梶井基次郎の草稿か日記に、こんな話がありました。数十年前のうろ覚えなので、細部はあやしいですが。(ちなみに私は青春時代、梶井が大好きで、全集を隅から隅まで読みました。『冬の日』は「最も美しい日本語の文学作品」の一つだと思っています。)
《友人と夜道を歩いていたら、急に男の人がやってきて、両手で大事そうに包み込んでいるものを見せようとする。見ると、手の中で蛍が一匹、美しい光を放っている。
「あっちで見つけたんですよ」とその人は妙に興奮したような口調で言う。
「きれいですね」と言って別れた後、私と友人は「きっとびっくりして、誰かに見せたくなったんだろう」と話し合った。》
それだけの話です(笑い)。でも、これが妙に記憶に残っています。
これこそ、「世界への意志」ではないかと。(もちろんこの「世界」は国際社会ということではありません。「私」の外側すべてということです。)
「世界への意志」という言葉は、これも数十年前、たぶんニーチェの本で見たように記憶しています。ただ、どこにあったかわからない。ググってみてもそれらしい文章は見つからない。(碩学の方、ご教示いただければ幸いです。)
「力への意志」はニーチェの基本概念になっています。「権力への意志」と訳されることもあるようですね。
しかし、「力への意志」は、「世界への意志」の一面、しかも頽落した一面ではないでしょうか。
「世界への意志」というのは、なんか難しいことを言いたいのではなく、単に、「素晴らしい体験・発見をした時、人はそれを世界に向かって発信したくなる」ということです。
珍しい蛍を見つけた時、特別な発見をした時、新たな美を探り当てた時、この世の真実に迫るような宗教体験をした時……
前のエントリで、お釈迦様の「菩提樹下の悟りの後」の話を書きました。お釈迦様は、真実を悟り、「この真実を人に伝えることはできないだろう」と思い、そのまま入滅しようとした。つまり死んでしまおうとしたわけです。それを、「梵天(最高神)」が引き留めた、と。
このお釈迦様の「転回」も、実は「世界への意志」があるからではないか。
それは欲望、我欲ではない。人間の魂が持っている根本的な志向性、捨て得ない本質ではないでしょうか。別に発信することでお金を儲けようとか権力を得ようということではない(それは頽落した形態であって、つまり発語が力への意志だというニーチェ/フーコー流の解釈は偏見ではないか)。自分の得にはならないどころか、しばしばそれをなすことが苦しいこと、疲れることでさえあることもある。けれども、それに向かわざるを得ない。
燃えたぎっている恒星に彗星が衝突し、激しい火焔が吹き上げるような、生きているということそのものに付随する活動。
(まあ、それすらも抹消しようとした人もたくさんいたとは思いますが。何にでも例外というものはあるもので。)
私はイエスのあの活動も、同様のものではなかったかと思ったりします。巨大恒星に巨大彗星が衝突すれば、とんでもないフレアが巻き上がる。あの魅惑的な混乱はそれを物語っているような気がします。
前のエントリのコメントで「使命感」ということが出ましたが、この「世界への意志」が純化され、結晶化したものが、「使命感」なのではないでしょうか。
* * *
「使命感」を抱いて行動する人の中には、政治的、組織宗教的(集団救済的)活動に没頭する人もいます。
私は個人的にはこれを好きになれません。中には立派なものもあるでしょうが、往々にしてヒステリックになったり、傲岸不遜になったり、攻撃的になったりするからだと思います。
政治的、集団宗教的使命感は、「力(権力)への意志」「他者支配」を含んでしまうものです。それは「世界への意志」「純粋な使命感」を損なうものではないでしょうか。
政治的命題は、「他者を従わせること」を含んでいます。
「原発廃止」運動は、「危険が多少あっても原発を使って豊かで活力ある社会を作りたい」と思う人を否定します。逆に「原発促進」運動は、「危険があるよりは貧乏な社会の方が望ましい」と思う人を否定します。
要するに、露骨に言うと、政治的運動とは「俺の言うことを聞け」というものだということになる。
