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東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

浄土の話(7) 浄土はあるのか

2011-07-22 00:06:14 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 最初はちょっと鬱陶しい話。とばしてくださっても結構です。
 近代人にとって、言説(記述的言説・理論)の正当性・真実性は、根拠によって示されます。
 ある主張が正しいか否かは、「客観的な根拠があるか、そこから論理的に導かれているか」によって決まると考えています。
 まあ、実際のところは、いちいちそんなに厳密に考えているわけではありません。そして、厳密に考えると、「客観的な根拠」はほとんど自然科学にしか存在しません。社会科学の「客観的証拠」というのは、かなりあやしいものです。だから、「客観的な証拠」にこだわる近代人は、「自然科学しか信じられない」ということになります(他の理由もありますが)。ま、実際はこんな単純な話ではないですけれども。
 しかし、「客観的な証拠」に基づかない言説ももちろんあります。その中の大きな概念に「思想」というものがあります。思想というものは、価値判断や当為(なすべきこと)を含みますが、その正当性・真実性は、必ずしも「客観的な根拠」に基づかない場合があります。ある種の概念や主題を提出し、それによって、うまく世界が説明できたり、魅力的な価値が提示されたりすれば、それは「思想」として支持されます。フロイトのリビドー理論やユングの「元型・集合的無意識」説は、客観的な証拠は不十分ですが、多くの人に支持されています(フロイトはちょっと危ないかw)。共産主義の基礎になるヘーゲル・マルクスの史的発展論も証拠はありませんが、以前は熱狂的な支持を得、まあとんでもないことが……。
 要するに、ある程度の妥当性が感じられる、共感できるというところがあればいいわけです。
 つまり、事実の言表と、思想の言表は異なるということです(まあ、しばしば混同されますが)。

 もう一つ、これと重なることですが、近代の「知」と近代以前の「知」は基本的にありようが異なります。
 近代の「知」は、「客観的な根拠」を要求します。それが提出不能でも、無意識説のように、一定の情況証拠を伴う必要があります。
 ところが近代以前の「知」はそうではありません。いろいろな形態がありますが、重要なことの一つに、「どんな権威が言ったか」ということがあります。お釈迦さんという、無茶苦茶修行をした人、あるいは多くの人が帰依した人が言ったから。キリストという「死後の姿を何人かに見せた存在」が言ったから。昔から「聖なる本」とされてきたことに書いてあるから。
 まあ、これは仕方がないことだし、ある程度の妥当性を持っていることでしょう。支持者の数と歴史によって、「知」の価値が決まる。それは大間違いしないという点ではいいことかもしれません。
 (ところで、こういった「近代以前的な知の価値判断基準というのは、実は現代もけっこう生きていますね。権威が言ったから、マスメディアが言っているから、正しい。ただ、少なからぬ人々は、もはや単に権威が言ったからと言って、無検証で信じたりはしません。というか、最近は、首相や政府機関の言うことなど、誰も信じないw。マスメディアに至っては、でたらめもいいところだ、と。)

 なんでこんなことを言っているかというと、宗教の多くの人(特にその宗教で生まれ育った人)は、どうもこういうことがわかっていないような気がするわけです。
 ①宗教の基本は、「事実の言表」であって、思想ではない。
 ②近代において、「権威が言ったから」は言表の妥当性を保証しない。

 浄土信仰に関して言えば、
 ①浄土教の核心は、浄土、法蔵菩薩と阿弥陀如来、その慈悲を「実在」と主張するものであった。
 ②偉い祖師たちが提唱したからといって、真実性は保証されない。(価値がないと言っているのではありません。)

      *      *      *

 浄土は“実在”するのでしょうか。
 法蔵菩薩は実在し、その方が阿弥陀如来になられたことは、“事実”でしょうか。
 こういう「あからさまな」問いは、あんまり発する人はいないのかもしれません。「なんと無粋な」「まあ、恥ずかしい」と眉をひそめる人もいるかもしれません(笑い)。
 しかし、近代の「知」は、当然その問いを発します。

