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浄土の話・寄り道 親鸞は生まれ変わりを受け入れたか

2011-07-16 19:20:37 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 途中ですが、ちょっと書いておかなければならないような気分になったので(要するにきちんと計画せずばたばたしているわけですがw)、メモみたいなものですが。

 前に追加コメントとして書きましたが、『高僧和讃』で、親鸞は法然上人から伝え聞いたこととして、こう書いています。

 《命終その期ちかづきて 本師源空(=法然)のたまはく
 往生みたびになりぬるに このたびことにとげやすし(111)
 源空みづからのたまはく 霊山会上にありしとき
 声聞僧にまじはりて 頭陀を行じて化度せしむ(112)
 粟散片州に誕生して 念仏宗をひろめしむ
 衆生化度のためにとて この土にたびたびきたらしむ(113)
 阿弥陀如来化してこそ 本師源空としめしけれ
 化縁すでにつきぬれば 浄土にかへりたまひにき(114)》

 現代語訳(真宗大谷派西覚寺光輪会ホームページを参考にさせていただいた)
 《臨終が近づいたことをさとられて、源空上人は弟子たちに語られた。
 「浄土に往生するのは、今回が三度目になるけれども、今回は心残すことなく、浄土に帰っていける」と。
 源空上人は自らおっしゃった。
 「釈尊が霊鷲山で法会を開かれた時、私は仏弟子と共に修行し托鉢に出ては、人々を教化していたものだ。
 粟粒のようなこの国に誕生して、念仏の教えを広めてきた。
 人々を導き救うために、この国には何度も来たものであった。」
 まことに源空上人は、阿弥陀如来が人々を救うために人となって現れてくださったのだ。
 教化のご縁が終わったので、浄土に帰っていかれたのだった。》

 さて、これをどう位置づけたらいいでしょう。
 法然上人が示寂したのは、1212年です。
 親鸞を含む法然門下が流罪(一部は死刑)になったのは、1207年です。法然は土佐(讃岐に変更)へ、親鸞は越後へ配流されました。
 法然は1207年中に赦免され、1211年に京都吉水に戻りましたが、親鸞は同1211年赦免されたものの、すぐに京に戻ることなく、翌年、法然は入滅しています。つまり配流以降、親鸞は法然に会うことなく死別しているわけです。だから臨終時の法然の言葉は直接聞いていない。高弟から聞いた話でしょうか。構成上、最初の111は弟子からの伝聞、112と113はそれ以前に直接聞いていた話かもしれません。
 いずれにせよ、「法然先生が騙すのなら私は地獄へ行っても構わない」とまで言った人です。他の弟子からの伝聞もあったにせよ、先生がこう言ったということは、否定しようがないでしょう。そして、こうやって和讃に記しているのだから、これは真実だと思っていたでしょう。机上の教義ではなく、実際に生まれ変わってくるのだ、と。
 親鸞自身は、自分に再生してきたという自覚があったようには思えません。自分は罪深い身、そんなものではない、と。しかし、念仏して浄土へ往ったら、自分自身も必ず生まれ変わってくると確信していたのか……。

 (ところで、一般の生まれ変わり=輪廻と、この穢土への還来とは、どう違うのでしょうかね。仏となっての還来は目に見えない? でもそうすると法然の言葉は矛盾しますね。)


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