「棲み分け」ができればいいんでしょうけどね。A県は原発ありで産業活発、B県は原発抜きで貧しいが安全。好きな方に住みましょう、と。しかしそういう「棲み分け要素」は無限にあるし(たとえば高福祉高負担or低福祉低負担とか)、住む場所はそう簡単に移動できないこともあるし、そんなことは現実にはまずできない(「複数の政府を競争させろ」と主張した政治哲学者もいましたが)。
まあそれを議論して何とか折衷案(落としどころ)を見いだすか、最終的には多数決で決めるかして、政治は進んでいく。どうやっても理想にはならないものです。
よき政治家や宗教者は、力によって他人を変えようとはしない。ただ呼びかけて、自発的な参加を求めるだけですね。そういうものなら政治的・宗教的使命感も悪いものではないような気がしますが。
* * *
純粋な使命感の発露とは、表明すること、表現すること、自ら実践してみせること、などにあると思います。
つまり、「世界への意志」は「表現への意志」でもあるわけです。
お釈迦様は深い悟りを得た。だがそのまま入滅せず、他者へ表現することへ向かった。イエス様は叡智の言葉を語り病者を癒すだけに留まらず、より過激な表現(エルサレムでの反逆)へ向かった。
それによって何が得られるか、人は理解するか、世界は動くか、そういうことはもうどうでもよくなっている。それは神のみぞ知る、私はただ使命を、私の中で強く動いている意志を全うするだけだ、と。
「表現」は、人間の精神の根本的な営為なのではないでしょうか(誰もがそれを持っているかどうかはわかりませんが)。
芸術は、まさしく純粋な「表現」であり、「世界への意志」です。芸術家は、内にあるもやもやとした「美への衝動」を、悪戦苦闘して形に表現しようとします。彼らはただそうしたいからしているのであって、本来はそれによって富や栄誉を得ようとしているのではない(純粋な芸術家はということですがw)。他者にそれが伝わるか、理解されるかも、保証されない。実際、ゴッホだってモジリアーニだって、青木繁だって田中一村だって、まったく無名のまま死んだわけですし、いまだに、あるいは永遠に無名のまま死んだ芸術家も厖大にいるでしょう。
余談ですけど、私は縄文土器がけっこう好きです。初めて井戸尻考古館(信濃境)でずらっと並んだ現物を見た時は、圧倒されました。どういう意図で、何の意味を込めて、それらの造形がなされたのかはほとんどわかっていません。実際何度見てもわかりません。けれども、だからこそ逆に、その表現への情熱、パワーがむき出しに迫ってきます。どんな意図・意味があったにせよ、それを作っていた人々は、強烈な「表現することの至福」を味わっていたに違いありません。
神人交会文深鉢:井戸尻考古館
原始の洞窟壁画なども同じ感じがします。呪術的な意味があったとかいう解釈もありますが、そしてそれも否定できないでしょうが、そこにあるのは、「表現」への熱情、歓喜です。絵を描くことがどれほど喜びだったか。こういうものを見ていると、「芸術」こそ人間の証だ、と思ってしまいます。
* * *
「世界への意志」「表現への意志」は、霊的にも重大な意味を持っていると思います。
それは、「創造への参与」だからです。(「神の創造」への参与と言いたいのですが、少し語弊があるのでただ「創造」にしておきましょう。「神」は人間が知りうるものではないし。)
「創造」とは、「大いなるイデア」が「形相」へと顕現することです。その顕現は様々なレベルがありますが、その最も“低い”レベルが現世です。物質という鈍重で頑固で客観的(誰にも共通)なものの世界に、高いところから降り注いでくるかすかなイデアの光を顕現させること。
それが創造であり表現であり、それを促すものが「世界への意志」である、と。
イデアというのは様々で、多面的です。「美」に参与すれば芸術活動となる。「真」に参与すれば知的探究となる。「善」に参与すれば宗教や教育や奉仕の活動になる。
つまり、芸術家も、智者も、求道者も、「大いなる創造」に参与している。
で、自分は何をもって創造への参与を果たすか。
それを見いだし、覚悟し、実践することが、真の「使命感」なのではないでしょうか。
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