「達人」あるいは「プロ宗教者」は何を俗人に与えうるのか。 西洋諸学問がはいってきたせいもあって、もはや仏教哲学(とそれに付随する知)は、ごく一部のファンを除いて、俗人が絶対必要とするものではなくなりました。まあ、今の仏教者や仏教学者は、それでも俗人に役立つ知があるよと説得を続けていて、それなりに受容者は得ているようですが、全体から見ればごく一部分に過ぎません。寂聴さんなんかが人気を博して、それに . . . 本文を読む
宗教的探究を長年行ない、何らかの「よきもの」を得た人は、一般人に対してどう接するのか。 この主語は「達人」でもいいですし、「プロ宗教者」でもかまいません。(教義教典の解説学者はここには含みません。) これは仏教に限らず、大問題です。 お釈迦様の古代インドの話はよくわかりませんし、あまり論じる意味はないように思いますので、日本に話を限ることにします。 仏教が入ってきた時、二つの形態がありました。一 . . . 本文を読む
大きな仏教史の流れで見るなら、禅とは「瞑想による悟り」に特化した宗教だと言えます。 これはもちろん釈迦の探究と軌を一にするものです。ただし、釈迦の「悟り」とは、「叡智を得、無明を脱することで、苦である輪廻を超え出る」というものでした。瞑想はあくまで手段で、関係がはっきりしないけれども他の様々な営為(禁欲[戒]や智慧[慧]や善行[正道]や)とあいまって、その先に悟りがある。初期仏教ではその悟りに達 . . . 本文を読む
個人的な話で恐縮ですが。 つらつら思い返してみると、習俗(葬儀)ではなく、仏教の思想と出会ったのは、三島由紀夫『金閣寺』だったと思います。金閣寺は臨済宗(相国寺)ですから、臨済録の言葉がちょこちょこ出てくる。特に「南泉斬猫」の話が強烈でした。 社会に出て(おお、もう30年以上も前だ)、まわりにちょぼちょぼ禅マニアがいまして、その影響で『臨済録』とか禅問答のまとめ本なんかを読みました。けっこう面白 . . . 本文を読む
これはちょっとスピリチュアリズムの教えからははずれる(というかむしろ反する)ことなので、いささか抵抗があるのですけれども、宗教を考えていく上でははずせないことなので、書いてみることにします。ちょっと与太話になりそうですが(いつもそうだろうがw)。 密教の中心は「修法」(ずほう、しゅほう、すほう)です。加持祈祷の行ないですね。 ちゃんとした資格を持った僧はこれを修することによって、霊的存在とつなが . . . 本文を読む
密教というと、私たちは真言宗を思い浮かべますが、密教は固有名詞ではなく、仏教の一「部門」です。「密義(密儀)宗教」(エソテリズム)という言葉にすれば世界の諸宗教のうちいくつかを指す概念になります。さらに「秘義(秘儀)」というもの、つまり平信徒や外部には公表しない部分というのは、「秘密」を標榜しない宗教にもしばしばあります。カトリックで言えば「悪魔祓い」(エグゾシズム)は、最近はずいぶん知られるよ . . . 本文を読む
「達人宗教」という概念があります。もとはウェーバーでしょうか。 達人だけが関与できるもの。対立語は「大衆宗教」です。 お釈迦さんの宗教(求道)、そして初期仏教も、達人宗教です。悟りを求めたい人だけが、生業・家を捨てて専心修行をする。奇妙なことに、当時のインド(一部では今も?)は、そういった「求道者」を一般人が支援するという文化があったようです。精神性が高いというのか、民度が高いというのか。何せ1 . . . 本文を読む