『トマスによる福音書』については、前にも触れました(【霊学的イエス論(16)】「神の国」とは何か(2)) 手抜きで自己引用。 『トマスによる福音書』というものがある。1945年にエジプトのナグ・ハマディで農夫によって発見された文書の中にあった、コプト語の「イエス語録」である(『トマスによる福音書』なる書物があったということは古くから知られていた)。 これをめぐっては盛んに論争が繰り広げられている . . . 本文を読む
キリスト教ではものすごく有名な「真福八端」というイエスの説教とされるものがあります。 マタイ福音書の第五~七章の「山上の説教」(昔は「山上の垂訓」という言い方の方が多かったような気がしますが違うかな)の冒頭に置かれている「幸いだ」で始まる八つの文章です。昔の訳では「幸いなるかな」で始まりました。 前にも書きましたが、というか、福音書研究ではすでに常識ですが、この「山上の説教」自体が、マタイ福音書 . . . 本文を読む
カタリ派についてはこのブログで書いたように思っていたら、TSLホームページのラウンジ(雑記欄)でした。 こちらに再掲します。(「超簡単図解」の続きは次回に。仏教に行きます。) なお、カタリ派(と再生)の問題については、精神科医アーサー・ガーダムによる『二つの世界を生きて』『霊の生まれ変わり』といった本があります。クライエントが前世記憶としてカタリ派だった生涯を思い出し、それに一定の実証性があった . . . 本文を読む
<ノート> 中世の“スピリチュアリスト”たち(2007年10月18日)(高森光季) スピリチュアリズムというのは、19世紀に生まれたものであるけれども、「スピリチュアリスト」と名乗る人々は、13世紀にも存在した。フランシスコ会修道僧の中で「聖霊主義者」と言われている人たちである。「聖霊主義者」の原語(ラテン語)は「スピリトゥアーレス Spirituales」であり、まさしく . . . 本文を読む
どうも予期した以上に延々としたものになってしまった。そろそろこのあたりで締めようと思う。
ものすごく荒っぽいまとめ方をすると、一次イエス(ガリラヤのイエス)は、治病と説教を通して、「神の秩序」が地上に拡がることを願った。そして二次イエスは、刑死したのち復活することで、生命は死で終わりではないことを示した。これは分裂した主題だが、前者の「現世的価値を超えた神の秩序がある」ということを示すために . . . 本文を読む
イエスの活動は、結局、キリスト教という新たな宗教を生み出す原動力となり、それはローマ帝国に拡がり、後の西洋世界を規定することになった。
なぜそういう事態になったのか――キリスト教誕生の経緯と発展の理由――については、とても手に余る問題で、私ごときが何かを論じることはできない。また、そのうちのどの部分までが「イエスの意図したこと」あるいは「イエスが責を負うべきこと」なのかという問題も、なかなか難 . . . 本文を読む
ガリラヤで霊的治療を施し神の国の教えを説いていたイエスは、エルサレム神殿へ突進し、逮捕され、残虐に殺された。そして「復活の姿」を見せることで新たな信仰の渦を巻き起こした。
辺境の消耗戦から中心の攻撃へ。イエスのその歩みは、いったいどのような意味を持ったのか。
霊学的な観点から言えば、それはイエスの単独的「はねっ返り」行動ではなかった。ある時代、ある民族を導こうとする「大いなる知性的存在」と . . . 本文を読む
スピリチュアリズムから見れば、「死んだ人が生前の姿を持って現われる」ということは、しばしば起こることである。「霊姿 apparition」という言葉がこれに当たる。
偶発的な事例として多いのは、死んですぐの魂が、肉親に自らの死を伝えに訪れるという例である。姿が非常に鮮やかな場合もあり、中にはこんな例もある。
ある男性に、遠く離れた実家に暮らしていた妹が突然姿を現わした。驚いた男性は母親に手紙 . . . 本文を読む
さて、イエス伝中、最もクリティカルな(重大かつ繊細な)問題にたどりついた。
「復活」である。
キリスト教はこの点に様々な意味を注ぎ込んで教義の根幹とした。一方、近代の「反超越論的」学者たちは「イエスの無残な死を補償するための神話」とする。
いずれに真実があるのだろうか。
* * *
イエスは十字架という残虐な刑によって死んだ。その遺体はアリマタヤのヨセ . . . 本文を読む
十字架刑というものが、非常に残酷な刑だったことは多くの人が指摘している。
ちなみに改めて繰り返せば、釘は手の平に打たない。腕を貫通させる。重さを支えられないからである。足はまとめて一本打たれるようである。出血死、ショック死もあるが、窒息が主な死因だそうだ。前島誠氏の記述を引いてみる。
《受刑者は出血と疲労、呼吸困難と衰弱が重なり合い、窒息や心臓麻痺などを引き起こして死に至る。……とくに呼吸し . . . 本文を読む
宗教権力と衝突したイエスが、その後どうなるかは、受難物語が詳しく書いているが、この物語はそこから「歴史の事実を再構成することはほとんど不可能」なものである。
受難物語の時系列的いい加減さを改めて見ておくと、
・仮庵祭(3月)にエルサレムに入る。神殿を見回ってベタニアに退出。
・次の日、エルサレム再入城、空腹を覚え、実のないイチジクを呪う。
・神殿での破壊行動。帰途、イチジクが枯れている。 . . . 本文を読む
受難物語は、イエスの「予言」から始まる。
《ガリラヤで活動しているある時、イエスは弟子にこう尋ねた。
「世間では俺のことを何だと言っているんだろう」
弟子は答えた。「バプテスマのヨハネの生まれ変わりと言う人もいます。メシアが来る前に再来するエリヤだと言う人もいます。新たな預言者が現われたと言っている人もいます」
イエスはさらに尋ねた。
「お前たちはどう思っているんだ?」
シモン・ペト . . . 本文を読む
イエスの人生の最後の部分、それはあの「受難」の物語として語られる。イエスは自らが「捕らえられ、殺される」ことを予言し、エルサレムに向かい、予言のごとく逮捕され、殺害される。
この一連の出来事に描かれるイエスは、ガリラヤで病者を癒し様々な講話をしていたイエスとは、明らかに趣が異なる。「一次イエス」に対して「二次イエス」と言われるゆえんである。
「二次イエス」については、非常に論じづらい。無視 . . . 本文を読む
【①第一回予言】
8:27 イエスは弟子たちと共に,カエサレア・フィリピの村々に出発した。その途中で,彼は弟子たちに尋ねた,「人々はわたしをだれだと言っているか」。8:28 彼らは彼に告げた,「バプテスマを施す人ヨハネ,またほかの者たちはエリヤと言い,さらにほかの者たちは預言者たちの一人だと言っています」。8:29 彼は彼らに言った,「だが,あなた方はわたしをだれだと言うのか」。ペトロが答えた, . . . 本文を読む
◆現実的には
イエスは高次の霊的存在(天使)を知っていたし、高次の霊的世界(天使たちの国)を知っていた。彼はその世界を並行的に生きていたし、この世にその世界の秩序をもたらそうとした。
では実際、イエスはどういうことをこの世において実現しようとしたのか。これはけっこう難題だ。
一つ明らかなのは、霊的な治癒である。イエスはまずそれを最大の使命とした。弟子たちにもそれを補佐させようとした。
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