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浄土の話(1)「往生」は「成仏」ではない

2011-07-07 00:01:59 | 高森光季>仏教論2・浄土の話

 “浄土”について考えてみたいと思います。
 スピリチュアリズムと直接関係があるわけではありません。とはいえ、「死後問題」という点では関係があります。
 外野(外道かw)からの批評ですので、非難囂々になるかもしれませんが。
 数回続きます。

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 一つのお話があります。

 《あるところに、志の高潔な修行者がいた。彼は様々な修行をして自らを高める一方、この世で苦悩する人々を救いたいと願った。そして「願い」を立てた。
 「もし私の修行がよいものとされて、“神のような存在”になることができたら、私は、あらゆる世界の一番よいところばかりを集めた素晴らしい“幸福の国”を創る。そして、願う人はすべて(極悪人を除き)、死後そこへ生まれることができるようにする。その素晴らしい世界で修行をすれば必ず皆が“神のような存在”になれる。そして“神のような存在”になった人たちは、再びこの世界へ戻ってきて、人々を救うようになる。それが私の誓いである」
 この高潔な修行僧は、立派な修行をしたので“神のような存在”になることができた。つまり、彼の願いは実現した。
 我々は心底から彼に願えば、この世を去った後、彼が創造した“幸福の国”へ行き、必ず“神のような存在”になれるような修行ができ、やがて“神のような存在”になる。
 何も苦しい修行や特別な偉業をなさなくともよい。ただ彼にすがって、“幸福の国”へ行けるようにと願うだけでよい。そうすれば、必ず“神のような存在”になる道を歩むことができるのだから。》

 実に素晴らしいお話、考え方ではないでしょうか。

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 わざと一般的な言葉を使って表現してみましたが、これ、実は「阿弥陀仏」と「浄土信仰」の中核教義です。
 高潔な修行者とは「法蔵菩薩」で、「世自在王仏」がこの世を統括していた時代に、仏になるための修行をしていました。(この「世自在王仏」は釈迦の前世であり、「永遠のブッダ」の一顕現だとされています。)
 仏教では自らが悟りを開いてブッダになるために修行をするわけですが、大乗仏教の時代になると、悟って無明を脱するだけでなく、衆生(ありとあらゆる生き物)を救う「菩薩」の行ないが必要だと考えられるようになりました。
 法蔵菩薩は、一生懸命修行するとともに、何とか「汚辱にまみれた世界(穢土)で苦しみの輪廻を続ける人々」を救いたいと願いました。そして、何と、この宇宙とは別個の、新たな宇宙を創ろうと思い立ったわけです。
 この頃の仏教宇宙観というのは、おおよそ次のようなものであったらしいです。
 《生命あるものは、六道(天・修羅・人・餓鬼・畜生・地獄)を輪廻する。この六道が一つの世界で、われわれが生きている世界(人界)はそこに含まれる。そしてこれが1000の3乗(つまり10億)集まったのが「三千世界」という一つの宇宙=仏国土である。それを統括しているのが「永遠の存在であるブッダ」であり、その化身であるブッダは時代時代に別の名前となって世に現われ、人々を救おうとしている。仏教の開祖ガウタマ・シッダッタも、その「世に現われた永遠のブッダ」であった。》
 簡単に言うと、「永遠のブッダ」という神様のような存在が、われわれの世界を10億集めた大宇宙を治めている、ということです。
 これに対して、法蔵菩薩は、「こんな汚辱にまみれた世界に輪廻するのはかわいそうだ。私は、十方の三千世界(どうも他にも同じものがいくつかあるらしい)から、一番よいところだけを集めて、別の幸福に満ちた仏国土を創りたい。そして、人々が願うなら、汚い世界での輪廻から抜け出させて、そこで修行をさせてあげたい」と願い、「それが実現されなければ、私は自らが輪廻を抜けてブッダになることはない」と誓ったというわけです。(他にもいろいろな「誓願」があり、24個とか48個だとされています。前者は漢訳『無量寿経』、後者は魏訳で、中国・日本では後者を受け継ぎました。)その魏訳「第十八願」は次のようなものです。

《設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信業して我が国に生ぜんと欲し、乃至十念せんに、もし生じずんば正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とを除く。》

 訳は――「もし私がブッダとなった時に、十方の衆生が真底から信じ、私の仏国土に生まれたいと欲して、十念だけでもしたとしよう。もしその人が私の国に生まれないようならば、私はブッダの悟りを得ないであろう。ただし、五逆(五つの大きな罪)を犯したものと、正しい教えを誹謗したものだけは除く」(末木文美士『思想としての仏教』トランスビュー、2006年、151頁)

