝霜」からの移動が決まっておりました。
しかし、この人事は承諾されます。杉原艦長はそのまま「朝霜」に残ります。
「杉原中佐のようなベテランがやはり今回の作戦には必要であった」
古村司令官の発言です。
1YBとして出撃。先頭矢矧の左翼。対潜陣形には重要なポジションをまかされております。
四月七日午前七時。
「朝霜巡航タービン崁脱装置装置操作不良の為焼きつき、速力一八ノットに低下す。修理に五時間を要するとのこと。分離単独追従することとなれり」
(藤井治美 初霜砲術長 手記より抜粋)
米制空圏内において駆逐艦一隻が取り残されるのはどういうことか、その運命は半分以上決しているのでした。
が、しかし、この「朝霜」一艦で獅子奮迅。その最期を知る者が一人もいないのですが、アメリカ側の記録と一枚の写真から推察するにあたり、この艦の運命はまさしく「奮戦スレド徒死スルナカレ」を具現化するような戦闘をしているのです。

「みにくいアヒルが一匹群れから離れているぜ。報告の通りだが。本当に故障か」
ベニントンのコンラッド中佐はレーダーピケット艦として「朝霜」を確認します。上空を旋廻しているアメリカ艦載機には報告にあるような「機関故障」とは思えないのでした。
「結構早く航行している」誰の目にも明らかなように「朝霜」は航海しているのです。
(修理完了との報告はニ水戦、そして2Fにも公式にはございません。ですが、ラッセルスパー氏は「修理完了。高速追尾と報告済みであった」としております)
「先頭のクルーザーは逃げているのか?」
矢矧が先頭をつっぱっしています。
「奴等の対空砲を黙らせるんだ」コンラッドは命令します。そして「砲の長い奴二隻には注意しろよ」(「秋月」「涼月」のことでしょう)
次に、サンジャシントの飛行隊14機に対して
「おいレーダーピケットの奴一隻はお前等でやれ」
サンジャシントのヘルダイバーが「朝霜」に攻撃をしかけます。
一ニ一○「ワレテキトコウセンチュウ」
そして
一ニニ一「九○ドホウコウニテツキ三○キヲタンチス」
これが「朝霜」最後の電文となります。
結果、「朝霜」は十七駆逐司令新谷大佐が発した電文により「アサシモフメイ」と報告されます。
小滝司令、杉原艦長を含め三百二十六名全員戦死とされます。
誰一人の生還者もいない状況です。
「朝霜」奮戦中の写真がアメリカより側史料より公開されております。もっともこれが「朝霜」とはアメリカは把握していないのですが、はっきりと三基砲塔が写されており間違いなく「朝霜」です。おびただしい重油を流し、あたかも血の海であえいでいるかのようです。しかし、砲等は全て空を向き、最期まで交戦の意欲を失っていないことが写真からも解ります。
原勝洋氏によれば、三波の攻撃を「朝霜」は堪え、四波目の攻撃により命中弾を三発喰らいそれが爆発したと推察されるとしております。三番砲等付近からの爆発そして沈没といった光景は「大和」と同じ状況ではなかったかと考えます。
ここでつけ加えます。
朝霜攻撃隊を本篇では「サンジャシント隊」としておりますが、これは「ラッセル・スパー氏」によるものです。原氏は「バンカーヒル隊」「ホーネット隊」によるものとしております。また、原氏は「サンジャシント隊」は「浜風」攻撃としております。
酔漢は、どちらとも判断が出来ません。ラッセル・スパー氏の検証をそのまま記事といたしました。お断りいたします。

「朝霜」の沈没状況です。阿部三郎氏著「特攻大和艦隊」からです。
掃海任務から佐世保帰投中の海防艦「屋代」(御蔵型海防艦)が、「大和」と遭遇。信号のやり取りをしております。空襲の直前です。(2F側に具体的記録がございません)その乗組員の一人が「機関停止中の駆逐艦とすれ違った」と証言しております。(本人の階級等不明)この証言によりますと「七日一三○○頃、航行不能中、甲板には乗員が多数おり機銃掃射後の薬莢を片付けており、また本艦の曳航の申し出を信号で断りを出した」と言うものです。これが事実だとしたら、「朝霜」は第四波の後、尚海上にあり、戦闘可能だったということが言えます。が、この乗組員一名のみの証言であり、他「屋代」乗員は記憶がなく、不確実な情報と言えます(大和とのすれ違いについては間違いないかと考えております)
「朝霜」もその運命を見ますればなんとも言いようがない運命を辿っております。