 日本では明治になって、西洋の「合理主義」や「科学的実証主義=唯物論」が流入し、猛威を振るいました。江戸期までの様々な宗教的思惟や行動の多くは、「迷信」の烙印を押され、抹殺されました。
 仏教も神道も(それほど厳密に区分されてはいなかった場面もありますが)、この大津波をもろにかぶりました。明治政府は“淫祠邪教”を取り締まるために、主な仏教教団に「お前んところはどんなことを主張しているんだ」と質問状を出し、思想検査をしました。迷信的に思われることはアウト、ということで、各教団は苦労したようです。
 で、近代仏教が腐心したのが、教義を「思想として」読み換えるということでした。
 法華経で言えば、地面から塔がにょきにょきと現われて如来が登場したり、龍の少女が男になって成仏したり、といった言説は、事実の言表ではありません。それは人間の誰もが仏になれるということを神話的に語っているのです、と。
 そして浄土三部経で言えば、浄土への信仰は、浄土が実在かどうかは問題ではありません、内面の信仰の問題です、となった。
 つまり「事実の言表」だったものを、「思想」に転換しようとしたわけです。
 (禅宗はもともと「思想」に近いものだったので、あまり苦労はなかったのでしょう。)

 で、結局近代浄土教の知識人たちは、「浄土の実在」を積極的に説かなくなった。「客観的な根拠」という近代知に適合しないからです。代わって、信仰の喜び・安心や、布教や同信者連帯の喜びを、強調する。「妙好人」という純朴な信仰に生きる人の姿を賞揚して、「生き方」の教えを示す。思想ですから、何も問題はないでしょう、と。……どうも、フカヒレを取ってサメ本体を捨てるようなイメージ(どんな連想だw)。卵を礼賛して鶏を無視するような、牛乳を珍重して牛を蹴るような(もうやめなさいw)。
 しかし、本当に正直に言って、浄土の実在を説かない浄土教徒なんて……
 (魂の実在を信じない僧侶が葬式をするのもまあ同じでしょうかね。あれはほんとに詐欺です。ちなみに浄土真宗の一派を自任する人たちが「浄土真宗の葬送儀礼」などを得々と書いて、「中有」なんて言いながら、「塩の浄めは迷信だ」などと言っているのを見ると、私は個人的にかなり激怒してしまいますw。あれ、鴨川の魚うんぬんというのは誰の言葉だ?)

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 阿弥陀浄土はあるのか。
 阿弥陀仏の慈悲に祈れば、楽土に生まれ、もう穢土に生まれ変わることなく、そこで修行し、仏になることができる。(そして、仏と成って再び迷える衆生を救うために、地上に生まれ変わる。)
 (ただし、浄土真宗では「真土・化土」といった複層的な浄土説があるようですが、難しいのでここで首は突っ込みません)
 この説を、スピリチュアリズムの霊学とぶつけてみると(無謀でしょうか)、どうなるでしょうか。

 スピリチュアリズムでは、魂はその成長進化の度合いに応じた霊界へ赴くと主張します。厳密に法則化はできないのですが、大方の魂は、「自分の欲求が満たされるような幻想の国(常夏の国)」へ行くようです(ごく一部の悪に染まった魂は、いささか地獄に似たような世界へ行くようです)。常夏の国は地上に比べて遙かに美しい世界で、ある意味では浄土ですが、地上の延長の夢が続く「幻想」の世界、低次の霊界です。そして、さらなる成長進化を求めて、そこから再び地上に生まれ変わる魂も多くいます。まあ一種の仮の浄土みたいなものでしょうか。
 何度か(諸説あり)生まれ変わって成長を遂げ、もう地上で学ぶことがなくなった魂は、より高次の霊界に行きます。そしてそこで新たな「成長の課題」に取り組み、時にはそこから地上の魂を導いたり、また時には霊的指導者となるべく地上に生まれ変わったりもします。そして、そこでも「学びを終えた」魂は、さらに高次の霊界へと進みます。この階梯は何層もあり(諸説あり)、その果てに(ただし永遠に近い道程の先に)、この大宇宙を超えた「彼岸」へと渡る(それは人間の知性では理解も表現もできない境域)と想定されています。
 一方、浄土教の阿弥陀浄土は、「阿弥陀仏を十念すれば」、この世に生まれ変わることがなくなると説きます。この「十念」が難しいところですが、良忍・法然以降は「称名を唱えるだけ」だとされました。そして、その「楽土」で修行して、もう穢土に戻ることなく、誰もが仏になることができるとされます。
 人間にとっては、浄土教の往生・成仏説は、実に嬉しい、ありがたいものです。仮に毎日百回にしろ、阿弥陀仏の姿を念じ、御名を唱えれば、エリートコースが待っているわけです。
 こんな素晴らしい約束はない。私だって、「どっちも真実だからどっちを取ってもいいよ」と言われたら、つい浄土教の説を採りたくなります。毎日百回でも念仏を唱えます。それが人間の情というものでしょう。

