’birch99的スピリチュアリズムを基盤として’カテゴリーからの投稿です。
先に、霊界からの良い働きかけが自動的に行われる様々な場面での「人の役に立つ
」行為に関する記述を行ったわけですが、もう一つの、瞑想や祈りなどによって霊
界からの良い働きかけを受け取りやすくすることについて考えてみましょう。まず
は、「心構え」からです。
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ブッダがさとりの中で見たものは、さまざまな人が、業の法則に従って、生まれ変わり死に変わりしていくという姿であった。そしてそれ全体を動かしているモメントは欲であり無明であるというものだった。ブッダはこのようなことをさとったことで、「自分はもう生まれ変わらない」と宣言した。
しかし、改めて考えてみると、これはいささか無理な説ではないだろうか。
輪廻の原因や仕組みを知った。だからもう輪廻しない。 . . . 本文を読む
近代の学者たちは、輪廻というものをあまり真正面に論じたがらないし、ブッダの言説の中に、輪廻の主体としての霊魂のようなものを否定するような言説もあるので、近代のブッダ像では、中心は哲学的あるいは心理学的な命題にあるように描かれるが、ブッダが徹頭徹尾輪廻の問題を離れることがなかったことは、晩年の説教からも窺える。
たとえば、晩年、故郷への旅の途次、ナーディカ村での説法では、一人の信者から、世を去 . . . 本文を読む
「スピリチュアリズムと聖典」については一休みします。
一昨日、大人数の宴会であまりヨロシクない酔い方をしてしまいました。失態です。何か大きな粗相をしでかした、ということではないのですけれども、二次会以降はだいたいにおいて傍若無人なクソ野郎であり続けたなと。
軽薄、軽率な言動の数々、我ながら浅ましい酔態で、自己救済のための告白みたいになるので具体的な供述はしませんけれども、シラフになって思い返す . . . 本文を読む
近代の仏教学者は、ブッダのさとり体験は、きわめて理知的・認識的・哲学的なものであったと捉える傾向がある。万物は非実体であるとか、因果律とか、我は不変ではないとか、そういう「真理」を会得したっことがさとりだと言う。
確かに、ある真理を認識すれば、より高位な生存状態に移行できるというのは、理知的な人々には受けのよい考え方である。だが、本当にそうだろうか。
ある種の「真理」を発見した時に、当人に . . . 本文を読む
さて、一番重大、かつ難問である、ブッダの「さとり」について少し外野から考えてみる。
ブッダのさとりとはこういうものだった、という定説はない。ブッダ自身が、自分のさとりとはこういうものでした、と明確に広く主張した形跡もない。
近代仏教学では、ブッダがさとったのは、「十二因縁」だとか「四諦八正道」だとか「中道」だとか、いろいろと論じられている。あるいは、それらは後になって形式的に整備されたもので . . . 本文を読む
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先にみてきたように、私たちはこの世で生きている間も、良くも悪くも霊界からの
働きかけを受けているようです。その働きかけはポジティブな方向へもネガティブ
な方向へも増幅されるように思います。シルバーバーチはそれは同じ摂理の働きだ
と語っていますね。
この「増幅されている感覚」は、なかなか認識することは難しいですね。一般 . . . 本文を読む
ブッダの布教への意欲は、「さとり」の静寂さとは打って変わって、ある種の政治性すら感じさせるほどの強烈さを持っていた。
まず彼は、5人の求道者に論戦を挑み、これを論破した。もちろん教祖伝に「負けた」などという記述が出るわけがないが、それでも、ブッダは非常に頭脳明晰で議論の力もあったようである。
次に彼は、マガダ国ウルヴェーラーで、1500人の信者を持っていたカッサパ三兄弟と対決する。カッサパの . . . 本文を読む
王国と家族を捨てたブッダは、修行の生活に入る。
まず彼は、二人の仙人から禅=瞑想を学んだという。これも一般の日本人が誤解しているところで、禅は仏教の専売特許ではない。ブッダにいたるまでにインドには分厚い瞑想の伝統があった。
ブッダはまず、アーラーラ仙という仙人について、「無所有処定」の禅を学んだとされる。平たく言えば、「何ものにも執着しない無一物の状態となった禅定」というところらしい。そして . . . 本文を読む
前回からの続きをダラダラ書きかけていて、記憶にあるバーチの言葉をとりあえず正確に引用(翻訳だけど)しておこうとシルバー・バーチの霊訓(十二)を紐解いて、それっぽい言葉を探しているうちにあっという間に引き込まれてしまう。言葉の力が強いっす。で何を探していたんだっけ?・・・まあいいや。
(霊的)真理というやつは“世界三大霊訓”その他“代表的な”“定評ある”霊信のみに閉じ込められているはずもなく、その . . . 本文を読む
西欧近代の学問、特に文献学、歴史学、比較宗教学が、諸宗教の起源や歴史について、明らかにしたことは非常に多い。
西欧では、実証主義的な方法で聖書研究が進み、歴史上のイエスについて、そして聖書の成立過程について、まったく新たな知見が打ち出された。そこから生まれてきた「史的イエス」像は、正統キリスト教が説く「神の子イエス」とまったく異なるものだった。
それと同じように、近代の仏教学においても、ブッ . . . 本文を読む
仏教は厄介である。定義がはっきりしないからである。
仏教は「八万四千の法門」と自ら認めるほど、様々な派があり、説くところも様々である。互いに矛盾するような内容が仏教という看板の中にひしめいている。「仏教とは何でしょう」と聞いて、一言(とは言わずともまあせめて使徒信条くらいの条文)で答えが返ってくることはないし、返ってきたらそれは逆に怪しいくらいである。
キリスト教がイエス抜きでは成立しないも . . . 本文を読む
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スピリチュアリズムを学んで、それまでに全く意識していなかった思考・感覚として、「霊
界からの働きかけ」という概念があげられます。(守護霊様に守られているなあと思った事
くらいはありますが)
シルバーバーチの霊訓では、この「霊界からの働きかけ」を「霊界からの援助」という言葉
で再三にわたり伝えてきています。
下記にシ . . . 本文を読む
「宗教」というのはとてつもなく広い概念で、そこにはいろいろなものが含まれるわけですけれど、実はその大もと、一番初めの核は、ひとつのことだと思います。
それは、「見えない存在」「見えない世界」とどういう交渉をするか。
「見えない存在」とは、「神」とか「神々」とか「神仏」とか「霊」とか、が代表。
「見えない世界」とは、「天国」「浄土」「霊界」など。当然「死後世界」全般もあります。
微妙なも . . . 本文を読む
スピリチュアリズムを語る際に、時にもどかしく思うのが主張のより所をはっきりと特定して示せないことです。宗教組織ではないので教義が存在せず、したがって聖典・正典が存在するはずもなく、そして存在しないところにこそ本質があるとも思うのですけれども、いささか不便であることは否めません。
「スピリチュアリズムとは」「スピリチュアリズムの説くところによると」などと断定してみたい誘惑にかられることがしばしばあ . . . 本文を読む