 そして、それは実現された。なぜなら、法蔵菩薩は阿弥陀仏になったからである。だから、我々は、ひたすら阿弥陀仏にお願いすれば、汚辱にまみれた世界での輪廻を脱け出て、「阿弥陀仏の浄土」へ行くことができる。――浄土教の大成者・善導(唐の時代)はそう説き、法然・親鸞もそれを受け取ったわけです。

 ちなみに、この宇宙とは別個の宇宙というのはずいぶんな表現に思えますけれども、この頃には、釈迦仏の統括するこの宇宙のほかに、薬師如来、阿シュク如来といった“神のような存在”が統括する宇宙(浄土)もあったようで、阿弥陀如来だけの考え方ではないようです。

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 阿弥陀仏の慈悲に頼めば、「五逆」(父・母・阿羅漢=仏教修行者を殺す、ブッダを傷つける、サンガ[僧伽]を破壊する)と「誹謗正法」(仏教をそしる)をしない限り、阿弥陀浄土に「新たに生まれる」ことができる。(善導さんは五逆・誹謗正法をしても大丈夫と言ったそうです。)
 これが「往生」ですね。ただ、それは「成仏」つまりブッダになることではない。これ、ずいぶん最近になるまで私もはっきりわかっていなかったのですが、
 「往生は成仏ではない」わけです。
 阿弥陀浄土に生まれる。これが「往生」で、そこでまた修行をして、その後にブッダになる(成仏する)。ただし、その修行は「無明のまま輪廻に沈淪する」わけではなく、「必ずブッダになれる」ようなものだとされているようです。往生したら必ずブッダになれるんだから「往生イコール成仏」だというのは、ちょっとぶっ飛ばし過ぎでしょう。
 阿弥陀浄土はあらゆる宇宙のよいところだけを集めた「極楽」(スカーヴァティー=楽を有するところ)の世界ですけれども、ちょっとその詳細はよくわかりません。ただそこで善行をしていればブッダになれるのか。ブッダになれるまでどのくらいの時間がかかるのか。

 それと、「阿弥陀仏の慈悲を信じれば」という条件も、ちょっと曖昧ですね。すべてを捨てて出家してほとんどの時間を「念仏」(阿弥陀仏を心に思い描くこと)しなければだめなのか、毎日「阿弥陀様お願いします」と念じればよいのか、一生に一度でもそれを唱えればいいのか。
 これをめぐって、非常に複雑多様な教論が生まれるわけです。過激に突き進めば(特に日本)、毎日一回でも唱えればいい、いや、一生に一回、臨終の時に唱えるだけでもいい、となって、そうすると、宗教は破壊されます。「ちょ、おめ、仏になるというのは、たいへんな修行修養があって初めてできるもんだろ、何か唱えればOKなんて、そんな宗教があるものか」というわけで、当時の仏教界から念仏は弾圧され、法然は流罪になった。まあ無理もないと言えば無理もない話でしょう。

 しかし、いい教えではないでしょうか。
 私たちは、叡智を悟った“神のような存在”になりたいと願えば、阿弥陀様にお願いすればよい。そうすれば、苦しい修行などしなくても、汚辱と苦悩ばかりのこの世の輪廻から脱け出て、「安楽の国」に生まれることができ、そこで修行をすれば必ず“神のような存在”になることができる。
 釈尊以来の(実はウパニシャッド以来の)「真理を知る人々は不死の生命を得、そうでない人々は輪廻の苦に囚われ続ける」という難題が、一気に解決することになる。……

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 付け加えておくと、よく「地獄と浄土(極楽)」と対比的に言われますが、厳密に言えば「浄土」の反対語は「地獄」ではなく「穢土」です。「地獄」は六道の一つですが、浄土はその六道輪廻世界を超えた世界ということで、この六道全体の大部分が「穢土」ということになるのでしょう。
 六道の最高界である「天」は、もともとのインド思想では「神々の住む至高世界」だったのでしょうけれども、仏教ではそこも「衰え」があり、また輪廻の宿命に戻らなければならない世界とされました。そのようにして「天界」が価値減少してしまったので、新たな「至高世界」が措定されなければならなくなった。しかし「仏の絶対界」は絶対超越性を保持しておかなければならない。そこで「娑婆世界(輪廻世界)」と「絶対界」との中間境域として、浄土というものが想定されざるを得なかったということなのかもしれません。


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2 コメント

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Unknown (今来学人)
2011-07-07 19:48:03
ご無沙汰しております。
どういう話の展開になるか楽しみです。
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Unknown (高森光季)
2011-07-08 01:44:23
お、今来さん、おいでいただいてましたか。早速のレスありがとうございます。
また過激な論になりそうなので、ちょっと自分でも心配になっています(笑い)。
なにとぞご指導のほどを。
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