昭和52年、靖国神社で行われました慰霊祭に戻ります。
酔漢、父に尋ねました。
「『朝霜』だけ、『代表者 小滝国男』さん、となってっちゃ」
「んだ、去年も徳之島ではこの人だったっちゃ。生存者がいねぇのっしゃ。小滝司令の息子さんだときいたんだけんどっしゃ」
「もうひとつあんど」
「何っしゃ」
「その小滝司令の息子さん(小滝国男さん)なんだけんど、奥さんが杉原艦長の娘さん(杉原艦長のご長女道子さん)だとや」
「御結婚されたのすか?こんな運命もあったのすか?まんず不思議なもんなんだなや。んで司令と艦長と親戚でねえすか」
15歳の酔漢ですが、印象に残るお話でした。

手元に小滝国男さんのお写真がございます。靖国での集合写真。中学三年の酔漢も写っております。小滝さんのお顔を拝見し、小滝司令と何処となく似ていると、今思いました。
「小滝司令、杉原艦長。生還しておられましたら、どんな話をしたのか」聞きたかった。
これは、本当にそう思う。酔漢でした。

映画の中での大和は数多くのシーンを持っております。「朝霜」の事は単に「機関の故障で脱落した」としか描かれていないことに気づきます。しかし、その顛末は壮絶なものであり、決して歴史の中で埋もれさせてはいけない史実であろうかと思いました。
くだまき最長を更新しました。ご拝読感謝いたします。

参考 昭和五十二年四月十日 第二艦隊海上特攻戦没者合同慰霊祭(第八回)
   場所 東京都千代田区九段坂上 靖国神社
   時間 午前9時三十分
第二艦隊合同慰霊祭
   委員長 古村啓蔵(元ニ水戦司令官)
  副委員長 坂下隆一(元ニ水戦参謀)
   仝   土肥一夫(元大和・司令部)
   仝   清水芳人(元大和副砲長)
   仝   原 為一(元矢矧艦長)
   仝   鈴木貞夫(元磯風機関長)
   仝   前川万衛(元浜風艦長)
   仝   寺内正道(元雪風艦長)
   仝   小滝国男(朝霜会世話人)
   仝   酒匂雄三(元初霜艦長)
   仝   三浦 節(元霞砲術長)
   仝   山名寛雄(元冬月艦長)
   仝   倉橋友二郎(元涼月砲術長)
   他委員一同

注)順は、手元にございます「案内書」のまま掲載いたしました。

本篇に於きまして、艦長の名を間違えました事、甚だ恥ずかしく思いました。
訂正いたしました。申し訳ございません。
ご容赦くださいませ。
(5月20日 午後八時四十四分 酔漢)  

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朝霜のこと (丹治)
2010-05-16 17:45:44
酔漢さんの仰るとおり、朝霜については
「出撃後、機関故障にて落伍。
交戦中、敵機を探知の連絡を最後に消息を絶つ。
生存者なし」
と五十歩百歩の記述で済まされている例が殆どですね。

生存艦である涼月、初霜、冬月、雪風はそれぞれの話が語られることも多いですが、
大和を除く沈没艦や自沈艦の話はあまり語られません。

原勝洋さんの『真相・戦艦大和の最後』(KKベストセラーズ)には、
沈没直前の朝霜の写真が出ていますね。
これを見ると、三基の十二センチ連装砲塔が
角度の差こそあれすべて左舷を向いています。
最後の最後まで独立射撃ではなく
統一射撃をしていた証拠でしょう。

