スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

人をさとらせることはできるか――今来さまへの返信として②

2011-08-17 00:56:43 | 高森光季>仏教論・その他

 《ちなみにゲルク派ではまず自身が仏とならなければ他者を救済することはできないらしいです。菩提心という視点からみると自らがまず仏陀となり、そのあとで生きとし生けるものすべてを悟りの境地へ導くのが「王者の菩提心」、あらゆる生き物とともに悟りの境地へ渡ろうとするのが「船頭の菩提心」、全ての他者をまずは悟りの境地に赴かせ、最後に自分が悟りに向かうのが「牧夫の菩提心」というらしいのですが、ゲルク派は本当に実践可能なのは「王者の菩提心」だけであり、それを追及すべきだということです。ますます達人たちの仏教かと失笑されるかもしれませんが、私は極めてあたりまえのことを言っているような気がして妙に胸に落ちるのです。「牧夫の菩提心」は今の真言宗の布教者が言いそうな文句ですが、自身が悟っていないのにどうして他者を仏の道に向かわせることができようかと懐疑の念を抱かざるを得ません。真言僧侶にとっては(一座の行法であっても)まず仏になることが重要なはずです(私本気で言ってます。笑われるかもしれません)その場合、ゲルク派における空の理念も積極的に学ぶ必要があるように思います。》

 ええと、そういうふうに取られたのなら謝りますが、私は「達人の仏教」を批判も非難も軽侮もしていません。達人はしっかりと達人としていていただきたいものだと思っています。ただ、達人の境地や論理は凡夫にはわからないけれども、外部に伝わった部分を見てみると、どうもこういうところがわからないなあという感想を持つことがある、それを書いてみているだけです。

 この菩提心のお話も、達人間のお話であろうから、あまり凡夫がどうこう言えるものでもありません。まあ余計なことを言えば、山に登ったことがない人に山岳ガイドができるのかしら、という思いはありますけれども、私にはそもそも「仏になる」ということが理解できていませんので、はっきりしたことはわかりません。

 それとは別の話として。
 いささかネガティブな物言いになりそうで、今来さまには嫌われるかもしれませんけれども、今の私には、非常に重い問いとして、次のような問いがあります。
 ・他者を救済することはできるのか
 ・他者を「霊的覚醒」なり「悟り」なりに導くことはできるのか
 ・輪廻超脱、ないしは「現界への生まれ変わりの卒業」はスピードアップできるのか
 これらに関して、私自身は、正直のところ、今、ネガティブな思いです。単に私の力のなさ、未熟さということで、将来、ポジティブに捉えることができるようになるかもしれませんが。

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 今来さまがご紹介くださった齋藤保高氏のサイトには、いくつか素人にもわかりやすい、率直で(煙に巻く意図が感じられないw)明快な論述があります。そのうちの、チベット密教の悟りの行法に関する記述を引用してみます(「何のために空を覚るのか」より)。

 《無明を種子から断じるためには、空性の了解が必要なわけですが、これは空を直観的に体得している智慧でなければなりません。それを、仏教哲学の用語では、「空性の現量了解(げんりょう りょうげ)」といいます。空という真理は、目で見たり手で触れたりできません。しかし、恰も目で見ているように、手で触れているように、意識によって直観的に空を体得しなければならないということです。そのようなレベルの智慧を獲得しない限り、諸煩悩を種子から断じることはできません。》

 《顕教の大乗仏教では、空性の現量了解を達成するのに、一阿僧祇劫という途方もない期間を要するといいます。つまり、空性の現量了解を得るまでに、無数の生まれ変わりを繰り返さなければならないということです。しかし密教では、それを大巾に短縮できます。所作・行・瑜伽タントラの場合、本尊ヨーガを維持しつつ空性の止観を修習する無相ヨーガによって、顕教より速やかに空性の現量了解を得られるといいます。》

