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浄土の話(3) 仏教は無神論? 有神論?

2011-07-09 00:03:36 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 阿弥陀如来という存在は、よくよく考えると、不思議な存在です。
 この世界とは別個の「素晴らしい世界」を創ってしまうのですから、「神に等しい存在」と言えるでしょう(もちろん唯一神ではないけれども)。
 しかも、阿弥陀如来の意図というのは、けっこう過激です。
 ぶっちゃけて解釈すると、阿弥陀様の意図というのは、「釈迦仏が統括するこの仏国土は、いろいろと苦難が多すぎる。他の仏の仏国土も同様である。それでは衆生がかわいそうである。もっと楽に、確実に、悟りへと行ける仏国土が望ましい。私はそれを創る」ということにならないでしょうか。
 またもっと意地悪に言うと、もし一切衆生が「楽に悟りへ行ける阿弥陀浄土へ生まれたい」と願うようになったら、他の仏国土の一切衆生は一斉に阿弥陀浄土へなだれこみ、誰も(悟りへの道など向かいたくないと思う無縁の衆生を除いては誰も)いなくなってしまうのではないでしょうか。釈迦仏さんが、気がついたら「あれ、外道以外誰もいねえぜ?」とか(笑い)。
 さらに、部派仏教や大乗の『華厳経』などでは、仏になるための修行は、ものすごく長い時間がかかる(七回生まれ変わらなければならない[!]とか、「三阿僧祇劫」という永遠に近い時間が必要とか)言われていたのに、「私に願い出てくれれば極楽に生まれさせましょう、そこでわずかな時間(不明)修行すれば仏になれます」というのは、慈悲とはいえあまりに甘すぎないか、といった見方も成り立たないではありません。
 これほどまでに「衆生への慈悲」を強調したところも、特異といえば特異です。そもそも仏教、特に大乗以前の仏教は、あまり「慈悲」を重視していませんでした。阿弥陀如来の手放しの慈悲は、そうした仏教への強烈なアンチテーゼと取れなくもありません。

 別にいちゃもんをつけているわけではありません。言いたいのは、この阿弥陀如来および浄土信仰というのは、かなり本流の仏教とは異質なものではないか、ということです。
 こういう話になると出てくるのが、「浄土教はキリスト教の影響を受けているのではないか」という説です。
 一説には、浄土教が大成した唐時代には、景教(ネストリウス派キリスト教)がかなり活発に活動していたとも言われています。また「阿弥陀」という名前はサンスクリット語のアミクーバで「無量光」を意味し、「光は衆生を救済する慈悲を誓えるが、もともとインド以外の西方ペルシャなどの光信仰の影響を受けたものだともいわれる」(末木、前掲書)ので、グノーシス系キリスト教であるマニ教にも関係があるかもしれません。
 ただ、こういった伝播説、影響説は、あり得ないではないでしょうが、あまり拡大しないようにしなければならないでしょう。直接の伝播がなくても、あちこちで同じような現象・表現が生まれることはあります。それは、ユングの言うような「人間の元型的想像力」によるものかもしれませんし、超常的な要素(霊的存在が示唆したり、誰かの前世記憶が影響したり)もあるかもしれません。それに、そもそも宗教とは「霊的真実」の一表現ですから、時に同じような表現が生まれるのは当然でしょう。
 確かに「神的存在の絶対の慈悲」とか「信じるだけでよい」といったことは通じるところはありますけれども(「終油の秘蹟」に似た「臨終の念仏」もあるようです)、キリスト教の主要素である「原罪」「犠牲」「終末」といった概念は浄土教にはありませんし、浄土教の「菩薩としての生まれ変わり(還相)」といった概念はキリスト教にはありません。もしキリスト教ないしはマニ教を知っている人が浄土教を言い出したのだったら、その見事な換骨奪胎ぶりは天才的と言えるでしょう。

      *      *      *

 ここで仏教の最大問題の一つにぶち当たります。
 それは、「仏教は無神論なのか、有神論なのか」という問題です。

 お釈迦様は、天界とそこに住する神々を、認めていなかったわけではないと思われます。ただ、目指したのは天界まで含まれる輪廻世界を超えるということだった。ただ、お釈迦様の教えは、非常に実践的・現実的なもので、形而上学的な問題に拘泥することは禁止しました(「無記」)。また、無明を脱して悟りに至る方法として、「反実体論」(無我・空)を強調したために、神的存在自体も融解してしまったようです(輪廻の主体である魂まで融解しかかった)。
 その方向性を踏襲したために、初期仏教は、「無神論的宗教」になっていきます。後の中観派は(大乗ですが)その絶頂とも言えるでしょう。魂や神といった「永遠の存在」などはない、と。
 (いまだにどうもわからないのは、とすると、輪廻を脱するというのはどういうことか、ということです。ブッダの言葉には「悟ったのでもう生存は尽きた」という表現があって、「消滅する」といったニュアンスのようでもあります。しかしそれだと唯物論の「帰無仮説」――死んだらおしまい――と同じということになってしまわないでしょうか。あるいは実在でも非実在でもない永遠の何か――ニューエイジ的に言えば「宇宙意識」、あるいはブラーフマン?――に融合するということでしょうか。そのあたりのことをブッダも初期仏教も、はっきり言っていないように思えます。)