福井静夫さんの『日本駆逐艦物語』(光人社)は、
巻末に太平洋戦争時の駆逐艦の改装状況を示す図を載せています。
この図によれば二番主砲塔を下して機銃を増設しているのは、
陽炎型以前のものばかりですね。
『日本駆逐艦史』(海人社)オルモック湾で被弾した島風の写真でも、
主砲は連装三基のままです。
福井さんの著書によれば、同じ12.7センチでも陽炎型までの主砲の仰角は55度でした。
それに対して夕雲型の主砲は、仰角75度になっています。
恐らくは島風もそうだったのでしょう。
対空射撃に向いた主砲は下さなかったということでしょう。
秋月型も機銃を増設してはいますが、
連装10センチの主砲は四基のままです。

阿部三郎さんの『特攻大和艦隊』(光人社NF文庫)は小生も読みました。
小滝さんの息子さんと杉原さんの娘さんの結婚の話が出ています。

吉田俊雄さんの『戦艦大和・その生と死』(PHP文庫)では、
「朝霜の士官たちがのんびりしているから(押しが弱いから)、工廠での修理が自然と後回しにされた」
という話が紹介されています。
但し注意しなくてはならないのは、これが
大和艦橋にいた艦隊司令部付の下士官が交した噂話だということです。
吉田さんは大和生存者の話を基にして本書を書いていますが、
噂話をした下士官が朝霜の状況をどれだけ正確に把握していたかは疑問です。
飽くまでも「そのような噂もあった」というレベルで理解すべきでしょう。

阿部さんの本は、大和以外の各艦のことも
それぞれ一章を割いて紹介しています。
出撃直前に異動で朝霜を下りた芦田大尉は、
「ひとのいい朝霜の士官たち」説を明確に否定していますね。
芦田大尉によれば、
杉原さんは士官たちには大変厳しく少しのミスも許さぬ艦長だったそうです。
その一方で部下をねぎらうことも忘れず、
下士官兵には厳しい言葉をかけることは決してなかったとか。
また他の人たちの証言も
「辛いこと、嫌なことはなかった」というものです。

上下の和が保たれて職務に精励する朝霜乗員に手抜き整備はあり得ない。
機関故障による落伍は不幸な事故であった。
以上が阿部さんの結論です。

阿部さんの著書に出てくる証言者は、
杉原艦長の指揮する朝霜に勤務した人ばかりです。
「艦隊司令部付の下士官の噂」よりは、堂考えても説得力があります。

朝霜落伍の原因は、やはり
阿部さんや酔漢さんの説が妥当な線ではないかと思う次第です。
返信する
Unknown (クロンシュタット)
2010-05-17 05:30:07
制海権制空権なき海域で落伍し取り残された状況での奮戦。想像を絶します。
けれどもお子様同士のご結婚に救われた想いです。

父親が緊急入院したため帰省して来ました。
故郷の香りや風を感じることもなく、病棟の窓に映る街並みばかり眺めてきました。



返信する
丹治様へ (酔漢です)
2010-05-17 18:59:26
「灯台元暗し」でした。小滝司令奥様の手記が手元にございました。これに早く気付けばよかったのでした。小滝国男さん道子夫妻。考えますれば、酔漢は三十数年前に知っておった事実だったのでした。
「朝霜」は、本当に「奮戦」したのですね、最後の最期まで。この艦は、歴史の中で語られるべき「艦」であるとつくづく思いました。
「初霜」でも語りましたが、復原性を重視した「藤本喜久雄」の遺産のような艦だったと思うのです。機関の不具合は事故であれまったくおしい出来事でした。
返信する
クロンシュタット様へ (酔漢です )
2010-05-17 19:07:06
「病院の窓から見える故郷の風景」酔漢はほぼ八時間その窓を眺めながら過ごしました。
お気持お察しいたします。
お父様の御容態は如何でしょうか。