 《無上瑜伽タントラの究竟次第の場合、本尊ヨーガを維持しつつ空性を修習する点は同じですが、チャクラ、脉管、風、滴などを駆使する優れたヨーガの技法により、さらに大巾なスピードアップが可能です。これらのヨーガを通じて止観を修習することにより、倶生大楽で空性を了解するという、無上瑜伽タントラ独特の体験が得られます。そうした究竟次第の実践を積み重ねて達成した空性の現量了解を、無上瑜伽タントラの用語で「義の光明」といい、それによって諸煩悩を全て一気に断滅できると説かれています。》

 非常にわかりやすい説明で、ありがたいものです。要するに、「空性の現量了解」こそが「さとり」であり、
 ①空性の現量了解を獲得すれば、諸煩悩は根源から絶つことができ、無明は消尽する。
 ②密教の修法は、それを大幅にスピードアップできるものである。
という主張だと思います。
 おそらく①の後には、「無明が消尽すれば輪廻超脱が達成され、“仏”になる」ということが含意されているように思えます。
 これに対する素朴な質問は、次のようなものがあるでしょう。
 (1)空を真に理解体得すれば諸煩悩や無明は消えるのか
 (2)諸煩悩や無明が消えれば(天界への再生はすっ飛ばして)輪廻を超え出るのか
 (3)輪廻を超え出ることは空の体得のみによって達せられるのか
 (4)そのプロセスをスピードアップできるのか
 (5)カルマの弁済(前世までの負債の弁済)はどうなるのか
 (おまけ)輪廻を超え出た後はどうなるのか、何をするのか

 こうした密教の「輪廻超脱=成仏」論の特徴を際立たせるために、スピリチュアリズムの考え方を見てみましょう。
 ・人間の魂は現実世界に何度も生まれ、様々な経験を(苦しみつつ)積むことで成長する
 ・現実世界で学ぶことがなくなるほど成長したら、もう一つ高い世界(至高界ではない)へ行く
 ・無駄に現世を過ごすことで「落第」することを避けるために、霊的な叡智などが必要となる
 ・通常、「一回で卒業」になるように急速に成長することはないし、「大幅なスピードアップ」方法がある/必要だとは言わない。

 密教の颯爽・凛然とした「解脱論」に対してスピリチュアリズムの「霊魂成長説」は「だる~い」感じがしますね(笑い)。だから人気が出ないのか(笑い)。スピリチュアリストである小生も、正直なところ「スピードアップはないのか!」と思ってしまうところはあります(あるにはあるそうですが、それは「苦しむ」ことだそうです。うむむw)。

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 しかし、素朴に思うことは、どんな魂も「空性の現量了解」などということができるのでしょうか、ということです。
 この世に生まれている魂にも、何度も生まれて多少の成長を果たしている魂もあれば、まだ一、二回の初々しい魂もあります(ただし人はそれを自他ともに判断することができません)。まだまだこの世で学ぶべきことを抱えている魂(ほとんどの魂がそうでしょうが)に、いきなり「この世は児戯の世界だから早く卒業せい」と言ったって、無理なだけでなく、害になるでしょう。
 だから、「他者を悟りに向かわせる」ということは、ごく一部の例外を除いて、そもそも無理な話ではないでしょうか。――もちろん、仏教は長い歴史の中で、機根とか三乗とか対機説法とか、いろいろな理論を作ってきたわけで、そんなことは承知だよと言われるでしょうけれども、そもそも、人を救済するとはどういうことなのか、教えや叡智を説くことが果たして救済なのか、というところまで根底的に考えているのでしょうか。(どうも伝統的に仏教は、「この素晴らしい教えを知らしめることが慈悲だ」と“上から目線”で捉えていないでしょうか――とこれは偏見かなw)
 人を救うというのは、実に様々な位相があります。渇いている人には水が、飢えている人には食べ物が、病んでいる人には苦痛の軽減が、何よりも救いでしょう。宗教的な領域にしたって、集団に埋没することが救いの人もいるし、守り本尊をひたすら崇めることが救いの人もいるでしょう。
 逆に言えば、宗教で救われる人などは、本当にごく一握りなのではないでしょうか。ソマリアへ行って空を説いたところで意味はない。真に自分の実存の問題として宗教的主題を求める人は、100万人に数人かもしれない。
 そんなことはわかっていると宗教者は言うかもしれませんが、かつてのキリスト教伝道者は、「神の子にして審判者イエス」の真理こそが万人を救うと思い上がり、えらく香ばしいことをなさったわけです。仏教者も、自分たちの獲得した仏教の叡智を教えることが、人を救うことだと思ってはいないでしょうか。

