「一定の方法によって、人間は高次の存在――輪廻を超えた仏菩薩――になれる」としたのが密教の主眼であった。(基本的に「なれる」のは死後のことだが、一部には「生きたまま」とする立場もあった。)
密教の方法とは、神秘的な儀式によって高次の霊的存在と契約関係を結ぶこと、瞑想や苦行を通して霊的能力を開発すること、そして自ら意識を持ったまま高次霊界に参入すること(いわゆる「脱魂」体験)、それらによって輪廻 . . . 本文を読む
筆者の視点から端的に(というよりいささか乱暴に)ブッダの構想した仏教をまとめると、次のようになる。
①生は煩悩にまみれ、無明である(叡智に欠ける)ので、苦である。
②[その苦なる生は輪廻によって繰り返される。]
③さとりを開き叡智を得、正しい行ないをしていけば、[輪廻を超え出ることができ、]苦である生は終わる。
④その叡智の核心として、「依他起性・無自性空」を始めとする「反実在」の哲学が . . . 本文を読む
輪廻からの解脱を至上命題としていた仏教は、次第に力点を「煩悩の消滅」「我の消失」へと移していく。「生の苦しみ」の大半を作っているのは確かに煩悩であり、それを消滅させれば生は苦でなくなる。……とこれは本当だろうか。
ブッダないし仏教の教えを学び、欲望の対象はかりそめのものだと納得し、戒律によって様々な欲望をつぶしていけば、生は苦でなくなるのか。
おそらく、通常のやり方では無理だろう。いくら頭で . . . 本文を読む
やがて仏教は、ブッダの最重要課題である輪廻超脱の問題を前面から取り下げがちになっていく。ブッダが霊魂といった主題を「無記」や「反実体論」によって封じてしまったため、論理的に整合性がなくなってしまったのかもしれない。あるいは、輪廻超脱は特に珍しい思想ではなく、ウパニシャッドでもジャイナ教でも説かれていたことだったから、もっと違う道を歩む必要があったのかもしれない(新しい宗教は新しい考え方を求めるの . . . 本文を読む
結局、初期仏教の教えは「四諦八正道」が中心であるようだ。
ただ、前にも述べたように、「八正道」とはどうも最大公約数的な教えで、漠然としていて、はっきり言うとインパクトがない。「正しいことをしなさい」だけで大宗教ができるのだろうか。
仏教がその後大きく発展を遂げていく要因は何だろうか。
いろいろな説があるようで、たとえば「カースト」を否定したとか、「僧伽(サンギャ)」つまり出家者による「托 . . . 本文を読む
あまり触れたくないことだが、ブッダの教えに関しては、「無我」「空」といった問題を避けて通れない。
この問題は、きわめて厄介である。二千年に及ぶ延々とした議論があり、近代に入ってからもたくさんの仏教学者・哲学者が論じている。そこに入り込むと、まあ抜けられない。筆者の粗雑な頭では到底ついていけないところも多い。だからあまり触れたくない。
だから、素朴な疑問をいくつか記すだけにする。
ブッダは . . . 本文を読む
ブッダがさとりの中で見たものは、さまざまな人が、業の法則に従って、生まれ変わり死に変わりしていくという姿であった。そしてそれ全体を動かしているモメントは欲であり無明であるというものだった。ブッダはこのようなことをさとったことで、「自分はもう生まれ変わらない」と宣言した。
しかし、改めて考えてみると、これはいささか無理な説ではないだろうか。
輪廻の原因や仕組みを知った。だからもう輪廻しない。 . . . 本文を読む
近代の学者たちは、輪廻というものをあまり真正面に論じたがらないし、ブッダの言説の中に、輪廻の主体としての霊魂のようなものを否定するような言説もあるので、近代のブッダ像では、中心は哲学的あるいは心理学的な命題にあるように描かれるが、ブッダが徹頭徹尾輪廻の問題を離れることがなかったことは、晩年の説教からも窺える。
たとえば、晩年、故郷への旅の途次、ナーディカ村での説法では、一人の信者から、世を去 . . . 本文を読む
近代の仏教学者は、ブッダのさとり体験は、きわめて理知的・認識的・哲学的なものであったと捉える傾向がある。万物は非実体であるとか、因果律とか、我は不変ではないとか、そういう「真理」を会得したっことがさとりだと言う。
確かに、ある真理を認識すれば、より高位な生存状態に移行できるというのは、理知的な人々には受けのよい考え方である。だが、本当にそうだろうか。
ある種の「真理」を発見した時に、当人に . . . 本文を読む
さて、一番重大、かつ難問である、ブッダの「さとり」について少し外野から考えてみる。
ブッダのさとりとはこういうものだった、という定説はない。ブッダ自身が、自分のさとりとはこういうものでした、と明確に広く主張した形跡もない。
近代仏教学では、ブッダがさとったのは、「十二因縁」だとか「四諦八正道」だとか「中道」だとか、いろいろと論じられている。あるいは、それらは後になって形式的に整備されたもので . . . 本文を読む
ブッダの布教への意欲は、「さとり」の静寂さとは打って変わって、ある種の政治性すら感じさせるほどの強烈さを持っていた。
まず彼は、5人の求道者に論戦を挑み、これを論破した。もちろん教祖伝に「負けた」などという記述が出るわけがないが、それでも、ブッダは非常に頭脳明晰で議論の力もあったようである。
次に彼は、マガダ国ウルヴェーラーで、1500人の信者を持っていたカッサパ三兄弟と対決する。カッサパの . . . 本文を読む
王国と家族を捨てたブッダは、修行の生活に入る。
まず彼は、二人の仙人から禅=瞑想を学んだという。これも一般の日本人が誤解しているところで、禅は仏教の専売特許ではない。ブッダにいたるまでにインドには分厚い瞑想の伝統があった。
ブッダはまず、アーラーラ仙という仙人について、「無所有処定」の禅を学んだとされる。平たく言えば、「何ものにも執着しない無一物の状態となった禅定」というところらしい。そして . . . 本文を読む
西欧近代の学問、特に文献学、歴史学、比較宗教学が、諸宗教の起源や歴史について、明らかにしたことは非常に多い。
西欧では、実証主義的な方法で聖書研究が進み、歴史上のイエスについて、そして聖書の成立過程について、まったく新たな知見が打ち出された。そこから生まれてきた「史的イエス」像は、正統キリスト教が説く「神の子イエス」とまったく異なるものだった。
それと同じように、近代の仏教学においても、ブッ . . . 本文を読む
仏教は厄介である。定義がはっきりしないからである。
仏教は「八万四千の法門」と自ら認めるほど、様々な派があり、説くところも様々である。互いに矛盾するような内容が仏教という看板の中にひしめいている。「仏教とは何でしょう」と聞いて、一言(とは言わずともまあせめて使徒信条くらいの条文)で答えが返ってくることはないし、返ってきたらそれは逆に怪しいくらいである。
キリスト教がイエス抜きでは成立しないも . . . 本文を読む