十五才の酔漢ですから「こんな事もあるんだな」くらいの思いでした。しかし、その歴史を紐解きますれば、これは稀有な事だと考えざるを得ませんでした。
当時、小滝司令の奥様もご健在でいらして、そのお手紙を拝読した経験がございます。
「朝霜」「代表小滝国男」参加者名簿をみて、(元・・・・艦長)でないことに気付いたのでした。ニ水戦の方々はその度「小滝さんは」「杉原さんは」とお話されておいででした。
酔漢に取りまして「幻のおじいちゃん」(自身の祖父も含めて)だったのでした。
返信する
続・朝霜のこと (丹治)
2010-05-20 10:15:55
吉田満・原勝彦著『ドキュメント戦艦大和』(文春文庫)に、
朝霜攻撃から沈没に至る84爆撃機中隊の行動と
朝霜の被弾箇所を示した図が載っています。
この図によれば命中した爆弾は四発。
一番水雷砲台と二番水雷砲台、艦尾、それに艦橋右舷です(艦橋右舷は至近弾か)。

駆逐艦は舷側の暑さが1センチもなく(機銃弾が貫通し、米海軍ではブリキ缶と呼ばれていたそうです)、
直撃弾一発でも致命傷になります。
四発のうち二発が魚雷発射管に命中。
これは致命傷だったと思います。

クロンシュタットさん

お父様のその後はいかがですか。
小生、父を早くに亡くしております。
それだけに今回のような話を聞くと、胸が痛みます。
お父様の御無事を祈っております。
東京と塩竈では帰省もままなりませんね。
気がかりなこととは思いますが、
御無理をなさいませぬよう。
くれぐれも御自愛下さい。
返信する
やっと (ひー)
2010-05-20 20:41:23
毎日この記事を開いて携帯から読んでましたが、なかなか進まず今回も4日もかかりました。
コメントするほど詳しくないので、出来ませんが
2時間や4時間かけても映画だけでは、表現できない沢山の事実がありますね。
一人一人のドラマがあるとすれば、膨大なドキュメントが出来ることでしょう。
返信する
朝霜攻撃隊は・・ (酔漢です )
2010-05-20 20:51:45
本篇でも語りましたが、原勝洋氏は「バンカーヒル・ホーネット」ラッセル・スパー氏は「サンジャシント」としております。コメントにありました84爆撃隊は「バンカーヒル」でした。(昼間のメール間違いでした)ですが、どちらがどう攻撃したのか、はっきりとした記述がアメリカ側にないそうです。
ですが、原勝洋氏は相当綿密な分析をされておられますので、それが「歴史の定説」になるのでしょうね。
返信する
ひー様へ (酔漢です)
2010-05-20 20:56:34
長い「くだまき」となってしまいました。
ご拝読いただきましてありがとうございました。
今コメントを書いておりますが、本篇中で「艦長名」を間違えておりまして、訂正し、また文末に捕捉を書き足しました。

この「朝霜」のことだけでも相当なストーリーがありました。海軍の所属の艦には全て「重いい歴史がある」と痛感いたしました。
返信する
オイラもようやく読了・・・! (ぐずら)
2010-05-20 23:33:38
そこにどんなに複雑な状況があっても、どれほど過酷な現実があっても、
伝える者が無ければ何も無かったのと同じ・・・
それにしても、皆が国を憂い、部下を思い遣っていたのに、全体としては破滅に向かって行った・・・
歴史に「もし」は禁物だけど・・・無常を感じてしまいますね。

PS.クロさんへ
その後お父さまの具合はいかがでしょうか?
我々の年代になると、親世代の健康ばかりか自身の身体も思うように行きませんね。
でも、自分の健康こそが家族の安心です。お互い頑張りましょう!

PS2.酔漢さん伝言板代わりにしてすまんです。 m_ _m
返信する
お気遣いありがとうございます (クロンシュタット)
2010-05-21 05:24:56
酔漢さん伝言板としてしまうことをお許しください。
皆様へ。ご心配お気遣いにぐっと来てしまいました。
父は再び心臓の具合が悪化した上に肺炎を併発してしまい一時は厳しい状態となりました。
抗生物質が効かず熱がなかなか下がりませんでしたが、おかげさまでなんとか回復しつつあります。

再開発が続く仙台駅前は状況が状況だけに「見知らぬ街」に思えてしまい寂しかったです。
返信する

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