 以前「弱い宗教」ということを言いましたが、それは「耳ある者は聞け」という宗教です。「この真理が必要な人だけ受け取りなさい」ということです。
 また、そこで「真理」を受け取った人は、魂の成長段階としてそれが必要だった、そして一つの契機としてそれを聞いたのだということでしょう。よく「劇的な改心(回心)」ということが語られますが、それは当人の魂が、当人も気づかないまま、そうした段階に達していたから起こるのであって、何もない砂漠に突然花が咲いたわけではありません。また教師の力によって強制的に花を咲かせたわけでもありません。真理を教えて、あるいは行法を指導して、相手が「さとった」としても、それはこちらが救ったのではない、その魂がちょうど学ぶべき時に学ぶべきことを学んだのであり、教師はたまたま機縁の役割を果たしただけでしょう。(ただし、「上」が明らかな意図をもってそこに結集し支援をした場合は、こうした通常のプロセスを超えたことが起こることもあるでしょう。)
 (なお、明らかな「妄執」――それは確かに存在します――を、言葉をかけることによって解いてあげることは、稀にできるかもしれません。「稀に」といったのは、現実問題として、「明らかな妄執」に捕らわれている人を説得することがいかに大変なことか、私は少ないながらも、うんざりするほど経験したからです。いや、人のことばかりではなく、自分自身の問題としてもそうなのであって、私は自分の中に妄執と捉えられるものを抱えており、それが妄執だとわかっていても、なかなか解くことができない。私は達人的修行をしていないのでそれを解くことはできないし、ましてや人の妄執を解くことなどできない。長年修行した達人なら、あるいは熟練したカウンセラーなら、そういうことは可能かも知れません。それは救いとは違う「教育的支援」で、意義ある手助けなのかもしれません。)

 だから、「達人の宗教」ということを言ったのも、全然揶揄ではなく、達人となるべきステージに来た人(おそらく前世の積み上げがあるのでしょう、あるいは教導を目的に再生した人もいるかもしれません)が達人になり、さらに後進の達人になるべきステージに来た人に、きっかけや外形的な手引きをする、それが宗教(求道宗教)の本来の姿なのではないでしょうか。達人の境域は凡夫にはわからない。凡夫、というかまだそこまで成長していない魂には、「ここへ来い」というのではない、別の仕方の接し方があるでしょう、ということです。
 特に仏教は、もともと達人の宗教なのだから、それを貫くべきではないかと外野からの余計なお節介ながら、思うわけです。
 だから、「仏になって人を導く」という意志は、まさしく素晴らしい正統な考えだと愚考する次第です。ただその際の「人」は「万人」ではないかもしれないかなと思ったりもするわけです。
 (あ、思い出したので付け加えておきます。本山博先生は、以前ある場所で、「目覚めていなくても働くことはできる」とおっしゃっていました。そういうこともあるのかもしれません。)

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 なんか話があっちの方へ行ってしまったようです(笑い)。毎度千鳥足の暴論で申し訳ない思いですが、まあこういうぐちゃぐちゃの中にも何かがあるかもしれないので、このままアップします。お気を悪くされた方々には、お詫びいたします。
 無我・有我のことについても書こうとおもっていたのですが、また改めて。


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2 コメント

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おお! (今来学人)
2011-08-17 05:49:01
詳細なレスポンスありがとうございます。
時間あるときに必ず読ませて頂きます。取り急ぎご返答まで。
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Unknown (有見)
2021-01-22 15:46:28
凄くしっくり来ました。自分の考えていたことをわかりやすく言葉にまとめて頂いたような感じがします。ありがたいです。
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