 しかし、「神は人間の欲望に適合しない」(バタイユ)と同じく、「霊界は人間の欲望通りにはならない」ようです。スピリチュアリズムの霊界説は、たくさんの情報があるということにおいてもそうですが、人間の欲望に適合していないという点でも、真実に近いと思います。
 念仏を何回唱えようが、さらに言えばどれほど外面的な善行を積もうが、魂が未熟であれば、「生まれ変わる必要のない」高次霊界に行くことはできません。「地上は学びにふさわしい場所であり、そこで学ぶ必要がなくなるほど成長するまでは、生まれ変わる」。それは高級霊に命令されるわけではなく、自ら選ぶのですが、要するに、生きている間、「私はもう地上で学ぶことがなくなった」と思っても、そうは問屋が卸しませんよ、ということです。地上の私の意識や知性や判断は不完全なので、「もう卒業」と言うことはできないのです。
 シルバー・バーチの言葉を引きましょう。
 《自分が果たしてどの程度の人間か、どの程度進化しているかを自分で判断することは、今のあなた方には無理なことです。判断を下す手段を持ち合わせないからです。》(近藤千雄訳『シルバー・バーチの霊訓』①、110頁)
 《あなた方は自分が成就しつつあることを測定することが出来ません。地上には魂の成長と霊的成就の結果を測定する装置もありません。》(同⑨、97頁)
 これは正直言って、なかなかつらい。厭世的な傾向を持っているスピリチュアリストにとって、「まだまだだよ」と言われる可能性が高いと思うと、いささかへこむでしょう。そうでなくても、自分が成長しているのか否か迷うことは多い、何か基準があったらなあと思うところです。

 また、高級霊へと進むための高次な界は、「楽ばっかり」の世界ではありません。そこには、地上世界のような物質的苦しみはありません。衣食住を心配する苦悩はありません。それは充分「楽」ですけれども、そこにはそれなりの「課題」が待っています。地上に生きているような未熟な魂では、おいそれと対応できるようなものではない、高次の課題が。魂は高次霊界で、歌を歌ったりお祈りをしたりしているのではないのです(そういうことがしたいのなら一番下の「幻想界」でそれをたっぷりやれます。ただしそのうち飽きて再生を選ばなければなりません)。
 スピリチュアリズムの古典、インペレーターの言葉を引きます。
 《そなたたちを待ちうけているのは永遠の無活動の天国などという児戯に類する夢幻の如き世界ではなく、より価値ある存在を目差し、絶え間なく向上進化を求める活動の世界である。その行為・活動の結果を支配するのは絶対不変の因果律である。善なる行為は魂を向上させ、悪なる行為は逆に堕落させ、進歩を遅らせる。真の幸福とは向上進化の中、すなわち一歩一歩と神に近づく過程の中にこそ見出される。》(モーゼス/近藤千雄訳『霊訓』第10節)
 幼稚園を早く卒業したいと思っても、小学校、そして中学校へと進むと、もっと難しい勉強が待っている。それと同じです。

