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【生きるヒント】③肉体・心・魂

2011-04-30 00:30:23 | 高森光季>生きるヒント
 人間は三つのものでできています。
 肉体、心、魂(霊)です。(魂と霊の違いはちょっと置いておきます。)

 これは別に特定の宗教の考え方ではありません。古くからある考え方です(少なくともグノーシスにはありました)。
 だいぶ前、世界保健機構(WHO)が、健康の定義で、この三つの分類を採用しようとして(肉体的に健康、心理的に健康、霊的に健康)、話題になったことがあります。それでご存じの人もいらっしゃるでしょう。

 まあ、霊学的に人間の組成を細かく言うと、いろいろとあって結構めんどくさいのですけど、それは置いておいて、とにかくこの三つがある。これは確かです。

 普通は、「肉体と心」と言いますね。心身二元論とか、心身一如とかいう表現もあります。これはだいたいの人はわかる。唯物論者は心は脳の中の電気信号の集まりだなどと言いますが、放っておきましょう(笑い)。自分が自分の心の存在を否定するなんて、哀しいことですね。
 宗教的なことに踏み込んだ考え方では、さらにもう一つ、「魂」というのがある。これは認める人が少ないかもしれません。でも、まあ、あるんですけど(笑い)。
 もっとも宗教では、心というより、むしろ魂(霊魂)と肉体という二分法を使うことが多いようです。「霊主体従」は大本教のスローガンでした。霊が主人であって体は乗り物だよ、ということです。ただ、心というものを無視してしまうと、また変なことになるように思います。心には、魂よりも肉体に近い、独自の部分がありますから。

 で、一応この三つは一人の人間の中でくっついているけど、本当は別々なんですね。もちろん関係し合っているけど。
 で、この三つは別々だよ、と思えるようになると、いろんなことが見えてきます。もっと言えば、ずいぶん救われます。

 私たちは常に、肉体として生きていて、肉体として周囲から刺激を得ています。肉体由来の欲求もあります(かなり強烈です)。
 でも、心はそれとは別です。魂も別です。

 これは「感情モニタリング」という心理療法で教わったことですけど、肉体はいろいろな刺激に対して、反応を起こします。納豆がきらいな人は納豆の匂いを嗅ぐと不快になります。手を切れば痛いのは当たり前です。嫌いな人がいると不愉快になります(これも反応)。
 で、心は、その反応に対して、反応します。嫌いなものを受け取ると、嫌な気持ちになります。嫌な気持ちになるだけではなく、嫌な気持ちになっていることに嫌な気持ちになります(ここが味噌)。
 この「嫌な気持ちになっていることに嫌な気持ちになる」というところが、だいたいの心理的トラブルのもとだというのです。
 このごちゃごちゃを防止するには、肉体的(生理的)反応と、心理的反応を分ければいいというのです。「納豆の匂いが嫌い」というのと、「嫌っていることをどう受け取るか」を別にすればいいと。
 人間には、どうも生理的に嫌いな人がいるものです。それはほとんど肉体的な、つまり生理的な反応です。ところが心は、「人を嫌うなんて何て自分はひどい人間だろう」などと思ったりします。そうしてごちゃごちゃ思い悩みます。そうではなく、「ああ、なぜか生理的に嫌いという反応をしているな。それは生理的反応で仕方ないな。その人のせいでも私のせいでもないな」と思えば、心は安定してきて、その人に対してひどく接することもなくなるというのです。
 痛いものは痛い、嫌いな匂いは嫌い、特定の人に対する生理的嫌悪は生理的嫌悪で仕方ない。心は「そうなんだな」と思えばいい。そうすると、心は乱れなくなり、不思議なことに、いやなものも案外いやではなくなる。

 ちょっとわかりにくい説明かもしれませんけど、これ、結構重要なことだと思います。外的刺激とそれに対する自動的反応は、心とは本来関係ないのです。

 で、次の話。心は心で乱れます。外的な刺激やそれによって呼び起こされることで、思いや感情が激しく動きます。誰だって生きていれば、気持ちの浮き沈みはあります。落ち込んだ時は、自分も世界も大嫌い、となるでしょうし、るんるんの時は何も問題も恐いものもないと思います。
 でも、それはあくまで心の話なのです。魂は別にあります。魂は不活性になっているか、生き生きと活動しているかのどちらかです。心は落ち込んでいても、それが魂にとっては重要なプロセスだということもあります。心が楽しんでいても、魂は眠っていることもあります。

 私たちはともすると肉体・生理の刺激に振り回され、呑み込まれます。熱いだの寒いだの、痛いだの気持ちいいだの、快だの不快だの、とそればかりになります。そしてそれに振り回されている心は乱れに乱れます。
 ところが、心は別だよと感じられるようになると、安定してきます。心はそういったものとは別に、独自の営みをしているのがわかるようになります。そしてそれがわかるようになると、今度は、心の奥に、上に、魂の活動があるのがわかるようになります。
 具体的に言えば、心が一番嬉しい時は、魂が活動している時です。人を愛したり、人に奉仕したり、創造的な仕事をしていたり、高次なイデアを感じていたりする時に、心が一番嬉しいのだとわかるようになります。そしてその奥で、魂が動いているのがわかります。
 魂が薄々感じられるようになると、肉体・生理的な事柄が限定的な意味しか持たないことがわかります。心の揺れも本質的な危機ではないことがわかります。魂は何ものにも傷つけられることがない、不撓の存在だということがわかります。魂の喜びは何ものにも優るものだとわかります。魂の中にはものすごくたくさんの素晴らしいことが畳み込まれていることがわかります。

 こういったプロセスを説明しようとすると長くなるので、またの機会にします。
 ただ、「人間は肉体と心と魂から成る」ということをしっかりと思っていると、きっと役に立つと思います。
 「この肉体が私ではない。この心も私の本質ではない。私の本質は私の魂だ」――そう思っていくと、きっと何かが見えてくるはずです。

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