 ところが、ある時期から、「永遠のブッダ」という信仰が出てくる。どうもこれは民衆的な「仏塔(ストゥーパ)信仰」の拡がりと共に起こったらしく、各地に生まれた「仏塔信仰」の在家信者集団と部派仏教の学僧との交流から、大乗仏教運動が起こったらしい。
 そして、大乗仏教の興隆とともに、釈迦は単に人間ガウタマ・シッダッタではなく、永遠の「仏」であった、という信仰が生まれていく。この「仏」は、この世を含む「三千世界」を統括する存在で、ほとんど「神」と同義に思われます。仏教が「有神論」になったということです。
 また、ブッダ以外にも修行を積んだ菩薩が「仏」になることもある。この仏は輪廻を超えた永遠の存在であり、釈迦仏と同等の存在である、となり、阿弥陀如来や薬師如来や阿シュク如来といった様々な仏が存在することになった。「諸仏」が存在するという「多神教」宗教になったわけです。
 ただし、大乗仏教運動のもう一方では、中観派や唯識派の反実在論哲学=無神論も発展したので、大乗仏教が全的に「有神論」になったとは言えないでしょう。

 だから、素直に言えば、「仏教は無神論か、有神論か」という問いは、「両方」ということになる。一つの宗教が同時に無神論であり有神論であるなどというのは、とんでもない話ですけれども、どうもそういうことらしい。まあ、素直に言えば、仏教って滅茶苦茶やん(笑い)。
 浄土三部経も、法華経も、単純に言えば、「有神論仏教」の経典です。
 そして、有神論の方が大衆にもわかりやすいということもあって、仏教は諸仏諸菩薩が輝かしく活躍する有神論宗教として広まっていった。
 特に、中国を経て日本に伝わった仏教は、ほとんど「有神論」一色だった(一番ベースになったのは法華経でしょうから)。それはもともと神道という多神教を持っていた日本に溶け込み、ついには「神仏習合」といった独特の宗教世界観を生むに至った。臨済禅などごく一部を除けば、「反実体論」哲学やそれに基づいた無神論仏教は、発展しなかった。これは否定しようのないことでしょう。最澄・空海はもとより、鎌倉真仏教の祖師たちも、基本的にはこの枠組みの中にいた。

 ところが、近代という時代がやってきました。
 これは様々なものを含み込んだ、怒濤のような到来でした。そして、同時に、「唯物論」「科学的合理主義」も襲来しました。日本はどういうわけか、ものすごい迅速さでこれを受け入れました。
 で、そうなると、「有神論」は不利になります。他界(浄土)や仏菩薩の実在を前面に出した仏教は、窮地に立ちます。逆に、無神論的仏教――禅や中観・唯識思想――は、近代知識人の知的好奇心を刺激するようになります。
 浄土教団はこの危機に対応して、かなり早くから近代浄土教学を構築しようと試みました。そして、「実在としての浄土」とか「成仏した後の生まれ変わり=還相回向」といった概念を、すべて「内面の問題」に読み換えようとしました(浄土を心の内的境域に読み換えることは、天台浄土教や禅的浄土教で、かなり古くから行なわれてきたようです)。

 しかし、これって、結局浄土信仰の自殺ではなかったでしょうか。
 前回引用した梅原猛さんの批判は、遺伝子うんぬんは別として、そこを厳しく衝いたものではなかったでしょうか。


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3 コメント

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補足的な (今来学人)
2011-07-09 09:10:28
アミクーバ -> アミターバ(amitaabha
) 

かと思います。
「内面の問題」へのすり替えを考えるとき、清沢満之がキーパーソンとなるのではないかと思います。もっと言えば井上円了も関係してくると思います。仏教がいかに合理的で哲学的であるか、みたいな視点だったと思います。これによってキリスト教を駄目だししてたと思います。確か。
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( ゜д゜) (高森光季)
2011-07-09 15:19:47
( ゜д゜) :(;゛゜'ω゜'): (;´д`)(穴に入ってます)
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Unknown (今来学人)
2011-07-10 08:13:28
私なんかしょっちゅう穴に入ってますがw
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