 こうやってみると、スピリチュアリズムが明らかにした「霊魂の旅路」は、なかなかにしんどいものがあります(笑い)。楽はできないのです。
 だから、もし弥陀の誓願が真実なら、どれほどいいでしょう。楽などはいただかなくてもいいのですが、「心底、我執を滅して仏という偉大な存在になりたいと願うのなら、しかるべき高次霊界へ行き、そこで成長の道を歩むようにしてあげよう。その代わり、仏になったら、再びこの苦しい地上に戻って、たくさんの人を助けなければいかんよ」ということが、本当に真実ならば、それを選ぶ人は多いのではないでしょうか。
 そういう意味で浄土や成仏を願うことは、素晴らしいことではないでしょうか。
 心底我執を滅して仏になりたいと願っているか。そして仏になったら再び地上で人を助けようと願っているか。その判断を自分で下すことはできない。しかし、われわれはそう願うことはできる。そして、その願いが本物になって、いつか仏になる道を歩むことが、許されるかもしれない。そう信じられるのであれば、これは素晴らしい「霊的成長への道」なのではないでしょうか。

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 こう見ると、前に浄土教は仏教の否定だと言いましたが、ある意味では、釈迦の元々の構想と似てくるかもしれません。
 釈迦は、衆生は輪廻を繰り返すが、修行によって無明を去り叡智を得れば、輪廻を超えられると考えました(異論は多いかもしれません)。しかし釈迦は輪廻を超えるというのはどういうことか言いませんでした。
 浄土教は、阿弥陀仏を信仰すれば、輪廻を超えて浄土に再生し「仏」になれると主張しました。しかし格別の修行は必要ないと主張しました。
 輪廻という点を中心に見ると、釈迦説と浄土教は近いわけです。
 問題は、「輪廻を超える」が「仏という超越的な存在(神的存在)になる」を意味するかどうかと、「修行が必要」か「信仰だけでいい」か。ここはもちろん大きな意見の違いです。全然違う宗教とさえ言えるほどの。

 私は「称名のみですぐ輪廻を超える」という説は、やはり賛成できません。それは異安心といった過誤を生み出したように、あまりに過激で無茶な考え方だと思います。末法の恐怖を救う方便として役立ったかもしれませんが、それを永遠の教義として固定化するのは問題でしょう。先に引いたインペレーター大師は、「一度の信仰告白で罪が消えるなどというのは、宗教の否定であり、人間性を堕落させるものだ」と言っています(同前書、第8節、ただしこれは一応キリスト教への批判です)。
 ちなみに言えば、「絶対他力」とか「自然法爾」といった言葉は、求道者がある境域に達した時に抱く感懐――一種の感情言語――のようなもので(「もはや我生くるに非ず」も同様)、感動やある種の気づきを与えるものかもしれませんが、それを事実記述的に捉えたり、教義として定立したりすると、やはり間違いが起こるように思います。

 スピリチュアリズムをここに並べてみましょうか。
 「人間の魂は、大方あと何回か輪廻を繰り返さなければならないが、いずれそれを超える。何かの名前を唱える必要はないし、何かの宗教に加入する必要もない。修行は無用ではないが、人生が課してくる課題に真剣に取り組めばそれだけでよい。できるだけ自らの魂と守護霊の声に耳を傾けるようにしなさい。」
 そして、スピリチュアリズムの大きな違いは、近代の知に対して、不十分であるにしても、「客観的な根拠」を示そうとしているところです。
 スピリチュアリズムは迷信・妄想と誹られながらも、死後存続と死後の魂が赴く他界を主張します。唯物論の圧力に屈して、それを「思想の問題」「内面の問題」と逃げることはしません。

 唯物論にすり寄って腰砕けになってしまった仏教に代わって、われわれスピリチュアリストが言わなくてはならないかもしれません。
 浄土はあります。
 浄土は、「往って還って来なければならない浄土」も、「もう還って来なくてもいい浄土」も、“実在”するのです。


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